孤高の王子様に、ただひとつの特別を
午前中の授業を告げる最後のベルが響き渡ると、聖リリウム女学院の教室にはふっと和やかな空気が満ちていった。
リリアーヌの通うクラスでも、生徒たちが互いに声を掛け合い、昼食の準備を始めている。
同じ学年でありながら、セレフィアとは別の組に属するリリアーヌにとって、こうして授業を受けている間に彼女の姿を見かける機会はほとんどない。
同じ校舎で過ごしてはいるものの、クラスが異なれば交わる時間は放課後か、あるいは寮の自室に限られていた。
「リリアーヌさん、午前の授業はお疲れ様でした。この学校の授業の進め方には、もう少し慣れられましたか」
隣の席のクラスメイトが、柔らかな微笑みを浮かべながら話しかけてきた。
その周りには、自然と他の同級生たちも集まってくる。
「ええ、ありがとうございます。皆様がとても親切に教えてくださるおかげで、戸惑うことも少なく過ごせております。教科書の追記や、移動教室の場所なども丁寧に案内していただいて……心から感謝しております」
リリアーヌが胸の前で手を合わせ、心からの謝意を込めて微笑むと、同級生たちは嬉しそうに表情を綻ばせた。
裕福な家庭で育ちながらも飾らない素直さと、品格漂う立ち振る舞いを持つリリアーヌは、転入して間もないにもかかわらず、すでにクラスの中で愛される存在となっていた。
「まあ、リリアーヌさんはとてもお飲み込みが早いですもの。私たちの方こそ、ご一緒できて毎日が楽しいですわ」
「よろしければ、今日も一緒に食堂で昼食をいただきませんこと? 美味しい日替わりのメニューもございますのよ」
「ええ、喜んでご一緒させていただきますわ」
リリアーヌは優しく肯き、同級生たちとともに食堂へと向かった。
大きなアーチ状の窓から明るい陽光が差し込む食堂は、昼時を迎えて多くの生徒たちで賑わっていた。
焼き立てのパンの芳しい香りやスープの湯気が漂い、テーブルのあちこちから控えめで楽しげな歓談の声が聞こえてくる。
指定の席につき、用意された温かな食事に手を付けながら、リリアーヌはふと広い室内へ視線を巡らせた。
これほど多くの生徒が集まる場所であれば、あの銀鈴のような声や、人目を引く佇まいがあってもおかしくはない。
しかし、どれほど目を凝らしても、群青のネクタイと濃紺のスラックスを綺麗に穿きこなした少女の姿は見当たらなかった。
朝、誰よりも早く身支度を整え、生徒会室へと向かっていった彼女の背中を思い出す。
(セレフィアさんは……こちらにはいらっしゃらないのかしら)
ふと口をついて出た小さな疑問を、リリアーヌは向かいに座る同級生へと尋ねてみた。
「あの……差し支えなければ教えていただきたいのですが、セレフィアさんはいつもどちらで昼食をとられていらっしゃいますの? この食堂では、お姿を見かけしないように思いまして」
その問いを聞いた同級生たちは、一瞬だけ合点がいったように頷き合い、それから少しだけ申し訳なさそうに、けれど親しみを込めた眼差しでリリアーヌを見つめた。
「ああ、セレフィア様のことですね。リリアーヌさんは昨日転入されたばかりですから、ご存じなくても無理はありませんわ」
同級生のひとりが、スープの匙を静かに置きながら語り始めた。
「セレフィア様は、普段はこちらの食堂でお食事をなさることは滅多にありませんの。いつも生徒会室でお一人、あるいは役員の方々と一緒に召し上がっているそうなのです」
「生徒会室で……ですか?」
「ええ。というのも……」
同級生は周囲の賑わいを軽く見渡しながら、少しだけ声を潜めて続けた。
「セレフィア様がもしこの食堂にお姿を現されたら、大変な騒ぎになってしまいますでしょう? ご覧の通り、校内のどなたにとっても憧れの『王子様』でいらっしゃいますから。周囲に皆様が殺到してしまって、ご本人が落ち着いて食事をとるどころではなくなってしまうのですわ」
「そうなのですか……」
「以前、一度だけこちらで召し上がろうとされたことがあったそうなのですが、あっという間に取り囲まれてしまって……ご自分のスープ一口すら満足に口に運べない状態になってしまったらしくて。それ以来、セレフィア様はお気遣いもあって、生徒会室でひっそりと召し上がるようになったのです」
その言葉を聞き、リリアーヌは胸の奥が微かに痛むのを覚えた。
校舎の廊下を歩けば誰もが振り返り、羨望と憧れの眼差しを向けられる存在。
人々に愛され、尊ばれる「王子様」であることは、同時にどこへ行っても個人の静かな時間を奪われてしまうことと同義なのだろう。
大勢の生徒たちが楽しそうに談笑し、自由に昼食を味わっているこの賑やかな食堂の只中で、彼女だけはその輪に加わることができない。
(皆様の王子様でいることは……これほどまでに、お一人で背負うものが多いのですね)
リリアーヌは手元の上質な磁器の皿に視線を落とした。
今頃、遠く離れた生徒会室で、彼女はひとり静かに何を口にしているのだろうか。
冷めたパンか、あるいは簡素な何かを淡々と喉に通しているのだろうか。
誰も見ていない場所で、またあの少し眠たげな、疲れを滲ませた横顔をしているのではないだろうか。
「……リリアーヌさん? お口に合いませんでしたか?」
同級生の心配そうな声に、リリアーヌはハッと正気に戻り、すぐに穏やかな微笑みを返した。
「いいえ、とても美味しくいただいております。ただ……少し、思案をしておりました」
「まあ、なら良かったです。午後の授業の前に、庭園の白百合を少し見に行きませんこと? 今がちょうど綺麗に咲いているのです」
「ええ、喜んでお供いたします」
リリアーヌは上品に匙を動かしながらも、どこか遠くにある生徒会室の静けさに思いを馳せていた。
学校という開かれた世界の中では、誰もが憧れる遠い存在の「王子様」。
けれど、日の暮れた後に帰るあの鍵のかかる小さな部屋の中だけは、彼女が唯一、誰の視線も気にせずに羽を休められる場所なのだ。
朝、出がけに彼女が残した「本日も、良い一日になりますように」という静かな声が、リリアーヌの心の中で温かく響き続けていた。
放課後、あの部屋へ帰ったら何か温かいお茶でも淹れて、彼女を迎えてあげよう。
そう心に決めながら、リリアーヌは窓の外に広がる青空を静かに見つめるのだった。
リリアーヌの通うクラスでも、生徒たちが互いに声を掛け合い、昼食の準備を始めている。
同じ学年でありながら、セレフィアとは別の組に属するリリアーヌにとって、こうして授業を受けている間に彼女の姿を見かける機会はほとんどない。
同じ校舎で過ごしてはいるものの、クラスが異なれば交わる時間は放課後か、あるいは寮の自室に限られていた。
「リリアーヌさん、午前の授業はお疲れ様でした。この学校の授業の進め方には、もう少し慣れられましたか」
隣の席のクラスメイトが、柔らかな微笑みを浮かべながら話しかけてきた。
その周りには、自然と他の同級生たちも集まってくる。
「ええ、ありがとうございます。皆様がとても親切に教えてくださるおかげで、戸惑うことも少なく過ごせております。教科書の追記や、移動教室の場所なども丁寧に案内していただいて……心から感謝しております」
リリアーヌが胸の前で手を合わせ、心からの謝意を込めて微笑むと、同級生たちは嬉しそうに表情を綻ばせた。
裕福な家庭で育ちながらも飾らない素直さと、品格漂う立ち振る舞いを持つリリアーヌは、転入して間もないにもかかわらず、すでにクラスの中で愛される存在となっていた。
「まあ、リリアーヌさんはとてもお飲み込みが早いですもの。私たちの方こそ、ご一緒できて毎日が楽しいですわ」
「よろしければ、今日も一緒に食堂で昼食をいただきませんこと? 美味しい日替わりのメニューもございますのよ」
「ええ、喜んでご一緒させていただきますわ」
リリアーヌは優しく肯き、同級生たちとともに食堂へと向かった。
大きなアーチ状の窓から明るい陽光が差し込む食堂は、昼時を迎えて多くの生徒たちで賑わっていた。
焼き立てのパンの芳しい香りやスープの湯気が漂い、テーブルのあちこちから控えめで楽しげな歓談の声が聞こえてくる。
指定の席につき、用意された温かな食事に手を付けながら、リリアーヌはふと広い室内へ視線を巡らせた。
これほど多くの生徒が集まる場所であれば、あの銀鈴のような声や、人目を引く佇まいがあってもおかしくはない。
しかし、どれほど目を凝らしても、群青のネクタイと濃紺のスラックスを綺麗に穿きこなした少女の姿は見当たらなかった。
朝、誰よりも早く身支度を整え、生徒会室へと向かっていった彼女の背中を思い出す。
(セレフィアさんは……こちらにはいらっしゃらないのかしら)
ふと口をついて出た小さな疑問を、リリアーヌは向かいに座る同級生へと尋ねてみた。
「あの……差し支えなければ教えていただきたいのですが、セレフィアさんはいつもどちらで昼食をとられていらっしゃいますの? この食堂では、お姿を見かけしないように思いまして」
その問いを聞いた同級生たちは、一瞬だけ合点がいったように頷き合い、それから少しだけ申し訳なさそうに、けれど親しみを込めた眼差しでリリアーヌを見つめた。
「ああ、セレフィア様のことですね。リリアーヌさんは昨日転入されたばかりですから、ご存じなくても無理はありませんわ」
同級生のひとりが、スープの匙を静かに置きながら語り始めた。
「セレフィア様は、普段はこちらの食堂でお食事をなさることは滅多にありませんの。いつも生徒会室でお一人、あるいは役員の方々と一緒に召し上がっているそうなのです」
「生徒会室で……ですか?」
「ええ。というのも……」
同級生は周囲の賑わいを軽く見渡しながら、少しだけ声を潜めて続けた。
「セレフィア様がもしこの食堂にお姿を現されたら、大変な騒ぎになってしまいますでしょう? ご覧の通り、校内のどなたにとっても憧れの『王子様』でいらっしゃいますから。周囲に皆様が殺到してしまって、ご本人が落ち着いて食事をとるどころではなくなってしまうのですわ」
「そうなのですか……」
「以前、一度だけこちらで召し上がろうとされたことがあったそうなのですが、あっという間に取り囲まれてしまって……ご自分のスープ一口すら満足に口に運べない状態になってしまったらしくて。それ以来、セレフィア様はお気遣いもあって、生徒会室でひっそりと召し上がるようになったのです」
その言葉を聞き、リリアーヌは胸の奥が微かに痛むのを覚えた。
校舎の廊下を歩けば誰もが振り返り、羨望と憧れの眼差しを向けられる存在。
人々に愛され、尊ばれる「王子様」であることは、同時にどこへ行っても個人の静かな時間を奪われてしまうことと同義なのだろう。
大勢の生徒たちが楽しそうに談笑し、自由に昼食を味わっているこの賑やかな食堂の只中で、彼女だけはその輪に加わることができない。
(皆様の王子様でいることは……これほどまでに、お一人で背負うものが多いのですね)
リリアーヌは手元の上質な磁器の皿に視線を落とした。
今頃、遠く離れた生徒会室で、彼女はひとり静かに何を口にしているのだろうか。
冷めたパンか、あるいは簡素な何かを淡々と喉に通しているのだろうか。
誰も見ていない場所で、またあの少し眠たげな、疲れを滲ませた横顔をしているのではないだろうか。
「……リリアーヌさん? お口に合いませんでしたか?」
同級生の心配そうな声に、リリアーヌはハッと正気に戻り、すぐに穏やかな微笑みを返した。
「いいえ、とても美味しくいただいております。ただ……少し、思案をしておりました」
「まあ、なら良かったです。午後の授業の前に、庭園の白百合を少し見に行きませんこと? 今がちょうど綺麗に咲いているのです」
「ええ、喜んでお供いたします」
リリアーヌは上品に匙を動かしながらも、どこか遠くにある生徒会室の静けさに思いを馳せていた。
学校という開かれた世界の中では、誰もが憧れる遠い存在の「王子様」。
けれど、日の暮れた後に帰るあの鍵のかかる小さな部屋の中だけは、彼女が唯一、誰の視線も気にせずに羽を休められる場所なのだ。
朝、出がけに彼女が残した「本日も、良い一日になりますように」という静かな声が、リリアーヌの心の中で温かく響き続けていた。
放課後、あの部屋へ帰ったら何か温かいお茶でも淹れて、彼女を迎えてあげよう。
そう心に決めながら、リリアーヌは窓の外に広がる青空を静かに見つめるのだった。