孤高の王子様に、ただひとつの特別を

夜の静寂が、聖リリウム女学院の敷地全体を重く包み込んでいた。
時計の針はすでに夜の遅い時間を指し示している。
寮の食堂で同級生たちと静かに夕飯を終え、自室へ戻ってきてから、どれほどの時間が流れただろうか。
リリアーヌはデスクの灯りの下に腰掛け、手元に広げた本に目を落としていたが、その意識はまったく文字を追っていなかった。
視線は幾度となく部屋の扉へと向かい、静まり返った廊下から聞こえてくるはずの足音に耳を澄ませている。
窓の外はすっかり深い闇に覆われ、時折風が木々を揺らす小さな音だけが響いていた。

(こんなに遅くなるなんて……何かあったのかしら)

胸の中に生じた小さな不安の芽は、時間が経つごとに少しずつ膨らんでいく。
普段であれば、どれほど生徒会の仕事が多忙であっても、夕食の時刻を大きく過ぎるまで戻らないことはなかった。
朝、凛とした佇まいで部屋を出て行った彼女の背中を思い出す。
いくら冷静で優秀な彼女であっても、疲労や予期せぬトラブルに見舞われることはあるはずだ。
ソワソワとした落ち着かない心地のまま、リリアーヌは立ち上がり、姿見の脇にある小さな茶台へ向かった。
冷めてしまったお湯を捨て、新しく鉄瓶に水を注ぐ。
いつでも温かい紅茶を注げるように準備を整えながらも、手元はどこかおぼつかない。
何度もドアノブを注視し、部屋の小さな時計の音に耳を傾ける。
待てども、待てども、彼女は帰ってこない。
リリアーヌが静かに息を吐き、もう一度扉を見つめたそのときだった。
トトン、と微かな、どこか力なく重い足音が廊下の赤絨毯を踏みしめて近づいてきた。
かちりと鍵が回る音がして、重厚な木製の扉がゆっくりと押し開かれる。

「……ただいま、戻りました」

低く細い声が、静まり返った室内に響いた。
そこに立っていたセレフィア姿を目にした瞬間、リリアーヌは思わず息を呑んだ。
白ブレザーのボタンは外され、襟元は少し乱れている。
いつも隙なく整えられている銀に淡い水色が混ざる長髪は、帯びた疲労を隠すように少し崩れ、数本の毛先が肩に力なく垂れていた。
何より、その紫色の瞳の奥に浮かぶ濃い陰りが、彼女が極限まで消耗していることを物語っていた。
背筋は辛うじて真っ直ぐに保たれているものの、その立ち姿からは今にも倒れてしまいそうな痛々しさが滲み出ている。

「セレフィアさん……! お帰りなさいませ。まあ……なんてお顔をして……!」

リリアーヌは思わず駆け寄り、彼女の顔を覗き込んだ。
普段の淡々とした凛々しさはどこへやら、彼女の肌は透けるように白く、疲れ切った吐息が小さな唇から漏れ出ていた。

「申し訳ありません、リリアーヌさん。心配をおかけしましたね……」

セレフィアは力なく口元を微かに緩めようとしたが、その笑みすら途中で消えてしまうほどだった。

「このようなお時間まで……一体、何があったのですか?」

リリアーヌが心配そうに尋ねると、セレフィアは壁に軽く背を預け、手にした書類鞄を重そうにデスクへ置いた。

「……本日は、少々頼まれごとが多く重なってしまいまして」

静かで澄んだ声は、かすかに掠れていた。

「生徒会本来の業務に加え、各部活動からの予算相談や、来月の行事に関する調整……。さらに、下級生からの相談や、教務課からの至急の書類作成が一度に押し寄せてしまったのです。どれも今日中に片付けるべきことでしたので、すべてを終えてから戻ろうとしたところ、こんな時間になってしまいました」

頼まれれば断らず、困っている者がいれば自らの身を削ってでも手を差し伸べる。
それが彼女の美徳であり、周りから「王子様」と崇められる理由でもあった。
けれど、その裏で彼女がいかに過酷な重荷を一人で背負い込んでいるか。
誰に対しても完璧な生徒会長であり続けようとする真面目さが、今こうして彼女の身体を酷使し、極限まで追い詰めているのだ。

「すべてご自身でお片付けになられたのですか……? そんな……お体を壊してしまいます……」

リリアーヌの胸に、激しい痛ましさとやるせなさが込み上げた。
校内の生徒たちが「頼りになる王子様」と彼女を頼る陰で、彼女がどれほどの疲労を隠して笑っていたのかを思うと、胸が締め付けられるようだった。
ふと、リリアーヌは重要なことに思い至り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。

「あの……セレフィアさん。お夕飯は、どうされたのですか? 食堂のお時間は、もうすっかり過ぎてしまっておりますけれど」

その問いかけに、セレフィアは一瞬だけ紫色の瞳を泳がせ、それからいつもの淡々とした口調を取り戻そうとするかのように小さく頷いた。

「……食事でしたら、問題ありません。心配には及びませんよ」

そう言うと、セレフィアは重い足取りで自分のデスクへと歩み寄った。
鞄を横に退け、引き出しの鍵を静かに開ける。リリアーヌが言葉を失って見守る中、彼女が引き出しの奥から取り出したのは、味気ない銀色の包装に包まれた一本のシリアルバーだった。
カサリ、と寂しい音が室内に響く。
セレフィアは慣れた手つきで包装を破ると、それを細い指先で持ち、口元へと運んだ。

「これがありますから。手軽に栄養を補給できますし、これで十分に食事となります」

そう言って、彼女は味気ないシリアルバーを小さく一口齧った。
ボソボソとした素っ気ない音が、静かな部屋にむなしく響き渡る。

「……それが、お夕飯なのですか……?」

リリアーヌの声は微かに震えていた。
一日中、学校のために尽力し、大勢の生徒の願いや困りごとを一人で背負い込み、疲れ果てて帰ってきた彼女の食事が、引き出しに保管された冷たく乾いたシリアルバー一本だというのか。
大勢の生徒が賑やかな食堂で温かい料理を味わい、楽しげに歓談している時間に、彼女は一人で書類に向かい合い、こんなものだけで空腹を満たしていたのだろうか。

「ええ。効率的ですし、時間もかかりませんから」

セレフィアは淡々と、何でもないことのようにそれを咀嚼し、喉へ流し込んだ。
その横顔には感情の起伏がなく、まるで機械に燃料を補給するかのような無機質さがあった。
自分の身体を労わることすら忘れ、ただ役目を果たすためだけに存在しようとする彼女の姿。

「……そんなの、お食事とは言えませんわ」

リリアーヌは胸の奥から押し寄せる感情を抑えきれず、静かに、けれど強い言葉を漏らした。
セレフィアはシリアルバーを口に含んだまま、驚いたように紫色の瞳を見開き、リリアーヌを振り向いた。

「リリアーヌさん……?」
「皆様の王子様として尽くされるのは結構ですけれど……どうしてご自分のお体や、お心をそれほどまでに雑に扱いになるのですか。冷たくて乾いたそのようなものでお食事を済ませて……悲しすぎます……!」

金髪を揺らし、まっすぐに自分を見つめてくるリリアーヌの緑色の瞳には、偽りのない憂いと、大きな温もりが宿っていた。
崇め奉るでもなく、頼るでもなく、ただ「セレフィア」という一人の人間の身体と心を心底案じる言葉。
その温かな眼差しに射抜かれ、セレフィアの手がピタリと止まった。
一口残ったシリアルバーを持ったまま、彼女は言葉を失い、ただリリアーヌを見つめ返した。
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