孤高の王子様に、ただひとつの特別を

秋の柔らかい陽光が大きなガラス窓から差し込み、昼休みの教室を温かく照らし出していた。
しかし、その穏やかな光とは裏腹に、リリアーヌの所属するクラス内には異質な熱気と、ざわめくような不穏な緊張感が満ち満ちていた。
原因は、他でもない彼女自身、リリアーヌの胸元にあった。
いつもならば可憐なリボンが結ばれているはずの彼女のブレザーの衿元に、今日はどういうわけか、見覚えのある上質な布地のネクタイが寸分の狂いもなく結ばれていたのだ。
しかもそのネクタイは、高等部で特定の位置にある者、すなわち、生徒会幹部クラスの者しか着用を許されない、格調高い仕立てのものであった。

「……ねえ、見た……? リリアーヌさんのあの胸元……」
「あれって、どう見ても生徒会の方のネクタイよね……?」
「まさか……朝、噂になっていたセレフィア様のリボンの話と、関係があるのかしら……」

昼食をとる手も止め、クラスの生徒たちが遠巻きにリリアーヌへ視線を送り、ヒソヒソと囁き合っていた。
朝の登校時、校内を駆け巡った一つの衝撃的な噂。
あの誰もが憧れ、遠くから仰ぎ見る存在であった生徒会長のセレフィアが、いつものネクタイではなく可憐なリボンを胸元につけて登校してきたという話。
そして彼女が「学院のルールに従っただけ」と、恐ろしいほどに甘く美しい微笑みを浮かべていたという噂である。
噂が校内を駆け巡った直後、こうしてリリアーヌの胸元にネクタイが結ばれているのを目撃すれば、誰だって一つの決定的な可能性に行き着いてしまう。

(……あ、頭が痛くなってきたわ……)

自席に腰掛けたまま、リリアーヌは小さく息を漏らし、膝の上で握りしめた手にぎゅっと力を込めた。
周囲から注がれる刺すような視線と、過熱していく推測の数々。
クラスメイトたちの会話が嫌でも耳に届いてくる。

「でも、まさか……あのセレフィア様が、誰かとタイを交換なさるなんて……」
「そうよ、何かのお戯れか、あるいは誤ってあのような着こなしになってしまっただけでは……?」
「ええ、あの完璧で孤高なセレフィア様が、特定のどなたかを特別扱いなさるなんて、そんなこと信じられないわ……」

クラスメイトたちは、信じたくないという思いと、認めたくないという恐怖から、必死に「気まぐれ」や「何かの間違い」という理由を探そうとしていた。
それほどまでに、セレフィアという少女が周囲に与えていた「完璧な王子様」としての幻想は強く、そして孤高であったのだ。
胸元で揺れるネクタイの重みを感じながら、リリアーヌは顔を伏せそうになるのを必死で耐えていた。

このネクタイは、今朝、セレフィアが自分の手で丁寧に結んでくれたものだ。
彼女の温もりと、言葉にならない深い愛着が込められた、二人だけの誓いの証。
それを「気まぐれ」だなどと言われてしまえば、胸が痛むのは当然だった。
けれど、今ここで自ら「セレフィアと恋人になりました」と宣言するような勇気も出ず、ただ周囲の視線に耐えることしかできなかった。

その時だった。

静まり返りかけた教室の前方のドアが、静かに、けれど滑らかに開いた。
カツン、カツンと、廊下を踏みしめてきた澄んだ靴音が教室内に響き渡る。
視線が一斉にドアへと向けられた。
そこに立っていたのは、白ブレザーを完璧に着こなした生徒会長セレフィアだった。
朝の騒動そのままに、彼女の胸元には、本来ならばリリアーヌのものであった可憐なリボンが、完璧な形を結んで誇らしげに収まっていた。
銀色の髪を光らせ、背筋を真っ直ぐに伸ばして佇む彼女の姿は、いついかなる時も息を呑むほどに美しい。

教室内の空気が、一瞬で凍りついた。

誰もが言葉を失い、息を吸う音すら憚られるような完全な静寂が教室を支配する。
まさか生徒会長自らが、昼休みのこの時間に一般生徒の教室へと足を運んでくるとは、誰も予想していなかったのだ。
周囲の困惑や動揺など一切目に入っていないかのように、セレフィアはまっすぐに室内を見渡した。
そして、教室の奥で一人身を小さくしていたリリアーヌの姿を捉えると、その紫色の瞳に、ふっと柔らかい光を宿した。
セレフィアは迷いのない足取りで、リリアーヌのデスクの前へと歩み寄った。
生徒たちの視線が、セレフィアの動線に沿って一斉に動く。
緊張感が極限まで高まる中、セレフィアはリリアーヌの正面で足を止めると、至極自然に、けれどどこまでも愛おしそうな声を響かせた。

「迎えに来ましたよ、リリア」

その低く澄んだ声は、静まり返った教室の隅々にまで、はっきりと行き渡った。

「っ……!?」

リリアーヌは全身の血が引くのを感じ、目を見開いた。

『リリア』。

これまで、どんなに親しい間柄であっても、公の場や学院内では固く「リリアーヌ」とフルネームで呼んでいたセレフィアが。
誰に対しても一定の距離を保ち、礼節と規律を重んじていたあの完璧な生徒会長が。
今、この大勢の生徒たちが固唾をのんで見守る教室の真ん中で、何のためらいもなく、親愛と独占欲に満ちた特別な「愛称」を口にしたのだ。
周囲の生徒たちの間で、息を呑む音が重なった。

「り……リリア……!?」
「今……なんとおっしゃったの……?」
「セレフィア様が……あのような呼び方を……?」

動揺の波が、漣のように一瞬で教室全体へと広がっていく。
単にタイを交換しているだけではない。
その呼び方一つに込められた圧倒的な熱量と、他者を一切介在させない二人の間の空気感。
それが何を意味しているのか、理解できない者はこの場に一人としていなかった。
セレフィアは周囲の動揺など意にも介さず、ただ目の前のリリアーヌを愛おしそうに見つめていた。少し首を傾げ、朝と同じように柔らかく眉を下げて微笑む。

「食堂のテラス席を確保してあります。一緒に昼食をいただきましょう。……行きませんか、リリア?」

重ねて呼ばれる、特別な愛称。
そして、セレフィアの胸元で揺れるリボンと、リリアーヌの胸元で重みを主張するネクタイ。
それらが提示する動かしがたい真実の前に、クラスメイトたちの「気まぐれであってほしい」という淡い期待は、完全に打ち砕かれた。
視線の集中砲火を浴び、リリアーヌの顔は瞬く間に熟したリンゴのように真っ赤に染め上がっていった。
耳の裏まで熱くなり、心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで激しく跳ね上がる。

(せ、セラったら……! こんな……こんな大勢の前で、そんな呼び方をしたら……っ!)

恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られた。
けれど、差し出されたセレフィアの長くて美しい指先と、自分を優しく促す温かな眼差しを見た時、リリアーヌの胸の奥に、気恥ずかしさを遥かに上回る甘い幸福感が込み上げてきた。

噂でも、幻でもない。

あの孤高で完璧な「王子様」は、今、学院中の視線が注がれる中で、堂々と自分を「特別な存在」として迎えに来てくれているのだ。

「……ええ」

リリアーヌは深く息を吸い込み、真っ赤になった顔を隠すことも忘れて、差し出されたセレフィアの手をしっかりと握り返した。

「行きましょう……セラ」

握り合わされた二人の手が、秋の光の中で優しく重なる。
クラスメイトたちが呆然と立ち尽くし、言葉もなく二人を見送る中、セレフィアとリリアーヌは寄り添うようにして教室を後にした。

背中に突き刺さる無数の視線と、これから学院全体を包み込むであろうさらなる大きな衝撃。
それらすべてを受け止める覚悟を胸に抱きながら、二人は言葉なき愛誓いを胸元に揺らし、光の差す廊下へと一歩を踏み出していくのだった。
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