【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

激動の夜から、季節はめぐり――。
一時は崩壊しかけたレイストール王国は見事な、そして驚異的な速度で復興を遂げていた。
アルヴィーノが一切の容赦なく兵や官僚を文字通り馬車馬のように動かして組織を再編し、レオがその冷徹な笑顔の裏で同じように騎士団員たちを限界まで駆り立てて治安とインフラを叩き直す。
そして、新王アルフレッドが彼らの破天荒な動きを支えるため、終わりの見えない書類の山を連日連夜、徹夜で捌ききった。
レイストールの男たちの狂気とも言える「執念」が結実したのだ。
王都の町並みはかつての美しい姿を取り戻し、通りには活気ある人々の笑い声が響き、行き交う馬車や商人の姿が日常の輝きを取り戻していた。
そんな、穏やかな陽光が差し込むある日のこと。
王宮の最奥、ルミの眠る私室は静寂に包まれていた。
完璧な漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノは、日中の殺人的な公務を終え、いつものようにルミのベッドの傍らに腰を下ろしていた。

「……ルミ」

細く可憐な、けれど未だに眠り姫のように物言わぬルミの右手を、アルヴィーノは自身の大きな両手で包み込むようにして握りしめる。
どれだけ季節が流れても、あの子は目を覚まさない。
どれだけ言葉を尽くしても、その美しい水色の瞳が私を映すことはない。
そんな終わりの見えない絶望的な日々を送りながらも、アルヴィーノの溺愛と執着は薄れるどころか、より深く、禍々しいほどに純化していた。
連日の激務による疲労と、この部屋を包む穏やかな静けさのせいだろうか。
いつもは隙のない慈悲なき軍師が、ルミの手を握ったまま、珍しくこっくりと頭を揺らし、うつらうつらと心地よい微睡みに身を委ね始めていた。

――その時だった。

カサリ、と。
アルヴィーノの手の中で、ずっと動かなかったルミの指先が、微かに、本当に微かに動いた。

「……っ?」

一瞬でアルヴィーノの意識が覚醒する。
切れ長の紫瞳が見開かれ、ベッドの上の少年へと視線が吸い付けられた。
まるで、世界が再生を終え、主の帰りを待つ準備がすべて整ったその『時』を計っていたかのように。
ルミの長い睫毛がパチパチと微かに震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼が持ち上がっていく。
そこから現れたのは、長い眠りのせいで少し潤んだ、けれどあの懐かしい、透き通るような美しい水色の瞳。

「……ぁ、…………」

小さな唇から、掠れた、けれど確かに生きている人間の吐息が漏れる。
水色の瞳が、ゆっくりと焦点を結び、目の前で驚愕に目を見開いている最愛の男性の姿を、真っ直ぐに捉えた。

「……アル、ヴィーノ……?」

それは、夢にまで見た、現世へと連れ戻した伴侶の声だった。

「……え、っと、……俺……?」

ルミは水色の瞳を何度かパチパチと瞬かせながら、まだ霧がかかったように重いはっきりとしない頭を、小さく左右に振った。
首を動かすと、サラリと水色の長髪が枕の上で音を立てる。
最後に覚えているのは、オズワルドの悍ましい呪詛に蝕まれていく感覚と、愛するアルヴィーノにこれ以上の負担をかけまいと、自ら胸を貫いた、あの冷たい絶望の記憶。

(確かに俺、あの時、死んだはずなのに……)

不思議なことに、胸の痛みはどこにもない。
それどころか、柔らかいシーツの感触と、窓から差し込むぽかぽかとした温かいお日様の光が、酷くリアルに肌に伝わってくる。

「……ここは、どこ……? もしかして、天国……なの……?」

長い眠りのせいで完全にトーンが抜けてしまった、ぽやぽやとした間の抜けた声が、ルミの唇からこぼれ落ちる。
天国にしては、目の前にいる大好きな王子の表情が、まるで今にも泣き出しそうなほど歪んでいて、ひどく必死に見えるのが不思議だった。

「……いいえ、違いますよ、ルミ」

低く、酷く愛おしそうに震える声が響いた。
次の瞬間、視界が漆黒の軍服で遮られる。
アルヴィーノは、ベッドの上の小さな身体を、まるで二度と離さないとばかりに、壊れるほどの力強さでその腕の中へと掻き抱いた。

「っ、アルヴィーノ……?」
「天国などではありません。ここは現世、私たちのレイストール城……私の、腕の中です」

きつく、きつく抱きしめる腕の隙間から、アルヴィーノの熱い吐息と、狂おしいほどの心臓の鼓動がルミの胸へと直接伝わってくる。
いつもの冷酷な軍師の姿はどこにもない。
ただ、気が狂うほどの季節を待ち続け、ようやく最愛の伴侶を取り戻した一人の男の執着と溺愛のすべてが、その抱擁に込められていた。
アルヴィーノはルミの柔らかな水色の髪に顔を埋め、万感の思いを込めて、その耳元で低く、けれど確かに囁いた。

「おかえりなさい、ルミ。……よく、私の元へ戻ってきてくれました」

その力強い温もりと、自分の名前を呼ぶ愛おしげな声に触れた瞬間、ルミの水色の瞳から、ぽろぽろと温かい涙が溢れ出した。

「う、……ひぐっ、……ぅ……」

アルヴィーノの広い胸に顔を埋めたまま、ルミの小さな身体が激しくしゃくり上げた。
ぽやぽやとしていた頭に、目覚める直前まで見ていた、あの昏い闇の記憶が濁流のように押し寄せてくる。
オズワルドに心を操られ、人形のようになって、大好きなアルフレッドやレオに刃を向けたこと。
王城を、国をめちゃくちゃに壊してしまったこと。
そして何より、世界で一番大切な、愛するアルヴィーノを、自分のこの手で激しく傷つけてしまったこと。

(俺、たくさん酷いことをした……。あんなに、あんなにみんなを傷つけて、アルヴィーノにも悲しい顔をさせて……っ)

罪悪感と恐怖で、胸が張り裂けそうになる。
けれど、今こうして自分を壊れるほど強く抱きしめてくれているアルヴィーノの温もり、その心臓の音、肌の匂い――すべてが、自分の犯した罪を怒るためではなく、ただ純粋な愛と狂おしいほどの歓喜で満たされていることを、ルミの魂が敏感に感じ取っていた。
今は、先のことを考えるのはやめよう。
どんな罰でも受ける。
どんな償いでもする。
けれど、今この瞬間だけはやっと、やっとこの大好きな腕の中に、大好きな人の元に戻ってこれたことが、たまらなく、涙が出るほど嬉しかった。

「……っ、う、あ……アル、ヴィーノ……っ」

ルミは溢れる涙でぐしゃぐしゃになった顔をアルヴィーノの肩に擦り付け、その漆黒の軍服を、細い指先で引きちぎらんばかりに強く強く掴んだ。
涙で完全に掠れてしまった、けれどこれ以上ないほど愛おしさに満ちた声を絞り出す。

「……ただいま、……っ、ただいま……アルヴィーノ……! ぅわぁぁぁん……っ!」

もう離さないでと言わんばかりに、全力でその胸にしがみつくルミ。
その涙ながらの「ただいま」を聞いた瞬間、アルヴィーノはさらに腕の力を強め、あの子の背中を、愛おしくてたまらないというように何度も、何度も大きな手で撫でさすった。

「ええ、ええ……おかえりなさい、私のルミ。もうどこへも行かせません。貴方を脅かすものは、この私がすべて、世界の果てまで滅ぼし尽くしてあげますから……」

漆黒の軍服にルミの涙が染み込んでいく。
季節を巡り、地獄のような夜を乗り越えた二人の魂が、今、ようやく本当の意味で現世(ここ)に重なり合っていた。


数時間後。

「ルミくん――っ!!」

バァン!! と、普段の威厳はどこへやら、王宮最奥の部屋の扉を文字通り跳ね飛ばす勢いで開けたのは、新王アルフレッドだった。
手にはまだ処理の途中だったであろう重要書類が数枚握られており、執務室からここまで文字通り全速力で走ってきたことを物語っている。

「――ルミにぃ……!」

そのアルフレッドのすぐ背後から、同じく息を荒くして飛び込んできたのはレオだ。
いつもの冷徹なポーカーフェイスは完全に崩れ去り、新緑の瞳をこれ以上ないほど見開いてベッドへと視線を走らせている。

「ルミ、さま……っ!」

そして、レオの長いマントの裾をぎゅっと掴み、転びそうになりながらも必死についてきたリリィが、涙目のまま部屋へと滑り込んできた。
ルミの目覚めという奇跡の報せは、瞬く間に城内を駆け巡り、三人はすべての公務と予定を完全に放り出して、その日のうちにこの部屋へと殺到したのだ。
部屋の中では、ベッドの上に上体を起こし、まだ少し名残惜しそうにアルヴィーノに寄り添っていたルミが、突然の騒がしい来客たちに「えっ……?」と水色の瞳を丸くしていた。
その隣には、感動の再会を邪魔されて、この世の終わりほどに不機嫌な、般若のような顔をしたアルヴィーノがいつもの椅子に座っている。

「みんな……アルフレッド様、レオ、リリィちゃん……っ」

ルミが驚き、けれどすぐに嬉しそうに顔を綻ばせた瞬間。

「本当によかった……! 本当に、戻ってきてくれたんだね……っ!!」

アルフレッドが書類を放り出してベッドの傍らへと駆け寄り、ルミの細い両手をそっと、けれど壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
その碧眼には、すでに大粒の涙がたまっている。

「私が……私が、貴方をこの手で……っ。本当に、申し訳ありませんでした……! ルミにぃ、私は、貴方がいなければ、もう……っ」

レオもまた、ベッドの前に膝をつくようにして崩れ落ち、包帯の巻かれた手を震わせながらルミのシーツを掴んだ。
狂愛から始まった歪な執着、そして自分の手でこの少年を手にかけかけたという凄絶な罪悪感が、彼の声を激しく震わせる。

「みんな無事でよかった……っ」

ルミは自分に縋るようにして泣き出しそうな二人を見て、胸を締め付けられながらも、あたたかい笑みを浮かべた。
自分が犯した罪、操られていたとはいえ彼らに向けた刃のことを思い出し、一瞬だけ身体を硬くしたものの、それ以上に彼らが自分を「生きて戻ってきた」と心から歓迎してくれていることが、たまらなく愛おしかったのだ。

「ルミ、さま……っ。よかった、……おめめ、あいて……よかったぁ……っ」

リリィがレオの後ろからトコトコと這い出るようにしてベッドの端に近寄り、ルミの白い服の袖をそっと掴んで、ぽろぽろと涙を流す。

「リリィちゃん、泣かないで? 俺、もうどこにも行かないから。ただいま、リリィちゃん」

ルミが優しく微笑み、空いた左手でリリィの白い髪を撫でてあげると、リリィは「ひぐっ、……う、うん……!」と嬉しそうに声を詰まらせた。
感動と、涙と、安堵の空気が、長い間冷え切っていた最高医療室の奥を優しく包み込んでいく。

「……おい、そこの不躾な侵入者ども」

だがその時、部屋の温度を一瞬で氷点下まで引き下げるような、低く冷徹な声が響いた。
全員の視線が、椅子の背もたれに深く寄りかかり、腕を組んで三人を見下ろしているアルヴィーノへと向く。
その紫瞳は、まるで害虫を見るかのように冷え切っていた。

「主への挨拶が終わったのなら、速やかに退室しなさい。ルミは目覚めたばかりです。兄上の終わらない書類の山も、レオの放り出した騎士団の訓練も、まだ山積みのままでしょう? 私のルミをこれ以上疲れさせるというのなら、今度こそその首を文字通り撥ね飛ばしますが?」

いつもの、慈悲なき軍師の容赦ない言葉。
けれど、その言葉の裏にある「ルミをこれ以上誰にも傷つけさせない、奪わせない」という絶対的な溺愛を、今ここにいる全員が痛いほどに理解していた。

「あはは……アルヴィーノ、怒らないで? みんな、俺のために来てくれたんだから」

ルミがくすくすと笑いながらアルヴィーノの袖を引くと、アルヴィーノはフイッと視線を逸らしつつも、その怒気をごく僅かに和らげた。
失いかけ、狂気と執念で泥泥になりながらも、地獄の底から手繰り寄せた絆。
かつての日常とは少し形を変えたけれど、レイストールの城に、ようやく本当の「救い」と、賑やかな光が戻ってきた瞬間だった。
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