【ルミ敵堕ち編】絶望の果てに、世界で一番甘い奇跡を
白亜の宮殿を包む陽光はどこまでも優しく、白薔薇の庭園には、ただ風が葉を揺らす音と、磁器のティーカップが触れ合う澄んだ音だけが響いていた。
どこから見ても、現在のレイストール王国は平和そのものだった。
王たるアルフレッドが掲げる「対話」の理念は大陸中に浸透し、一見すれば戦火の気配など微塵もない。
だがどれほど強固な統治を敷こうとも、国家という巨大な装置の隅々に、些細な不穏の影が這い寄るのは当然のことであった。国境の僅かな歪み、あるいは平和に馴染めぬ狂信者たちの蠢き。
それらは表舞台に出る前に、この国の「影」が密かに、そして冷酷に処理することになっている。
大理石の円卓の傍ら。
「リリィちゃん、このクッキーも美味しいよ。はい、あーん」
「……ぁ……、もぐ……。おいしい、です、ルミさま……」
いつものように天真爛漫な笑顔を浮かべるルミと、その隣でレオの上着を羽織り、小鳥のように身を寄せるリリィ。
二人の周囲だけは、硝子の箱庭のように守られた甘やかな時間が流れていた。
そこへ、密やかな足音が近づく。
芝生を踏みしめて現れたのは、漆黒の軍服を微塵の乱れもなく纏った王弟殿下、アルヴィーノであった。
その切れ長の紫瞳には、平時の退屈さではなく、すでに戦場を見据えた絶対零度の冷徹さが宿っている。
ルミはアルヴィーノの姿を捉えた瞬間、手にしていたトングを置き、小首を傾げた。その可憐な瞳の奥に、一瞬だけ、主人の『冷たき刃』としての鋭い光が走る。
「アルヴィーノ様、お仕事?……俺も、行く?」
その短い問いには、「いつでも世界を更地にする準備はできている」という、従者としての、そして最愛の伴侶としての絶対的な意思が含まれていた。
必要とあれば、このまま白いドレスのようなロリータ服をなびかせ、笑顔で闇魔法を解き放つ覚報がルミにはあった。
だが、アルヴィーノはルミの前まで歩み寄ると、その細い肩にそっと手を置き、静かに首を横に振った。
「いいえ、ルミ。今回は、貴方の手を煩わせるまでもありません」
その声音は低く、酷薄なまでの自信に満ちていた。
「国境沿いの不届き者が、僅かに蟻穴 を穿とうとしているに過ぎない。対話など端から無駄な連中だ。……私が率いる軍だけで、一瞬ですべてを終わらせます」
今回の不穏は、ルミという最高火力の爆弾を投じる必要すらおぞましい、取るに足らない雑兵の群れ。
己の指先一つ、チェスのポーンを数枚動かすだけで完璧に圧殺できる、ただの作業に過ぎないのだと、アルヴィーノの紫瞳が告げていた。
ルミは、アルヴィーノのその冷酷で圧倒的な強者としての眼差しが、たまらなく好きだった。
「そっか。アルヴィーノがそう言うなら、お安い御用だね」
ルミはふわりと椅子から立ち上がると、躊躇うことなくアルヴィーノの胸元へと飛び込んだ。
アルヴィーノもまた、当然のようにその細い腰を片手で抱き寄せる。
ルミは少し背伸びをして、アルヴィーノの冷たい美しい唇に、そっと自らの唇を重ねた。
「いってらっしゃい、アルヴィーノ。早く片付けて、また俺のお茶会に付き合ってね」
「ええ。所要時間は数時間。退屈する間もなく、貴方の元へ戻りましょう」
ルミの唇の温もりをその身に刻み込んだ魔王は、満足げに薄く微笑むと、今度こそ容赦のない破壊を執行するためにマントを翻した。
その背中は、これから一国の軍勢を文字通り消滅させに行くとは思えないほど、優雅で、そして静かだった。
「……アルヴィーノさま、お仕事、いってしまいましたね……」
リリィがか細い声で呟くと、ルミは再びいつもの天真爛漫な男の娘の笑顔に戻り、リリィの向かい側に座り直した。
「うん! アルヴィーノ、お仕事の時はすっごく格好いいんだよ。あ、リリィちゃん、紅茶のおかわり淹れるね。レオが帰ってくるまで、もっといっぱいお話ししよう!」
「……はい、ルミさま……」
遠く国境の彼方で、いま、一つの軍勢が慈悲なき絶望に呑まれようとしている。
その事実を微塵も感じさせないほど、レイストールの庭園は、今日も残酷なまでに美しく、平和そのものの光に満ちあふれていた。
白薔薇の庭園を包む空気は、先ほどアルヴィーノが発った時と変わらず、穏やかな初夏の香りに満ちていた。
国境で蠢く小さな火種。
それを完全に圧殺するため、アルヴィーノに続き、騎士団長であるレオもまた、自らの軍を率いて出陣していった。
静まり返った王宮。
このレイストール王国の闇の陣営には、明文化されることのない「暗黙のルール」が存在していた。
――アルヴィーノとレオ、二人の最凶が同時に戦場へ赴くとき、あるいは一方が窮地を屠りに行くとき。残された最高火力であるルミは、絶対に何があっても、レオの最愛であるリリィの傍を離れず、その身をすべてから守り抜く。
たとえ王都が急襲されようとも、ルミの闇魔法は、リリィを囲う硝子の箱庭を維持するためだけに発動するのだ。
「……、……っ」
大理石の円卓の席で、リリィはレオの仕立ての良い上着の襟を、白く細い指先できゅっと握りしめていた。
新緑の瞳は、主のいなくなった庭園の入り口をじっと見つめたまま、不安げに揺れている。
かつて傷つき、世界を恐れていた彼女にとって、レオのいない時間は、それだけで周囲の影がすべて敵に見えてしまうほどに心細いものだった。
そんなリリィの小さな肩を、ルミはそっと覗き込む。
「リリィちゃん、ほら、顔がすっごく硬くなってるよ? 大丈夫だってば」
ルミはいつもの天真爛漫な、太陽のように眩しい笑顔を浮かべ、トングで新しく焼き上がったばかりの温かいフォンダンショコラをリリィのお皿へと移した。
中からとろりと濃厚なチョコレートが溢れ、甘い香りが一瞬で鼻腔をくすぐる。
「あの二人なら、ぜーったい大丈夫!二人揃って信じられないくらい性格が悪くて強いんだから、今頃国境の悪い虫たちは、泣き叫ぶ暇もなく更地にされてるよ。むしろ可哀想なのは敵のほうなんだからさ」
あはは、と軽やかに笑うルミの声音には、一寸の迷いも、不安もなかった。
それは、自らの最愛であるアルヴィーノへの絶対的な信頼であり、同時に、自分のすぐ隣で戦っていたレオの異常な強さを誰よりも知っているからこその、確信だった。
ルミはフォークをリリィの手に優しく握らせると、その白い髪をポンポンと宥めるように撫でた。
「ほら、冷めないうちに食べて。レオ、帰ってきたらリリィちゃんが元気ないの、すっごく気にするよ? 『私の可愛いお姫様に美味しいお菓子を食べさせておいてくださいと言ったはずですが、ルミにぃ(にっこり)』って、笑顔でネチネチ言われちゃう。俺、アルヴィーノ以外の男の人に怒られるのヤダなー」
おどけたように肩をすくめるルミを見て、リリィは、胸を締め付けていた冷たい結界が、少しずつ解けていくのを感じた。
ルミの言う通りなのだ。
あの部屋を包むおぞましいほどの狂愛と、名前を呼ぶだけで世界を解体するあの二人にとって、今回の不穏など、日常のほんの些細な「雑務」に過ぎない。
「……そう、ですね……。れおさまも、アルヴィーノさまも……とっても、お強いです、ものね……」
リリィは小さく、本当に小さく微笑むと、フォークで温かいフォンダンショコラを一口、口へと運んだ。
じゅわりと広がる圧倒的な甘さが、凍りついていた体温を内側から優しく溶かしていく。
「うん、美味しいです……ルミさま」
「でしょ? いっぱい食べて、レオが『ただいま』って帰ってきたら、一番可愛い笑顔でお迎えしてあげてね」
「……はいっ」
不穏な影など最初から存在しなかったかのように、ルミは再び嬉しそうに紅茶を注ぎ足した。
遠く離れた戦場からの風は、この美しい箱庭には届かない。二人の少年が世界を更地にするその瞬間も、この庭園だけは、ただ甘く、優しく、残酷なほどの平穏に満たされていた。
白薔薇の庭園に、フォンダンショコラの濃厚な甘さと、淹れたての紅茶の香りが満ちていく。
ルミの言葉と温かいお菓子によって、リリィの心を強張らせていた見えない結界が、少しずつ、けれど確実に解けていくのをルミは目の前で見届けていた。
「うん、美味しいです……ルミさま」
リリィがか細い声を紡ぎ、咀嚼するごとにその赤い瞳に微かな生気が戻る。
その様子を満足げに眺めていたルミは、ふと、ある完璧な名案を閃いた。
「――あ、そうだ!」
パン、と小気味よい音を立てて自分の両手を合わせたルミは、何かが弾けたかのように勢いよくその場に立ち上がった。
ガタ、と大理石の円卓の上の食器が微かに揺れる。
「……っ?」
突然のルミの行動に、リリィは驚いたように肩を小さく跳ねさせた。驚愕に丸く見開かれた赤い瞳が、立ち上がったルミを見上げる。
「リリィちゃん、いいこと思いついちゃった! あのね、アルヴィーノとレオが、悪い虫たちをぜーんぶ更地にして帰ってきた時、俺たちからとびっきりのご褒美があったら、二人とも絶対にすっごく喜ぶと思わない?」
「……ご、ほうび……ですか?」
小首を傾げるリリィに対し、ルミは楽しそうに、そしてどこか誇らしげに胸を張って満面の笑みを浮かべた。
「そう! 帰ってきた時に、二人が大好きな甘いもので出迎えてあげるの! アルヴィーノは俺が淹れるお茶と新しい焼き菓子があれば絶対に機嫌が良くなるし、レオも、リリィちゃんの手から甘いものをもらえたら、嬉しくてひっくり返っちゃうよ!」
ルミは円卓をぐるりと回り込み、リリィのすぐ隣まで来ると、躊躇うことなくその白く細い手首を優しく握りしめた。
「そうと決まれば、ここにじっとしてる場合じゃないよ。城下町に行って、とびきり美味しいお菓子の材料か、あいつらが喜びそうな珍しいもの、二人で一緒に探しに行こう! 俺がちゃんとついてるから、お外も怖くないよ。行こう、リリィちゃん!」
「……ぁ、ルミさま……っ」
リリィは驚きに声を漏らしながらも、自分を引っ張るルミの温かい手のひらに、不思議なほどの安心感を覚えていた。
いつもなら、レオのいない「外の世界」に行くことは恐怖でしかなかったはずなのに、いま目の前で太陽のように明るく笑うルミの手は、決して自分を裏切らない、絶対的な守護者のものだと魂が理解している。
アルヴィーノとレオがいない間の、二人の最愛を守るという暗黙のルール。
ルミはリリィの手を引き、城下町へと続く白亜の回廊を軽やかなステップで歩き出した。
「ふふ、二人ともどんな顔するかなぁ。今からすっごく楽しみだね!」
「……はい……。レオさま、よろこんで、くれるでしょうか……」
「絶対に大喜びするって! 保証するよ!」
不穏な気配の残滓を完全に吹き飛ばすような、ルミの天真爛漫な笑い声が響く。
これから二人の策士が血の雨を降らせて更地を作ることも知らず、残された二人の最愛は、彼らを極上の甘さで出迎えるための、愛らしい作戦へと出かけるのだった。
どこから見ても、現在のレイストール王国は平和そのものだった。
王たるアルフレッドが掲げる「対話」の理念は大陸中に浸透し、一見すれば戦火の気配など微塵もない。
だがどれほど強固な統治を敷こうとも、国家という巨大な装置の隅々に、些細な不穏の影が這い寄るのは当然のことであった。国境の僅かな歪み、あるいは平和に馴染めぬ狂信者たちの蠢き。
それらは表舞台に出る前に、この国の「影」が密かに、そして冷酷に処理することになっている。
大理石の円卓の傍ら。
「リリィちゃん、このクッキーも美味しいよ。はい、あーん」
「……ぁ……、もぐ……。おいしい、です、ルミさま……」
いつものように天真爛漫な笑顔を浮かべるルミと、その隣でレオの上着を羽織り、小鳥のように身を寄せるリリィ。
二人の周囲だけは、硝子の箱庭のように守られた甘やかな時間が流れていた。
そこへ、密やかな足音が近づく。
芝生を踏みしめて現れたのは、漆黒の軍服を微塵の乱れもなく纏った王弟殿下、アルヴィーノであった。
その切れ長の紫瞳には、平時の退屈さではなく、すでに戦場を見据えた絶対零度の冷徹さが宿っている。
ルミはアルヴィーノの姿を捉えた瞬間、手にしていたトングを置き、小首を傾げた。その可憐な瞳の奥に、一瞬だけ、主人の『冷たき刃』としての鋭い光が走る。
「アルヴィーノ様、お仕事?……俺も、行く?」
その短い問いには、「いつでも世界を更地にする準備はできている」という、従者としての、そして最愛の伴侶としての絶対的な意思が含まれていた。
必要とあれば、このまま白いドレスのようなロリータ服をなびかせ、笑顔で闇魔法を解き放つ覚報がルミにはあった。
だが、アルヴィーノはルミの前まで歩み寄ると、その細い肩にそっと手を置き、静かに首を横に振った。
「いいえ、ルミ。今回は、貴方の手を煩わせるまでもありません」
その声音は低く、酷薄なまでの自信に満ちていた。
「国境沿いの不届き者が、僅かに
今回の不穏は、ルミという最高火力の爆弾を投じる必要すらおぞましい、取るに足らない雑兵の群れ。
己の指先一つ、チェスのポーンを数枚動かすだけで完璧に圧殺できる、ただの作業に過ぎないのだと、アルヴィーノの紫瞳が告げていた。
ルミは、アルヴィーノのその冷酷で圧倒的な強者としての眼差しが、たまらなく好きだった。
「そっか。アルヴィーノがそう言うなら、お安い御用だね」
ルミはふわりと椅子から立ち上がると、躊躇うことなくアルヴィーノの胸元へと飛び込んだ。
アルヴィーノもまた、当然のようにその細い腰を片手で抱き寄せる。
ルミは少し背伸びをして、アルヴィーノの冷たい美しい唇に、そっと自らの唇を重ねた。
「いってらっしゃい、アルヴィーノ。早く片付けて、また俺のお茶会に付き合ってね」
「ええ。所要時間は数時間。退屈する間もなく、貴方の元へ戻りましょう」
ルミの唇の温もりをその身に刻み込んだ魔王は、満足げに薄く微笑むと、今度こそ容赦のない破壊を執行するためにマントを翻した。
その背中は、これから一国の軍勢を文字通り消滅させに行くとは思えないほど、優雅で、そして静かだった。
「……アルヴィーノさま、お仕事、いってしまいましたね……」
リリィがか細い声で呟くと、ルミは再びいつもの天真爛漫な男の娘の笑顔に戻り、リリィの向かい側に座り直した。
「うん! アルヴィーノ、お仕事の時はすっごく格好いいんだよ。あ、リリィちゃん、紅茶のおかわり淹れるね。レオが帰ってくるまで、もっといっぱいお話ししよう!」
「……はい、ルミさま……」
遠く国境の彼方で、いま、一つの軍勢が慈悲なき絶望に呑まれようとしている。
その事実を微塵も感じさせないほど、レイストールの庭園は、今日も残酷なまでに美しく、平和そのものの光に満ちあふれていた。
白薔薇の庭園を包む空気は、先ほどアルヴィーノが発った時と変わらず、穏やかな初夏の香りに満ちていた。
国境で蠢く小さな火種。
それを完全に圧殺するため、アルヴィーノに続き、騎士団長であるレオもまた、自らの軍を率いて出陣していった。
静まり返った王宮。
このレイストール王国の闇の陣営には、明文化されることのない「暗黙のルール」が存在していた。
――アルヴィーノとレオ、二人の最凶が同時に戦場へ赴くとき、あるいは一方が窮地を屠りに行くとき。残された最高火力であるルミは、絶対に何があっても、レオの最愛であるリリィの傍を離れず、その身をすべてから守り抜く。
たとえ王都が急襲されようとも、ルミの闇魔法は、リリィを囲う硝子の箱庭を維持するためだけに発動するのだ。
「……、……っ」
大理石の円卓の席で、リリィはレオの仕立ての良い上着の襟を、白く細い指先できゅっと握りしめていた。
新緑の瞳は、主のいなくなった庭園の入り口をじっと見つめたまま、不安げに揺れている。
かつて傷つき、世界を恐れていた彼女にとって、レオのいない時間は、それだけで周囲の影がすべて敵に見えてしまうほどに心細いものだった。
そんなリリィの小さな肩を、ルミはそっと覗き込む。
「リリィちゃん、ほら、顔がすっごく硬くなってるよ? 大丈夫だってば」
ルミはいつもの天真爛漫な、太陽のように眩しい笑顔を浮かべ、トングで新しく焼き上がったばかりの温かいフォンダンショコラをリリィのお皿へと移した。
中からとろりと濃厚なチョコレートが溢れ、甘い香りが一瞬で鼻腔をくすぐる。
「あの二人なら、ぜーったい大丈夫!二人揃って信じられないくらい性格が悪くて強いんだから、今頃国境の悪い虫たちは、泣き叫ぶ暇もなく更地にされてるよ。むしろ可哀想なのは敵のほうなんだからさ」
あはは、と軽やかに笑うルミの声音には、一寸の迷いも、不安もなかった。
それは、自らの最愛であるアルヴィーノへの絶対的な信頼であり、同時に、自分のすぐ隣で戦っていたレオの異常な強さを誰よりも知っているからこその、確信だった。
ルミはフォークをリリィの手に優しく握らせると、その白い髪をポンポンと宥めるように撫でた。
「ほら、冷めないうちに食べて。レオ、帰ってきたらリリィちゃんが元気ないの、すっごく気にするよ? 『私の可愛いお姫様に美味しいお菓子を食べさせておいてくださいと言ったはずですが、ルミにぃ(にっこり)』って、笑顔でネチネチ言われちゃう。俺、アルヴィーノ以外の男の人に怒られるのヤダなー」
おどけたように肩をすくめるルミを見て、リリィは、胸を締め付けていた冷たい結界が、少しずつ解けていくのを感じた。
ルミの言う通りなのだ。
あの部屋を包むおぞましいほどの狂愛と、名前を呼ぶだけで世界を解体するあの二人にとって、今回の不穏など、日常のほんの些細な「雑務」に過ぎない。
「……そう、ですね……。れおさまも、アルヴィーノさまも……とっても、お強いです、ものね……」
リリィは小さく、本当に小さく微笑むと、フォークで温かいフォンダンショコラを一口、口へと運んだ。
じゅわりと広がる圧倒的な甘さが、凍りついていた体温を内側から優しく溶かしていく。
「うん、美味しいです……ルミさま」
「でしょ? いっぱい食べて、レオが『ただいま』って帰ってきたら、一番可愛い笑顔でお迎えしてあげてね」
「……はいっ」
不穏な影など最初から存在しなかったかのように、ルミは再び嬉しそうに紅茶を注ぎ足した。
遠く離れた戦場からの風は、この美しい箱庭には届かない。二人の少年が世界を更地にするその瞬間も、この庭園だけは、ただ甘く、優しく、残酷なほどの平穏に満たされていた。
白薔薇の庭園に、フォンダンショコラの濃厚な甘さと、淹れたての紅茶の香りが満ちていく。
ルミの言葉と温かいお菓子によって、リリィの心を強張らせていた見えない結界が、少しずつ、けれど確実に解けていくのをルミは目の前で見届けていた。
「うん、美味しいです……ルミさま」
リリィがか細い声を紡ぎ、咀嚼するごとにその赤い瞳に微かな生気が戻る。
その様子を満足げに眺めていたルミは、ふと、ある完璧な名案を閃いた。
「――あ、そうだ!」
パン、と小気味よい音を立てて自分の両手を合わせたルミは、何かが弾けたかのように勢いよくその場に立ち上がった。
ガタ、と大理石の円卓の上の食器が微かに揺れる。
「……っ?」
突然のルミの行動に、リリィは驚いたように肩を小さく跳ねさせた。驚愕に丸く見開かれた赤い瞳が、立ち上がったルミを見上げる。
「リリィちゃん、いいこと思いついちゃった! あのね、アルヴィーノとレオが、悪い虫たちをぜーんぶ更地にして帰ってきた時、俺たちからとびっきりのご褒美があったら、二人とも絶対にすっごく喜ぶと思わない?」
「……ご、ほうび……ですか?」
小首を傾げるリリィに対し、ルミは楽しそうに、そしてどこか誇らしげに胸を張って満面の笑みを浮かべた。
「そう! 帰ってきた時に、二人が大好きな甘いもので出迎えてあげるの! アルヴィーノは俺が淹れるお茶と新しい焼き菓子があれば絶対に機嫌が良くなるし、レオも、リリィちゃんの手から甘いものをもらえたら、嬉しくてひっくり返っちゃうよ!」
ルミは円卓をぐるりと回り込み、リリィのすぐ隣まで来ると、躊躇うことなくその白く細い手首を優しく握りしめた。
「そうと決まれば、ここにじっとしてる場合じゃないよ。城下町に行って、とびきり美味しいお菓子の材料か、あいつらが喜びそうな珍しいもの、二人で一緒に探しに行こう! 俺がちゃんとついてるから、お外も怖くないよ。行こう、リリィちゃん!」
「……ぁ、ルミさま……っ」
リリィは驚きに声を漏らしながらも、自分を引っ張るルミの温かい手のひらに、不思議なほどの安心感を覚えていた。
いつもなら、レオのいない「外の世界」に行くことは恐怖でしかなかったはずなのに、いま目の前で太陽のように明るく笑うルミの手は、決して自分を裏切らない、絶対的な守護者のものだと魂が理解している。
アルヴィーノとレオがいない間の、二人の最愛を守るという暗黙のルール。
ルミはリリィの手を引き、城下町へと続く白亜の回廊を軽やかなステップで歩き出した。
「ふふ、二人ともどんな顔するかなぁ。今からすっごく楽しみだね!」
「……はい……。レオさま、よろこんで、くれるでしょうか……」
「絶対に大喜びするって! 保証するよ!」
不穏な気配の残滓を完全に吹き飛ばすような、ルミの天真爛漫な笑い声が響く。
これから二人の策士が血の雨を降らせて更地を作ることも知らず、残された二人の最愛は、彼らを極上の甘さで出迎えるための、愛らしい作戦へと出かけるのだった。
1/32ページ