孤高の王子様に、ただひとつの特別を
手紙の返答に答えを出せぬまま、数日の時が静かに流れていた。
秋の冷たい風が街を吹き抜ける日の午後、セレフィアは単身、聖リリウム女学院の正門を後にしていた。
普段の完璧な佇まいは崩していないものの、その胸の奥には深く重い霧が立ち込めていた。
自室の引き出しに仕舞われたままの、あの桃色の封筒。
夜を迎えるたび、隣のベッドで静かに身を丸めるリリアーヌの背中を見つめながら、セレフィアは己の胸の中に渦巻く割り切れない感情の正体を探し続けていた。
けれど、自力ではいくら思考を巡らせても、明快な答えには行き着かなかったのだ。
向かった先は、道を挟んで隣接する白薔薇高等学校であった。
重厚な鉄製の正門を潜り、格式ある校舎へと足を踏み入れた瞬間、校内に異様な緊張と動揺が走った。
男子生徒しか存在しないはずの敷地内に、聖リリウム女学院の純白のブレザーを纏った、息を呑むほどに美しい少女がたった一人で歩いている。しかも、その左腕には生徒会長の腕章が光り、右足の歩調には隙がない。
「おい……あれ、聖リリウムの生徒会長じゃないか……?」
「どうして一人でうちの学校に来てるんだ……?」
「綺麗すぎる……嘘だろ……」
校廊や中庭にいた男子生徒たちが一斉に足を止め、ザワザワと騒ぎ始めた。
窓から顔を出して見下ろす者、距離を置いて遠巻きに追従する者。
校内はまさに蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、熱を帯びた視線と囁き声がセレフィアの全身に突き刺さっていた。
しかし、当のセレフィアは周囲の動揺など一切目に入っていないかのように、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩みを進めていた。
その右手には、大切そうに、けれど迷いを宿した手つきで、あの桃色の手紙が握られている。
校舎の中央吹き抜けへと差し掛かった時、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
「セレフィアちゃん……!?」
人混みを押し分けるようにして現れたのは、水色の髪を揺らしたルミだった。
ルミは本来の制服の上から、相変わらずアルヴィーノ私物の濃紺のカーディガンを羽織っていた。長すぎる袖口から指先を覗かせ、大きな青い瞳を驚きに丸めながら、急ぎ足でセレフィアのもとへ駆け寄ってくる。
「どうしたのこんなところで!? 学校中がすごい大騒ぎになってるよ!」
息を軽く乱しながら問いかけてくるルミに対し、セレフィアは表情一つ変えず、静かに、けれど切実さを秘めた声で尋ねた。
「……ルミさん。白薔薇の副会長アルヴィーノさんはおられますか?」
「アルヴィーノ? アルヴィーノなら、今ちょうど先生に頼まれた荷物を運んでて、もうすぐここを通ると思うけど……何かあったの?」
ルミはセレフィアの尋常ではない雰囲気を察し、首を少し傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
周囲の男子生徒たちが遠巻きに見守る中、セレフィアは手にした桃色の封筒へわずかに視線を落とし、深くため息を漏らした。
「……相談したいことが出来したのです。彼と……あなたに」
「俺たちに……?」
「ええ。私一人では、どうしても答えの出せない問題なのです」
低く澄んだ声には、いつもの完璧な「王子様」としての余裕は影を潜めていた。
そこにいたのは、自身の感情の迷路に行き暮れ、真摯に助言を求めている一人の不器用な少女だった。
ルミはセレフィアの手元にある手紙と、彼女の紫色の瞳に宿る微かな揺らぎを見つめると、すべてを理解したように優しく目を細めた。
「そっか。……じゃあ、アルヴィーノが来るまで、あっちのベンチで待っていよっか。ここにいると、みんなの視線で落ち着かないでしょ?」
ルミはぶかぶかの袖を軽く揺らし、吹き抜けの端にある静かなベンチへとセレフィアを促した。
周囲の喧騒から少し離れた日陰のベンチに、二人は並んで腰掛けた。
秋の冷たい風が吹き抜けの廊下を通り抜けていく。
遠くで男子生徒たちのザワめきが続いていたが、二人の周りだけはどこか静謐な空気が流れていた。
セレフィアは膝の上で手紙をかたく握りしめ、視線を落としたままじっと動かなかった。
その横顔は、引き出しの固形栄養食だけで空腹を満たしていた頃の冷ややかさではなく、一人の少女として悩み、傷つき、誰かを想う熱を帯びていた。
「ねえ、セレフィアちゃん」
隣でぶかぶかの袖口を弄っていたルミが、柔らかい声で語りかけた。
「その手紙、すごく大事なものなんだね」
「……大事、と言いますか……。非常に重く、真摯な思いが込められたものです。私のような者が安易に扱ってよいものではありません」
「そっか……。セレフィアちゃんは、本当に優しいね」
「優しくなどありません」
セレフィアは自嘲気味に呟き、静かに首を横に振った。
「私は……自分の感情すら正しく把握できず、周囲の思いにどう応えるべきかも分からない、至って未熟な人間です。現に、この手紙に向き合おうとすればするほど、私の頭の中には……別の人間の顔ばかりが浮かんでしまうのですから」
その言葉を聞いたルミは、驚く風もなく、ただふわりと温かな微笑みを浮かべた。
「別の人間って……リリアーヌちゃんでしょ?」
セレフィアは答える代わりに、紫色の瞳をわずかに揺らした。否定しないことが、何よりの答えだった。
自分の問題であるはずなのに、手紙の返答を考えようとすると、どうしても脳裏をよぎる金髪の少女の微笑み。
そして、もし自分が誰かの「特別」になってしまったら、彼女がどれほど深く傷つくだろうかという、狂おしいほどの恐怖。
なぜ自分はこれほどまでに、リリアーヌの存在に囚われているのか。
なぜ自分はこれほどまでに、彼女の笑みを失うことを恐れているのか。
その理由に思い至らぬまま、セレフィアはただ手紙を握りしめ、アルヴィーノの足音を待ち続けていた。
「もうすぐ来るよ、アルヴィーノ」
ルミが優しく囁き、静かな吹き抜けの廊下に、靴音が一つ、また一つと規則正しく近づいてくるのだった。
秋の冷たい風が街を吹き抜ける日の午後、セレフィアは単身、聖リリウム女学院の正門を後にしていた。
普段の完璧な佇まいは崩していないものの、その胸の奥には深く重い霧が立ち込めていた。
自室の引き出しに仕舞われたままの、あの桃色の封筒。
夜を迎えるたび、隣のベッドで静かに身を丸めるリリアーヌの背中を見つめながら、セレフィアは己の胸の中に渦巻く割り切れない感情の正体を探し続けていた。
けれど、自力ではいくら思考を巡らせても、明快な答えには行き着かなかったのだ。
向かった先は、道を挟んで隣接する白薔薇高等学校であった。
重厚な鉄製の正門を潜り、格式ある校舎へと足を踏み入れた瞬間、校内に異様な緊張と動揺が走った。
男子生徒しか存在しないはずの敷地内に、聖リリウム女学院の純白のブレザーを纏った、息を呑むほどに美しい少女がたった一人で歩いている。しかも、その左腕には生徒会長の腕章が光り、右足の歩調には隙がない。
「おい……あれ、聖リリウムの生徒会長じゃないか……?」
「どうして一人でうちの学校に来てるんだ……?」
「綺麗すぎる……嘘だろ……」
校廊や中庭にいた男子生徒たちが一斉に足を止め、ザワザワと騒ぎ始めた。
窓から顔を出して見下ろす者、距離を置いて遠巻きに追従する者。
校内はまさに蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、熱を帯びた視線と囁き声がセレフィアの全身に突き刺さっていた。
しかし、当のセレフィアは周囲の動揺など一切目に入っていないかのように、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩みを進めていた。
その右手には、大切そうに、けれど迷いを宿した手つきで、あの桃色の手紙が握られている。
校舎の中央吹き抜けへと差し掛かった時、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
「セレフィアちゃん……!?」
人混みを押し分けるようにして現れたのは、水色の髪を揺らしたルミだった。
ルミは本来の制服の上から、相変わらずアルヴィーノ私物の濃紺のカーディガンを羽織っていた。長すぎる袖口から指先を覗かせ、大きな青い瞳を驚きに丸めながら、急ぎ足でセレフィアのもとへ駆け寄ってくる。
「どうしたのこんなところで!? 学校中がすごい大騒ぎになってるよ!」
息を軽く乱しながら問いかけてくるルミに対し、セレフィアは表情一つ変えず、静かに、けれど切実さを秘めた声で尋ねた。
「……ルミさん。白薔薇の副会長アルヴィーノさんはおられますか?」
「アルヴィーノ? アルヴィーノなら、今ちょうど先生に頼まれた荷物を運んでて、もうすぐここを通ると思うけど……何かあったの?」
ルミはセレフィアの尋常ではない雰囲気を察し、首を少し傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
周囲の男子生徒たちが遠巻きに見守る中、セレフィアは手にした桃色の封筒へわずかに視線を落とし、深くため息を漏らした。
「……相談したいことが出来したのです。彼と……あなたに」
「俺たちに……?」
「ええ。私一人では、どうしても答えの出せない問題なのです」
低く澄んだ声には、いつもの完璧な「王子様」としての余裕は影を潜めていた。
そこにいたのは、自身の感情の迷路に行き暮れ、真摯に助言を求めている一人の不器用な少女だった。
ルミはセレフィアの手元にある手紙と、彼女の紫色の瞳に宿る微かな揺らぎを見つめると、すべてを理解したように優しく目を細めた。
「そっか。……じゃあ、アルヴィーノが来るまで、あっちのベンチで待っていよっか。ここにいると、みんなの視線で落ち着かないでしょ?」
ルミはぶかぶかの袖を軽く揺らし、吹き抜けの端にある静かなベンチへとセレフィアを促した。
周囲の喧騒から少し離れた日陰のベンチに、二人は並んで腰掛けた。
秋の冷たい風が吹き抜けの廊下を通り抜けていく。
遠くで男子生徒たちのザワめきが続いていたが、二人の周りだけはどこか静謐な空気が流れていた。
セレフィアは膝の上で手紙をかたく握りしめ、視線を落としたままじっと動かなかった。
その横顔は、引き出しの固形栄養食だけで空腹を満たしていた頃の冷ややかさではなく、一人の少女として悩み、傷つき、誰かを想う熱を帯びていた。
「ねえ、セレフィアちゃん」
隣でぶかぶかの袖口を弄っていたルミが、柔らかい声で語りかけた。
「その手紙、すごく大事なものなんだね」
「……大事、と言いますか……。非常に重く、真摯な思いが込められたものです。私のような者が安易に扱ってよいものではありません」
「そっか……。セレフィアちゃんは、本当に優しいね」
「優しくなどありません」
セレフィアは自嘲気味に呟き、静かに首を横に振った。
「私は……自分の感情すら正しく把握できず、周囲の思いにどう応えるべきかも分からない、至って未熟な人間です。現に、この手紙に向き合おうとすればするほど、私の頭の中には……別の人間の顔ばかりが浮かんでしまうのですから」
その言葉を聞いたルミは、驚く風もなく、ただふわりと温かな微笑みを浮かべた。
「別の人間って……リリアーヌちゃんでしょ?」
セレフィアは答える代わりに、紫色の瞳をわずかに揺らした。否定しないことが、何よりの答えだった。
自分の問題であるはずなのに、手紙の返答を考えようとすると、どうしても脳裏をよぎる金髪の少女の微笑み。
そして、もし自分が誰かの「特別」になってしまったら、彼女がどれほど深く傷つくだろうかという、狂おしいほどの恐怖。
なぜ自分はこれほどまでに、リリアーヌの存在に囚われているのか。
なぜ自分はこれほどまでに、彼女の笑みを失うことを恐れているのか。
その理由に思い至らぬまま、セレフィアはただ手紙を握りしめ、アルヴィーノの足音を待ち続けていた。
「もうすぐ来るよ、アルヴィーノ」
ルミが優しく囁き、静かな吹き抜けの廊下に、靴音が一つ、また一つと規則正しく近づいてくるのだった。