孤高の王子様に、ただひとつの特別を
秋の深まりとともに、聖リリウム女学院の敷地を包む風は日ごとに冷たさを増していた。
生徒会室の窓から差し込む夕光は、朱色から深い紫へと刻一刻と表情を変えていく。
期末の予算編成と全校行事の準備が重なるこの時期、生徒会室はいつになく静かな緊張感と、積み上げられた書類の山に支配されていた。
「──ふう……」
書類の束から視線を外し、セレフィアは静かに小さく息を吐き出した。
生徒会長としての手腕は相変わらず完璧であり、処理速度も正確無比であったが、人間である以上、極度の集中が長時間続けば疲労は蓄積する。
頭脳を酷使したことで、脳がかすかな飢餓感を訴えかけていた。
普段であれば、自室に戻ってリリアーヌと共に温かい夕食を囲む時間である。
しかし、今日はまだ目を通さねばならない帳簿が残っていた。
作業の手を止めるわけにはいかず、かといって食堂へ足を運ぶ時間も惜しい。
セレフィアは、自身のデスクの最下段の引き出しを、音を立てずにゆっくりと引き開けた。
暗がりの奥に並んでいたのは、銀色の素っ気ない包装に包まれた固形栄養食。
シリアルバーであった。
かつて、孤独の檻の中で一人静かに空腹を満たしていた頃の、味気ない遺物。
リリアーヌと出会い、手作りのスープやお菓子を与えられるようになってからは、ほとんど口にすることのなくなった代物である。
(……一分で摂取を終え、作業に戻るには、これがもっとも効率的です)
セレフィアは自らの選択に寸分の疑問も抱かず、銀色の包装を手にとった。
サラサラと無機質な音を立てて袋を破る。
一口サイズに割られた、硬く乾いたシリアルバー。
それを指先でつまみ、口へと運ぼうとした――まさに、その瞬間であった。
重厚な木製のドアが静かに開き、パタパタと小走りの足音が室内に響いた。
「セラ! 生徒会の作業、まだかかりそう? もうすぐ寮の夕食の時間が……」
差し入れの温かいお茶のトレーを抱えて入ってきたのは、リリアーヌであった。
彼女の視線が、セレフィアの手元そして、破られた銀色の包装紙と、口元へ運ばれかけている乾いた固形物へと注がれる。
時間が、完全に凍りついた。
リリアーヌの緑色の瞳が丸くなり、次いで、信じられないものを見たかのように微かに揺れた。
トレーを持つ手が小さく震え、彼女の頬がみるみるうちに怒りと悲しみで赤く染まっていく。
「……セラ?」
低く、けれど静かな怒りを孕んだ声。
「……リリア」
セレフィアは指先を止めたまま、紫色の瞳を瞬かせた。
「それは……一体、何?」
「……シリアルバーです。執務の合間の、迅速な栄養補給のために……」
「栄養補給!?」
バン、とトレーがローテーブルの上に少し乱暴に置かれた。
リリアーヌは制服の裾を揺らしながら、迷いのない足取りでセレフィアのデスクへと詰め寄ってきた。
その小さな身体から放たれる圧倒的な気圧に、さすがの完璧な生徒会長も、無意識のうちに背筋を硬直させた。
「セラ、私と約束したはずでしょ! もう二度と、そんな味もしない、冷たくて乾いたものだけで食事を済ませたりしないと! あの部屋で、一人でそんなものを齧っていた寂しい過去には戻らないと、そう約束したはずです!」
リリアーヌの声は震えていた。
それは単なる我儘や理不尽な怒りではなく、セレフィアの身体を、そして何よりも彼女の心を本気で労わり、心配しているからこその、切実な憤りであった。
「……ですが、リリア。これには明確な理由が――」
「理由なんて、聞きません!」
リリアーヌは迷うことなく手を伸ばし、セレフィアの指先からシリアルバーをひょいと奪い去った。
さらには、引き出しの奥に残されていた数本の銀色の袋まで取り上げると、それらを自らの胸元へと抱え込んだ。
「これらは、すべて没収いたします!」
「没収……ですか」
「ええ、そうです! セラがどれほど効率を求めようと、リリアがそれを許しません。セラが身体を壊したら、セラが一人で冷たい思いをしたら、一番悲しいのは誰だか、セラはもうお分りのはずでしょ!」
リリアーヌのまっすぐな言葉。
その瞳にうっすらと浮かんだ涙と、自分を心から案じる強いまなざしに直面し、セレフィアは反論の言葉を完全に失った。
かつての自分であれば、「これは生徒会長としての合理的な判断だ」と突っぱねていたかもしれない。あるいは、誰かに自分の食事を干渉されること自体を拒絶していたはずだ。
けれど、今のセレフィアには分かっていた。
リリアーヌがなぜこれほどまでに感情を露わにして怒っているのか。
自分が効率の名のもとに自分の身体を粗末に扱うことが、どれほど彼女の心を傷つけるのかを。
胸の奥が、温かく、そして微かに痛んだ。
「……すまなかった、リリア」
セレフィアはゆっくりと立ち上がり、デスクを挟んで立つリリアーヌの目線をまっすぐに見つめた。
「私の配慮が足りませんでした。効率を優先するあまり、あなたの気持ちを失念していたことを……謝罪します」
いつもの冷徹な仮面は消え、そこにあったのは、愛おしい相手に対して心から申し訳なさそうにする、一人の少女の素顔であった。
セレフィアはデスクを回り込み、リリアーヌの前へと歩み寄った。
そして、シリアルバーを抱え込んだまま固まっている彼女の小さく温かな手を、そっと両手で包み込んだ。
「あなたの言う通りです。私はもう、一人で暗闇の中で冷たいものを齧る必要はないのでしたね。……あなたという、温かな存在が傍にいてくれるのですから」
「……っ」
あまりにも不器用で、けれどどこまでも真摯な謝罪と告白。
急に態度を軟化させ、自分を慈しむような眼差しを向けてくるセレフィアに対し、さきほどまで息巻いていたリリアーヌの怒りは、一瞬で恥ずかしさと甘い熱へと姿を変えた。
「も、もう……っ。そうやって、すぐにズルいことをいうんだから……」
リリアーヌは顔を赤くし、胸元に抱えていたシリアルバーをローテーブルの上へと力なく置いた。
「わかればいいの、わかれば。……ほら、書類の続きは明日にして、今すぐ寮へ戻ろ? 今日の夕食は、リリアが厨房にお願いして作っていただいた、温かいお野菜のシチューなんだから」
「シチュー……ですか」
「そう。セラが大好きな、カボチャとクリームのスープ。冷めてしまっては台無しだから、早く行こ?」
リリアーヌはそう言うと、強引にセレフィアの手を引き寄せた。
指と指が静かに交差し、自然な形で「恋人繋ぎ」が完成する。
セレフィアの胸元で揺れる、リリアーヌから渡された可憐なリボン。
そしてリリアーヌの胸元で重みを主張する、セレフィアのネクタイ。
セレフィアは手から伝わる確かな体温を確かめるように、ギュッと握り返した。
「ええ。一緒に行きましょう、リリア」
暗くなりかけた生徒会室の電気を消し、二人は寄り添うようにして静かな廊下へと踏み出した。
かつて自分を縛り付けていた孤高と、無機質なシリアルバーの味。
それらはもう、過去の遠い幻影に過ぎない。
自分を真剣に叱り、温かな場所へと導いてくれる大切な少女の隣で、セレフィアは今夜も、胸を満たす確かな幸福と温もりに、静かに微笑むのであった。
生徒会室の窓から差し込む夕光は、朱色から深い紫へと刻一刻と表情を変えていく。
期末の予算編成と全校行事の準備が重なるこの時期、生徒会室はいつになく静かな緊張感と、積み上げられた書類の山に支配されていた。
「──ふう……」
書類の束から視線を外し、セレフィアは静かに小さく息を吐き出した。
生徒会長としての手腕は相変わらず完璧であり、処理速度も正確無比であったが、人間である以上、極度の集中が長時間続けば疲労は蓄積する。
頭脳を酷使したことで、脳がかすかな飢餓感を訴えかけていた。
普段であれば、自室に戻ってリリアーヌと共に温かい夕食を囲む時間である。
しかし、今日はまだ目を通さねばならない帳簿が残っていた。
作業の手を止めるわけにはいかず、かといって食堂へ足を運ぶ時間も惜しい。
セレフィアは、自身のデスクの最下段の引き出しを、音を立てずにゆっくりと引き開けた。
暗がりの奥に並んでいたのは、銀色の素っ気ない包装に包まれた固形栄養食。
シリアルバーであった。
かつて、孤独の檻の中で一人静かに空腹を満たしていた頃の、味気ない遺物。
リリアーヌと出会い、手作りのスープやお菓子を与えられるようになってからは、ほとんど口にすることのなくなった代物である。
(……一分で摂取を終え、作業に戻るには、これがもっとも効率的です)
セレフィアは自らの選択に寸分の疑問も抱かず、銀色の包装を手にとった。
サラサラと無機質な音を立てて袋を破る。
一口サイズに割られた、硬く乾いたシリアルバー。
それを指先でつまみ、口へと運ぼうとした――まさに、その瞬間であった。
重厚な木製のドアが静かに開き、パタパタと小走りの足音が室内に響いた。
「セラ! 生徒会の作業、まだかかりそう? もうすぐ寮の夕食の時間が……」
差し入れの温かいお茶のトレーを抱えて入ってきたのは、リリアーヌであった。
彼女の視線が、セレフィアの手元そして、破られた銀色の包装紙と、口元へ運ばれかけている乾いた固形物へと注がれる。
時間が、完全に凍りついた。
リリアーヌの緑色の瞳が丸くなり、次いで、信じられないものを見たかのように微かに揺れた。
トレーを持つ手が小さく震え、彼女の頬がみるみるうちに怒りと悲しみで赤く染まっていく。
「……セラ?」
低く、けれど静かな怒りを孕んだ声。
「……リリア」
セレフィアは指先を止めたまま、紫色の瞳を瞬かせた。
「それは……一体、何?」
「……シリアルバーです。執務の合間の、迅速な栄養補給のために……」
「栄養補給!?」
バン、とトレーがローテーブルの上に少し乱暴に置かれた。
リリアーヌは制服の裾を揺らしながら、迷いのない足取りでセレフィアのデスクへと詰め寄ってきた。
その小さな身体から放たれる圧倒的な気圧に、さすがの完璧な生徒会長も、無意識のうちに背筋を硬直させた。
「セラ、私と約束したはずでしょ! もう二度と、そんな味もしない、冷たくて乾いたものだけで食事を済ませたりしないと! あの部屋で、一人でそんなものを齧っていた寂しい過去には戻らないと、そう約束したはずです!」
リリアーヌの声は震えていた。
それは単なる我儘や理不尽な怒りではなく、セレフィアの身体を、そして何よりも彼女の心を本気で労わり、心配しているからこその、切実な憤りであった。
「……ですが、リリア。これには明確な理由が――」
「理由なんて、聞きません!」
リリアーヌは迷うことなく手を伸ばし、セレフィアの指先からシリアルバーをひょいと奪い去った。
さらには、引き出しの奥に残されていた数本の銀色の袋まで取り上げると、それらを自らの胸元へと抱え込んだ。
「これらは、すべて没収いたします!」
「没収……ですか」
「ええ、そうです! セラがどれほど効率を求めようと、リリアがそれを許しません。セラが身体を壊したら、セラが一人で冷たい思いをしたら、一番悲しいのは誰だか、セラはもうお分りのはずでしょ!」
リリアーヌのまっすぐな言葉。
その瞳にうっすらと浮かんだ涙と、自分を心から案じる強いまなざしに直面し、セレフィアは反論の言葉を完全に失った。
かつての自分であれば、「これは生徒会長としての合理的な判断だ」と突っぱねていたかもしれない。あるいは、誰かに自分の食事を干渉されること自体を拒絶していたはずだ。
けれど、今のセレフィアには分かっていた。
リリアーヌがなぜこれほどまでに感情を露わにして怒っているのか。
自分が効率の名のもとに自分の身体を粗末に扱うことが、どれほど彼女の心を傷つけるのかを。
胸の奥が、温かく、そして微かに痛んだ。
「……すまなかった、リリア」
セレフィアはゆっくりと立ち上がり、デスクを挟んで立つリリアーヌの目線をまっすぐに見つめた。
「私の配慮が足りませんでした。効率を優先するあまり、あなたの気持ちを失念していたことを……謝罪します」
いつもの冷徹な仮面は消え、そこにあったのは、愛おしい相手に対して心から申し訳なさそうにする、一人の少女の素顔であった。
セレフィアはデスクを回り込み、リリアーヌの前へと歩み寄った。
そして、シリアルバーを抱え込んだまま固まっている彼女の小さく温かな手を、そっと両手で包み込んだ。
「あなたの言う通りです。私はもう、一人で暗闇の中で冷たいものを齧る必要はないのでしたね。……あなたという、温かな存在が傍にいてくれるのですから」
「……っ」
あまりにも不器用で、けれどどこまでも真摯な謝罪と告白。
急に態度を軟化させ、自分を慈しむような眼差しを向けてくるセレフィアに対し、さきほどまで息巻いていたリリアーヌの怒りは、一瞬で恥ずかしさと甘い熱へと姿を変えた。
「も、もう……っ。そうやって、すぐにズルいことをいうんだから……」
リリアーヌは顔を赤くし、胸元に抱えていたシリアルバーをローテーブルの上へと力なく置いた。
「わかればいいの、わかれば。……ほら、書類の続きは明日にして、今すぐ寮へ戻ろ? 今日の夕食は、リリアが厨房にお願いして作っていただいた、温かいお野菜のシチューなんだから」
「シチュー……ですか」
「そう。セラが大好きな、カボチャとクリームのスープ。冷めてしまっては台無しだから、早く行こ?」
リリアーヌはそう言うと、強引にセレフィアの手を引き寄せた。
指と指が静かに交差し、自然な形で「恋人繋ぎ」が完成する。
セレフィアの胸元で揺れる、リリアーヌから渡された可憐なリボン。
そしてリリアーヌの胸元で重みを主張する、セレフィアのネクタイ。
セレフィアは手から伝わる確かな体温を確かめるように、ギュッと握り返した。
「ええ。一緒に行きましょう、リリア」
暗くなりかけた生徒会室の電気を消し、二人は寄り添うようにして静かな廊下へと踏み出した。
かつて自分を縛り付けていた孤高と、無機質なシリアルバーの味。
それらはもう、過去の遠い幻影に過ぎない。
自分を真剣に叱り、温かな場所へと導いてくれる大切な少女の隣で、セレフィアは今夜も、胸を満たす確かな幸福と温もりに、静かに微笑むのであった。
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