孤高の王子様に、ただひとつの特別を

放課後のチャイムが校舎に鳴り響いてから、すでにかなりの時間が経過していた。
西の空は深い茜色から濃紺へとゆるやかに移ろい、敷地内の庭園に広がる木々の影が静かに伸びていく。
昼間の賑やかさが嘘のように引いた高等部第1寮の廊下は、しんとした静寂に包まれていた。
リリアーヌは、自室の小さな茶台の前で静かに佇んでいた。
実家から持ち込んだ上質な磁器のティーカップとポットが、夕闇の迫る室内で仄かな光を返している。
木箱から丁寧に取り出した茶葉は、彼女が幼少期から慣れ親しんできた、上品な香りを放つダージリンの最上品だった。
昼食の際、同級生たちから聞いた話を、リリアーヌは放課後もずっと心に残していた。
校内中の憧れを集める「王子様」としての立ち振る舞い。
どこへ行っても注がれる熱視線と、それに伴う休まることのない時間。
大勢の生徒が集まる食堂にすら足を運べず、生徒会室でひとり静かに昼食を済ませているという事実。
そして、今朝誰よりも早く身支度を整え、「朝のうちに片付けておきたい書類がある」と静かに語っていた彼女の背中。

(生徒会のお仕事は、きっと夕方遅くまで続くのでしょう……)

生徒会長という重責を担う彼女が、一日の終わりにこの部屋へ戻ってきたとき、少しでも息を抜ける瞬間を作ることができたなら――。

リリアーヌは姿見の脇に置かれた時計の針をそっと伺った。生徒会の定例業務が終わるであろう時間から逆算し、湯を沸かす準備を進める。鉄瓶から立ち上る細い湯気を見つめながら、茶葉を温めたポットへ落とし込んだ。
かちりと、小さな音がして扉の外から足音が近づいてくる。
規則正しく、けれど一日の疲労を微かに踏みしめるような、どこか静かな足音。
リリアーヌは手際よく湯を注ぎ、蓋をしてじっくりと茶葉が開くのを待った。
湯気とともに、甘く芳醇な香りが室内にゆるやかに広がっていく。
ドアノブが静かに回され、重厚な木製の扉がゆっくりと開いた。

「ただいま戻りました――」

静かな挨拶とともに足を踏み入れたセレフィアは、そこで言葉を途切らせた。
白ブレザーの胸元は少しだけ緩められ、左腕の生徒会長の腕章はすでに外されて手に握られている。
朝の凛とした佇まいにはない、わずかな疲弊を滲ませた紫色の瞳が、室内の光景を捉えて微かに揺れた。
部屋の中に満ちる、上質な茶葉の甘い香り。
そして、中央のテーブルに整然と並べられた磁器のカップと、そこから静かに立ち上る薄い湯気。

「……リリアーヌさん?」

セレフィアは戸惑いを隠しきれない様子で、手にした腕章を握り直した。
普段は感情をほとんど表に出さない彼女の表情に、はっきりと驚きの色が浮かんでいる。

「おかえりなさいませ、セレフィアさん。お仕事、お疲れ様でございました」

リリアーヌは優しく目を細め、丁寧なお辞儀で彼女を迎えた。

「これは……どうされたのですか」
「昼間、クラスの方から伺いましたの。セレフィアさんはいつもお忙しく、お昼も生徒会室で静かにお過ごしになられていると……。一日中、学校のために尽力されているのですもの、お部屋に戻られたときくらいは、温かいお茶で少しお心を休めていただきたいと思いまして」

そう言ってリリアーヌは、黄金色に澄んだ紅茶を丁寧にカップへと注いだ。立ち上る湯気が、二人の間の空間を優しく温めていく。

「さあ、どうぞお掛けになってください。お口に合うとよろしいのですが」

セレフィアは、差し出された椅子と湯気を立てるカップを交互に見つめ、それから吸い込まれるように静かに歩み寄った。
手に持っていた書類鞄と腕章を丁寧にデスクへ置くと、促されるまま椅子へと腰を下ろす。

「……ありがとうございます。ですが、このようなお気遣いをいただくのは、申し訳ありません」

セレフィアは申し訳なさそうに眉をひそめ、低く穏やかな声でつぶやいた。

「いいえ、申し訳ないことなど何もございません。私、このお部屋でセレフィアさんとこうしてお茶をいただくのを、ずっと楽しみにしておりましたの」

リリアーヌも向かいの椅子に腰掛け、自らのカップを手に取った。
セレフィアは静かに細い指先を伸ばし、磁器の取っ手を持ち上げた。
立ち上る湯気を顔に受けながら、ゆっくりと一口、紅茶を口に含む。
甘く深みのある香りと、柔らかな温もりが口内に広がり、身体の奥へと浸透していく。
セレフィアの肩から、すっと余計な力が抜けていくのが目に見えるようだった。

「……とても、美味しいです」

セレフィアはカップをそっとテーブルに戻すと、深く息を吐き出した。
その表情には、校内では決して見せることのない、無防備で穏やかな素顔が覗いていた。

「お気に召していただけて嬉しい……。実家から持ってまいりました茶葉なのですけれど、少しでもお疲れが和らぎますように」
「ええ……本当に、胸の奥まで温かくなります」

セレフィアは紫色の瞳をリリアーヌへ向けた。その瞳には、昼間の凛烈な光ではなく、柔らかな感謝の色が宿っている。

「学校では……誰もが私を『生徒会長』や『王子様』として扱います。困りごとがあれば相談に来られ、頼られることが私の役目ですから、それに不満はありません。ですが……このように、誰かに心を砕いて温かいお茶を淹れていただいたのは、いつ以来か分かりません」

言葉の端々に、彼女が背負い続けてきたものの重さが滲んでいた。
誰もが羨む圧倒的な人気と信頼の裏で、彼女はただ一人の人間として労わられる機会を、ずっと持たずにきたのだ。

「これからは、このお部屋に戻られたら、ただの『セレフィアさん』でいらしてくださいね」

リリアーヌは穏やかな微笑みをたたえながら、静かに言葉を重ねた。

「皆様の王子様でいらっしゃる時間はお外だけで十分です。ここには、貴女を崇める生徒も、頼りにしてくる下級生もおりませんでしょう? 私と、セレフィアさんのおふたりだけなのですから」

その言葉が、どれほど深くセレフィアの胸に届いたか。
セレフィアは静かに目を閉じ、込み上げる何かを噛み締めるように小さく頷いた。

「……そうですね。リリアーヌさんの前では、ただの私でいさせてください」

静かな沈黙が室内を満たす。けれど、昨夜のそれとは違い、互いの心が通い合った温かな沈黙だった。
窓の外は完全に夜の闇へと溶け込み、遠くで静かに風が木々を揺らしている。
鍵のかかった小さな部屋の中で、湯気を立てる二つのカップ。校内の誰も知らない「王子様」の本当の居場所が、そこに確かに生まれていた。
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