【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を

オズワルドという汚点は消えた。物理的な痕跡も、歴史の中に残る記録さえも、アルヴィーノが放った虚無の光がすべてを無へと還した。
しかし。
そこに残されたのは、血の海の中で永遠の眠りについた、愛しい少年の亡骸だけ。
世界を支配する絶対的な力も、軍師としての明晰な頭脳も、地位も、名誉も。
愛するルミがいないこの無機質な世界において、何の意味があるというのか。

(……ああ。そうか)

アルヴィーノはふらりと歩を進め、ルミの冷たくなった傍らに膝をついた。
もう、誰も彼を「王子様」とは呼ばない。
彼だけが向けてくれたあの天真爛漫な笑顔も、恥ずかしそうに髪を揺らす仕草も、もう二度とこの世には存在しない。
この広大な世界は、ルミという存在を失った瞬間から、ただの澱んだ泥沼へと成り果てたのだ。

「ならば、還ろう……。こんな、何一つ価値のない、空っぽの世界など」

アルヴィーノの唇が、呪詛を紡ぐように動き出す。
それは、古の魔王たちが遺し、二度と紐解かれるはずがなかった【禁術中の禁術】。
この世界の法則そのものを基盤から崩壊させ、大地も、空も、星々も、神の理すらもすべてを灰燼に帰す、破滅の最終詠唱。
詠唱が始まると同時に、アルヴィーノの足元からこの世のものとは思えぬ禍々しい闇が噴き出し、王都の地面に亀裂を走らせる。
ルミの魂を連れ去ったこの忌々しい世界そのものを、道連れにしようというのか。

「いけない……ッ! アルヴィーノ!!」

アルフレッドの絶叫が響いた。
弟の瞳に宿る、もはや修復不可能なほどの「破壊への渇望」を感じ取り、王としての矜持も理性もすべて投げ打って、彼はアルヴィーノへと駆け出した。

「叔父上、やめてください!! そんなことをしても、ルミにぃは喜びません!!」

レオもまた、魔剣を捨て、地を蹴る。
禁術の余波で空気すら焼けるような熱気の中、二人は死にもの狂いで、滅びの化身と化したアルヴィーノの元へ飛び込んでいく。
だが、アルヴィーノはすでに、現世の境界線を越えかけていた。
彼の手元には、世界を構成する素粒子を強制的に分解する、漆黒の極大魔法陣が、あやしく、けれど美しく回転を始めている。

「……終わらせましょう。……こんな、ルミのいない世界なんて……」

アルヴィーノの意識は、すでにルミとの幸福な記憶と、その喪失による絶望の底に沈み込んでいる。
破滅の歌声は、いよいよ高まり、大地を震わせる。
王と騎士団長は、最愛を失った魔王の絶望を、その命を賭してでも止めなければならない――。

「――『天を欺き、地に呪いを、因果の鎖をいま解き放たん』……」

アルヴィーノの唇から紡がれる言葉は、もはや人間の言語の形を成していなかった。
神を呪い、世界の理そのものを噛み砕く、絶対的な滅びの旋律。

「アルヴィーノ! 目を覚ますんだ、アルヴィーノ!!」
「叔父上!! 止まってください、これ以上は本当に何もかもが……っ!!」

アルフレッドとレオが死に物狂いで叫び、その身を焦がすような魔力の嵐に逆らって手を伸ばす。
しかし、彼らの悲痛な叫びは、暴風に掻き消される羽虫の羽音のように、アルヴィーノの壊れた耳には一滴も届かない。
誰の声も、届かない。
かつてルミを縛ったオズワルドの首輪のように、今のアルヴィーノは自らの絶望という名の呪詛で、心を完全に閉ざしてしまっていた。
いくら彼といえど、この【世界そのものを消滅させる禁術】を発動するには、あまりにも長い詠唱を必要とした。
それほどまでに、この術が孕む破滅の質量は、世界の許容量を遥かに超えている。

(こんな世界、いらない。……あの子のいない世界など、存在する価値すらない)

冷酷に、ただ淡々と世界を切り捨てる魔王。
すでに魔力が枯渇している彼の肉体は、術の代償として『魔力』ではなく、アルヴィーノという【存在そのもの】を燃料として削り、魔法陣へと注ぎ込み始めていた。
その瞬間、世界に致命的な異変が起こる。

「……っ!? が、は……っ、な、んだ……これ、は……!?」

アルヴィーノへと肉薄しようとしていたアルフレッドが、突然胸を掻きむしり、激しく血を吐いてその場に頽れた。
身体が重いのではない。
脳の、魂の根幹が、内側から強引に書き換えられていくような、おぞましい喪失感が彼を襲っていた。

「父、上……? 私、は……何を、誰を、止めようと……」

レオの新緑の瞳が、恐怖と混沌に激しく泳ぐ。
目の前で漆黒の軍服を翻し、世界を滅ぼさんとしている【男】の姿が見えている。
それなのに、その男が誰なのか、自分とどういう関係だったのか、その記憶の輪郭が、霧が晴れるように急速に消えていく。
アルヴィーノが自らの「存在」を削って禁術を編み上げているせいが故に、世界の因果から彼の足跡がリアルタイムで消滅していた。
実の弟であるはずのアルフレッドの記憶からも、叔父であるはずのレオの記憶からも、「アルヴィーノ・レイストール」という人間の名前が、声が、共に過ごした時間が、サラサラと砂のように零れ落ちていく。
このまま術が完成すれば、誰も彼を思い出せないまま、世界はただの無へと還る。

(……わからない。私はなぜ、泣いている? なぜ、あの男を殺さなければならないと、こんなにも胸が痛むんだ……!?)
(だめだ、忘れていく……。だけど、だけど……っ!)

記憶は消えかけていた。
絆の糸は、無慈悲に一本ずつ断ち切られていく。
けれど、アルフレッドとレオの魂に刻まれた【本能】だけは、消えなかった。
理由なんて、もう分からなくてもいい。
名前を忘れてしまっても構わない。
ただ、目の前でボロボロになりながら、全てを道連れに逝こうとしているあの哀しい『魔王』を、絶対にここで止めなければならない。
それだけが、レイストール王国の血を引く二人に残された、最期の、そして絶対の意志だった。

「――おおおおおおおおっっ!!!」

記憶を失う恐怖を、ただ目の前の男を救うための怒号へと変え、アルフレッドとレオは、再び光と風を身に纏って、滅びの詠唱を続けるアルヴィーノへと決死の突撃を敢行する。
肉肉しい、そして決定的な破滅の音が、世界を滅ぼさんとしていた戦場に響き渡った。
レオの鋭利な魔剣と、アルフレッドの聖なる加護を宿した杖の先端が、背後からアルヴィーノの胸を同時に、深く、迷いなく刺し貫いていた。
アルヴィーノの漆黒の軍服の胸元から、鈍色の刃と白木の杖が突き抜け、鮮烈な赤がどっと溢れ出す。

「が、……は、っ…………」

世界を消滅させかけていた長い詠唱が、完全に、唐突に途切れた。
アルフレッドも、レオも、自分たちが何をしたのか、本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
記憶の大部分はすでに削り取られ、目の前の男との思い出も、血の繋がりも、何もかもが霧の彼方に消え去っていた。
それでも、こうしなければならないと、魂が、身体が、叫ぶような本能で訴えかけていた。
この哀しい魔王を止められるのは自分たちしかいないのだと。
アルヴィーノを貫いた刃と杖から、彼を物理的に縛り付けるようにして光と風の魔力が流れ込む。
その衝撃によって、彼を取り巻いていたおぞましい虚無の魔力は急速に霧散し、世界を更地にするはずだった漆黒の魔法陣は、ガラスが割れるような音を立ててパリンと四散していった。
静寂が、三度、王都へと戻ってくる。
アルヴィーノは胸から血を流しながら、ギチ、ギチと、力の失われかけた身体を強引に動かして振り返った。
その、光を失いかけていた紫瞳が、かすかに焦点を結び、自らを刺し貫いた二人を捉える。

「……あ、に……うえ……、レ……オ……」

掠れた、けれど確かに、彼らを「家族」として認識している、アルヴィーノ本来の声だった。
自らの存在を削る禁術が止まったことで、因果の消失が食い止められ、二人の脳裏に、サラサラと砂のように消えかけていた「アルヴィーノ」という男の記憶が、濁流のように一気に引き戻される。

「アルヴィーノ……! ああ、私は、私はなんてことを……っ!!」

アルフレッドが我に返り、己の、弟の胸を貫く杖を握ったまま、血の涙を流して絶叫した。

「叔父、上……? 私が、貴方を……っ」

レオもまた、魔剣の柄を握る両手を激しく震わせ、新緑の瞳をこれ以上ないほどに動揺に揺らす。
だが、アルヴィーノの顔には、二人に対する怒りも、世界への未練も、何一つ残されていなかった。
胸を貫く刃を引き抜かせることすら拒むように、彼はただ、ふっと、どこか救われたような、酷く穏やかな微笑みをその唇に浮かべたのだ。

「……感謝、します……。これで、ようやく……ルミの、元へ……」

ごふり、と口から大量の鮮血を吐き出しながら、アルヴィーノの細長い身体が、重力に従ってゆっくりと横に傾いでいく。
ドサリ。
それは、つい先ほど、自ら命を絶った少年のすぐ隣だった。
アルヴィーノは最期の力を振り絞り、血に濡れた自らの左手を、ルミの冷たくなった右手のこぶしへと、そっと重ね合わせた。
かつて私室で、お茶会で、何度も何度も優しく握り締めた、愛しい少年の指先。

「……ル、ミ……、いま……行き、ます、から…………」
ルミの隣に倒れ込んだ魔王は、そのまま、静かにその高貴な紫瞳を閉じた。
胸の上下は完全に停止し、重ね合わされた二人の手からは、急速に体温が失われていく。
邪魔者のいない、最愛もいない、何一つ意味のなかった世界を切り捨て、チート級の魔王は、自らが最も愛した者の魂を追いかけるように、静かに、永遠の眠りへと就いたのだった。
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