【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を
アルヴィーノが部屋を去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。
窓の外からは、ようやく激動の夜が明けたことを告げる、穏やかな朝の光が差し込み始めていた。
「――う、……あ、っ……」
不意に、隣のベッドから苦痛に満ちた掠れた声が漏れた。
アルフレッドが視線を向けると、髪をシーツに散らせたレオが、パチリと新緑の瞳を開いた。
だが、その瞳にはまだ混濁した絶望の光が色濃く残っている。
「叔父上、……ルミにぃ、……私は、私は二人を――ッ!」
アルフレッドが目覚めた時と全く同じ反応だった。
レオはハッとしたように勢いよく上体を起こすと、自身の血塗られた両手を凝視し、狂乱の続きに呑み込まれそうになって呼吸を激しく乱す。
脳裏に焼き付いた罪の意識が、目覚めた瞬間に彼を襲ったのだ。
「レオ様……っ!!」
その時、ベッドの傍らにうずくまるようにして、彼の目覚めをずっと待っていた小さな影が弾かれたように飛び出した。
雪のように白い髪を揺らし、赤い瞳から大粒の涙をボロボロと溢れさせながら、リリィがレオの胸元へと泣きながら強く抱きついた。
「レオ様……! よかった、……よかったぁ……っ! 目を、さまして……くれて……っ、うわぁぁぁん!!」
「っ、リリィ……? なぜ、貴方がここに……」
小さな身体をガタガタと震わせ、必死に自分に縋り付いて泣きじゃくる少女の温もりに触れ、レオの暴走しかけていた意識が、急速に現世へと引き戻されていく。
彼は壊れ物を扱うかのように、包帯が巻かれた自身の両手でそっとリリィの背中を包み込んだ。
「リリィさん、ずっと君のそばを離れようとしなかったんだよ。君が目を覚ますのを、一晩中泣きながら待っていたんだ」
静かな声が、部屋に響いた。
レオが視線を向けると、隣のベッドで上体を起こした父アルフレッドが、穏やかだが、どこか酷く疲れ切った笑みを浮かべて彼らを見つめていた。
「父上……。私は、あの時……術式に魔力を……。叔父上たちは、どうなったのですか……? 届かなかったのですか……!」
焦燥に駆られる息子に対し、アルフレッドはゆっくりと首を横に振った。
「落ち着きなさい、レオ。……成功したんだよ」
「え……?」
「さっきまでね、アルヴィーノがそこに座って、いつものように私を馬鹿にしていたよ。紛れもない、本物の彼だった」
アルフレッドは、先ほどアルヴィーノから聞かされた話を、一つ一つ丁寧にレオへと伝えた。
自分とレオの魔力によってアルヴィーノが現世に引き戻されたこと。
そして目覚めたアルヴィーノが、残された自身の魂と命のすべてを賭して、さらに禁術を重ねてルミの魂をも冥府の底から手繰り寄せたこと――。
「叔父上が……ルミにぃを……。では、二人とも……」
レオの新緑の瞳に、信じられないというような、そして堰を切ったような救いの光が差し込んでいく。
「ああ。アルヴィーノの執念が、二人をこの世界に繋ぎ止めた。肉体の傷は完全に塞がり、心臓も動いている。……ただ、ルミくんはオズワルドの呪詛のせいで、魂の消耗が激しすぎてね。アルヴィーノの話では、まだ深い眠りについたまま、目を覚まさないらしいんだ」
アルフレッドは、ルミが眠る別室の方へとそっと視線を向け、穏やかに、けれど確かな希望を込めて告げた。
「器は満たされている。あとは……ルミくんが、あの子が自ら目を覚ましてくれるのを待つだけだよ」
その言葉を聞いたレオは、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、リリィを抱きしめたまま、シーツの上に深く深く、安堵の息を吐き出した。
まだ完全に終わったわけではない。
けれど、最悪のバッドエンドからは、彼らの狂気とも言える執念によって、確かに未来が手繰り寄せられていた。
◆
最悪の夜が明けてからのレイストール城は、まさに文字通りの地獄絵図、怒涛の大忙しさだった。
「陛下! 隣国からの緊急書状です!」
「東棟の崩落現場、魔術的な汚染の浄化が追いつきません! 宮廷魔術師の増員を!」
「負傷した騎士たちの治療費と、殉職した者たちへの手当の予算案、至急ご確認を!」
復帰早々、アルフレッドの執務机を埋め尽くしたのは、文字通り天井に届かんばかりの大量の書類の山だった。
オズワルドの陰謀を阻止し、全滅こそ免れたものの、レイストール王国が受けた傷跡はあまりにも深かった。
宮廷魔術師の大半は禁術の負荷で未だに前線を離脱しており、王宮の建物への被害も甚大。
「……よし、この予算案は通す。隣国への書状は私が直筆で書く。次の会議まであと何分だ……?」
アルフレッドは寝不足の碧眼をこすりながら、かつての朗らかな王からは想像もつかないほどの冷徹な手際で、凄まじい量の公務を捌き続けていた。
それは、騎士団長であるレオも同じだった。
傷の癒えきらない身体のまま前線に立ち、騎士団の再編成と王都の治安維持、崩落した建物の撤去作業の指揮に追われる毎日。
めまぐるしく過ぎる日々の中で、レオの支えになっているのは、執務室の片隅で静かに自分の帰りを待ってくれているリリィの存在だけだった。
――そして、あの凄絶な夜から一週間ほどが経った頃。
「――いつまで不細工に足踏みをしているのですか。全員、死ぬ気で手を動かしなさい。動けない者は置いていきます」
漆黒の軍服を完璧に着こなした「慈悲なき軍師」アルヴィーノが、ついに現場へと復帰した。
己の命と魂を限界まで削ったはずの男は、驚異的な執念で活動可能な状態まで身体を戻すと、復帰したその日から冷酷無比な采配を振るい始めた。
生き残った兵や官僚たちをまさに「馬車馬」のように昼夜問わず働かせ、その頭脳でレイストールの復興速度を数倍へと跳ね上げていく。
あまりの容赦のなさに周囲は悲鳴を上げていたが、彼が冷徹に動けば動くほど、王国が確実に形を取り戻していくのもまた事実だった。
誰もが、前を向いて狂ったように走り続けている。
この最悪の傷跡を、一刻も早く過去のものにするために。
しかし――。
王宮の最奥、厳重に警護された一室のベッドの上。
柔らかい陽光が差し込むその部屋で、水色の美しい長髪をシーツに広げたルミは、未だに静かに眠ったままだった。
その胸は規則正しく上下し、温かい体温も、確かな心音も、そこにはある。
アルヴィーノがすべてを賭けて手繰り寄せた魂は、間違いなくその器の中に収まっているはずなのに、ルミは長い睫毛を微かに震わせることもなく、深い深い拒絶の闇の中に閉じこもるように、一向にその瞳を開けようとはしなかった。
昼夜を問わず冷酷に働き続けるアルヴィーノが、深夜、誰もいなくなったその部屋を訪れ、冷たくなったルミの手を握りしめながら、ただじっとその寝顔を見つめ続けていることを、アルフレッドもレオも知っていた。
窓の外からは、ようやく激動の夜が明けたことを告げる、穏やかな朝の光が差し込み始めていた。
「――う、……あ、っ……」
不意に、隣のベッドから苦痛に満ちた掠れた声が漏れた。
アルフレッドが視線を向けると、髪をシーツに散らせたレオが、パチリと新緑の瞳を開いた。
だが、その瞳にはまだ混濁した絶望の光が色濃く残っている。
「叔父上、……ルミにぃ、……私は、私は二人を――ッ!」
アルフレッドが目覚めた時と全く同じ反応だった。
レオはハッとしたように勢いよく上体を起こすと、自身の血塗られた両手を凝視し、狂乱の続きに呑み込まれそうになって呼吸を激しく乱す。
脳裏に焼き付いた罪の意識が、目覚めた瞬間に彼を襲ったのだ。
「レオ様……っ!!」
その時、ベッドの傍らにうずくまるようにして、彼の目覚めをずっと待っていた小さな影が弾かれたように飛び出した。
雪のように白い髪を揺らし、赤い瞳から大粒の涙をボロボロと溢れさせながら、リリィがレオの胸元へと泣きながら強く抱きついた。
「レオ様……! よかった、……よかったぁ……っ! 目を、さまして……くれて……っ、うわぁぁぁん!!」
「っ、リリィ……? なぜ、貴方がここに……」
小さな身体をガタガタと震わせ、必死に自分に縋り付いて泣きじゃくる少女の温もりに触れ、レオの暴走しかけていた意識が、急速に現世へと引き戻されていく。
彼は壊れ物を扱うかのように、包帯が巻かれた自身の両手でそっとリリィの背中を包み込んだ。
「リリィさん、ずっと君のそばを離れようとしなかったんだよ。君が目を覚ますのを、一晩中泣きながら待っていたんだ」
静かな声が、部屋に響いた。
レオが視線を向けると、隣のベッドで上体を起こした父アルフレッドが、穏やかだが、どこか酷く疲れ切った笑みを浮かべて彼らを見つめていた。
「父上……。私は、あの時……術式に魔力を……。叔父上たちは、どうなったのですか……? 届かなかったのですか……!」
焦燥に駆られる息子に対し、アルフレッドはゆっくりと首を横に振った。
「落ち着きなさい、レオ。……成功したんだよ」
「え……?」
「さっきまでね、アルヴィーノがそこに座って、いつものように私を馬鹿にしていたよ。紛れもない、本物の彼だった」
アルフレッドは、先ほどアルヴィーノから聞かされた話を、一つ一つ丁寧にレオへと伝えた。
自分とレオの魔力によってアルヴィーノが現世に引き戻されたこと。
そして目覚めたアルヴィーノが、残された自身の魂と命のすべてを賭して、さらに禁術を重ねてルミの魂をも冥府の底から手繰り寄せたこと――。
「叔父上が……ルミにぃを……。では、二人とも……」
レオの新緑の瞳に、信じられないというような、そして堰を切ったような救いの光が差し込んでいく。
「ああ。アルヴィーノの執念が、二人をこの世界に繋ぎ止めた。肉体の傷は完全に塞がり、心臓も動いている。……ただ、ルミくんはオズワルドの呪詛のせいで、魂の消耗が激しすぎてね。アルヴィーノの話では、まだ深い眠りについたまま、目を覚まさないらしいんだ」
アルフレッドは、ルミが眠る別室の方へとそっと視線を向け、穏やかに、けれど確かな希望を込めて告げた。
「器は満たされている。あとは……ルミくんが、あの子が自ら目を覚ましてくれるのを待つだけだよ」
その言葉を聞いたレオは、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、リリィを抱きしめたまま、シーツの上に深く深く、安堵の息を吐き出した。
まだ完全に終わったわけではない。
けれど、最悪のバッドエンドからは、彼らの狂気とも言える執念によって、確かに未来が手繰り寄せられていた。
◆
最悪の夜が明けてからのレイストール城は、まさに文字通りの地獄絵図、怒涛の大忙しさだった。
「陛下! 隣国からの緊急書状です!」
「東棟の崩落現場、魔術的な汚染の浄化が追いつきません! 宮廷魔術師の増員を!」
「負傷した騎士たちの治療費と、殉職した者たちへの手当の予算案、至急ご確認を!」
復帰早々、アルフレッドの執務机を埋め尽くしたのは、文字通り天井に届かんばかりの大量の書類の山だった。
オズワルドの陰謀を阻止し、全滅こそ免れたものの、レイストール王国が受けた傷跡はあまりにも深かった。
宮廷魔術師の大半は禁術の負荷で未だに前線を離脱しており、王宮の建物への被害も甚大。
「……よし、この予算案は通す。隣国への書状は私が直筆で書く。次の会議まであと何分だ……?」
アルフレッドは寝不足の碧眼をこすりながら、かつての朗らかな王からは想像もつかないほどの冷徹な手際で、凄まじい量の公務を捌き続けていた。
それは、騎士団長であるレオも同じだった。
傷の癒えきらない身体のまま前線に立ち、騎士団の再編成と王都の治安維持、崩落した建物の撤去作業の指揮に追われる毎日。
めまぐるしく過ぎる日々の中で、レオの支えになっているのは、執務室の片隅で静かに自分の帰りを待ってくれているリリィの存在だけだった。
――そして、あの凄絶な夜から一週間ほどが経った頃。
「――いつまで不細工に足踏みをしているのですか。全員、死ぬ気で手を動かしなさい。動けない者は置いていきます」
漆黒の軍服を完璧に着こなした「慈悲なき軍師」アルヴィーノが、ついに現場へと復帰した。
己の命と魂を限界まで削ったはずの男は、驚異的な執念で活動可能な状態まで身体を戻すと、復帰したその日から冷酷無比な采配を振るい始めた。
生き残った兵や官僚たちをまさに「馬車馬」のように昼夜問わず働かせ、その頭脳でレイストールの復興速度を数倍へと跳ね上げていく。
あまりの容赦のなさに周囲は悲鳴を上げていたが、彼が冷徹に動けば動くほど、王国が確実に形を取り戻していくのもまた事実だった。
誰もが、前を向いて狂ったように走り続けている。
この最悪の傷跡を、一刻も早く過去のものにするために。
しかし――。
王宮の最奥、厳重に警護された一室のベッドの上。
柔らかい陽光が差し込むその部屋で、水色の美しい長髪をシーツに広げたルミは、未だに静かに眠ったままだった。
その胸は規則正しく上下し、温かい体温も、確かな心音も、そこにはある。
アルヴィーノがすべてを賭けて手繰り寄せた魂は、間違いなくその器の中に収まっているはずなのに、ルミは長い睫毛を微かに震わせることもなく、深い深い拒絶の闇の中に閉じこもるように、一向にその瞳を開けようとはしなかった。
昼夜を問わず冷酷に働き続けるアルヴィーノが、深夜、誰もいなくなったその部屋を訪れ、冷たくなったルミの手を握りしめながら、ただじっとその寝顔を見つめ続けていることを、アルフレッドもレオも知っていた。