【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

「……私が目覚めた時、最高医療室はまさに地獄絵図のようでしたよ」

アルヴィーノは閉じた魔導書の表紙を長い指先でトントンと叩きながら、淡々と語り始めた。

「最初は、何が起こったのか全く把握できませんでした。現世の理が捻じ曲げられた歪みで空間はひび割れ、床には赤黒い魔法陣の残滓が不気味に脈打っている。その周囲には、脳を焼き切られて白目を剥いた宮廷魔術師たちが、文字通り死屍累々と転がっている。そしてその中心で、兄上とレオが血塗れのまま、死んだように倒れていましたからね」

彼は一度言葉を区切り、切れ長の紫瞳を少しだけ細めた。

「そして、兄上のすぐ傍らに、その禍々しい書物が転がっていた。……それを見た瞬間、すべてを察しましたよ。かつて私に『絶対に使うな』と偉そうに説教を垂れた聖人君子の兄上が、まさか蘇生魔法のさらに深淵、世界の理を冒涜する『死者を呼び戻す禁術』に手を染め、私を冥府の底から力ずくで引きずり戻したのだとね」

アルヴィーノの口調は呆れたような、けれどどこか冷徹な現実を噛み締めるような響きを帯びていた。

「ですが、私を呼び戻したところで、あなた方のプランは片手落ちだった。私のすぐ隣に横たわるルミはまだ、冷たいままでした。あなた方の魔力も命も、私一人の器を修復して引き戻すだけで、完全に限界を迎えて底を突いていた。……ルミのいない世界に呼び戻されるなど、私にとってはただの嫌がらせでしかないというのに」

そこまで言うと、アルヴィーノはふっと自嘲気味に、けれど絶対的な意思を孕んだ笑みを浮かべた。

「ですから、私がやるべきことは一つしかありませんでした。あなた方が命懸けで私の『器』を繋ぎ止めてくれたのなら、その繋がったばかりの身体を使って、今度は私がルミを連れ戻す。……それだけです」
「アルヴィーノ、君……まさか……」

アルフレッドの顔が驚愕に強張る。
ただでさえ禁術の代償でボロボロだったはずの肉体で、さらに術を重ねるなど、正気の沙汰ではない。

「ええ。目覚めたばかりの私の身体には、魔力などカスほども残っていませんでした。ですが、私を誰だと思っているのです? ――魔力が足りないのなら、残された私の魂の残量、肉体の寿命、すべてをもう一度燃料として燃焼させればいい。消滅する前に術を完成させれば、それで済む話です」

彼は何でもないことのように言い切った。
最愛の少年を現世へ連れ戻すためなら、自分の命が残り数秒になろうとも構わない。
魔王と呼ばれた男は、目覚めてすぐに、自らの存在のすべてを賭けて再び禁忌の深淵へと足を踏み入れたのだと、静かに告げた。

「それで……ルミくんは……? ルミくんは無事なのか、アルヴィーノ」

アルフレッドは縋るような目を弟へと向け、掠れた声で尋ねた。
自分とレオのすべてを賭した禁術、そしてアルヴィーノが己の存在すべてを燃焼させて重ねた二重の禁忌。
その結果、最愛の少年がどうなったのか、それだけが今の彼の最大の関心事だった。
アルフレッドの問いに、アルヴィーノはそれまでの不遜な態度から一転、静かに視線を落とした。
いつもなら真っ直ぐに相手を射抜く切れ長の紫瞳が、わずかに泳ぎ、所在なげに医療室の白い床へと向けられる。

「……ふぅ」

重苦しい、深い溜息がアルヴィーノの唇から零れ落ちた。

「……まだ、目覚めません」
「何だって……? 失敗、したのか……!?」

アルフレッドの顔に絶望の色が走りかける。
だが、アルヴィーノは小さく首を横に振った。

「いえ、呼び戻すこと自体には成功しています。肉体の損傷は私が完全に修復しましたし、魂も間違いなくその器へと定着させました。心音も、呼吸も、確かに刻まれています」

アルヴィーノはそう言って、自身の胸元に手を当て、どこかやり切れないような、沈痛な声音で言葉を続けた。

「……ルミは、私よりも先に逝ってしまった。オズワルドの呪詛に蝕まれ、自ら命を絶ったあの子の魂は、私が現世に引き戻されるよりもずっと前に、冥府の深い、深い底へと沈みかけていたのです。それを無理やり引きずり上げるのには、私の想像以上の時間と、負荷がかかりました」

全属性を操り、禁術の最適化を行える彼を以てしても、すでに現世との繋がりを完全に断ち切られかけていたルミの魂を手繰り寄せるのは、至難の業だったのだ。
辛うじて現世の肉体へと繋ぎ止めることはできたものの、その魂が負った疲弊はあまりにも大きい。

「魂の修復と定着、それだけで私の残されたリソースのすべてを使い果たしました。器は満たされているというのに、あの子は眠り姫のように、深い眠りから未だに目を覚まそうとしない……。現世に魂が戻ってきたというのに、拒まれているかのように、一向にその瞳を開けてはくれないのです」

アルヴィーノの声には、いつもの冷酷な軍師としての威厳はなく、ただ、愛しい伴侶をこの手で抱き締めながらも、その心が未だに遠い場所にあることを嘆く、一人の男としての、酷く脆く、哀しい響きが混ざり合っていた。

「今はただ、あの子が自ら目を覚ましてくれる時を待つだけです。……どれだけ時間がかかろうとも、ね」

アルヴィーノはそう言って、ルミが眠る別室の方へと向けていた哀しげな視線を断ち切るように、再びアルフレッドへと向き直った。
その瞬間、彼の顔には先ほどの脆さなど欠片もなかったかのように、いつもの冷徹で不遜な「慈悲なき軍師」の表情が張り付く。

「――で? 禁術を初めて使った感想はいかがですか、兄上? 散々私に偉そうな説教をしておきながら、随分と不細工に血を流していたようですが。ご自身の浅はかさを少しは自覚できましたか?」

いつもの意地が悪い、皮肉混じりの問いかけ。
アルフレッドは、そのあまりにもブレない弟の態度に、毒気を抜かれたように「はぁ……」と、この日一番の深い溜息を吐き出した。

「……手厳しいね、アルヴィーノ。感想、か……。ただ一言、改めて君の凄さを思い知らされたよ。こんな悍ましい負荷を、君は今まで一人で平然と肩代わりしていたんだね……。僕なんて、レオが来てくれなければ術の完成前に消し飛んでいたよ」

アルフレッドは苦笑しながら、まだズキズキと痛む頭を押さえ、疲れ切った身体を再び柔らかいベッドのクッションへと深く沈めた。
かつて自分が正しいと信じていた「聖なる教え」がいかに生ぬるいものであったか、そして弟がどれほどの地獄を一人で歩んでいたのかを痛感し、完全に降参といった様子で目を閉じる。
その答えを聞いたアルヴィーノは、フッと鼻で笑い、当然でしょうとばかりに見下ろすような視線をアルフレッドへと向けた。

「私の領域に追いつこうなど、百年早いと言ったはずです。自分の身の程を知るいい機会になったのではありませんか」

いつも通りの傲慢な態度。だが、アルヴィーノはそのまま部屋を出ようとはせず、少しの間、沈黙した。
白く冷たい医療室に、眠るレオの静かな呼吸音だけが響く。
やがて、アルヴィーノは小さく息を吸うと、いつもの鋭い声音を少しだけ和らげ、ぽつりと呟くように言葉を紡いだ。

「……ですが、初めてであの規模の深淵禁術を起動させ、私を引き戻すまで術式を維持し続けたこと……その執念だけは、評価して差し上げます」
「え……?」

驚いてアルフレッドが目を開けると、アルヴィーノはすでに彼から背を向け、扉へと歩き出していた。
漆黒の軍服の背中が、一瞬だけ立ち止まる。

「……ありがとうございました、兄上。私を……そして、ルミを救う機会を繋いでくれて」

ボソリと、だが確実に、軍師ではなく一人の「弟」としての、嘘偽りのない本音の謝辞だった。
アルフレッドが目を見開く中、アルヴィーノは振り返ることもなく、静かな動作で医療室の扉を開け、ルミが眠る部屋へと向かって去っていった。
残されたアルフレッドは、遠ざかる足音を聞きながら、かつて冷え切っていた弟との絆が、この最悪の夜を経て、確かに形を変えたことを実感していた。
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