孤高の王子様に、ただひとつの特別を

静寂が、二人の暮らす寮室を深く、重く支配していた。
窓の外では秋の夜風が静かに木の葉を揺らし、時折、冷たい風の音がガラス窓を微かに震わせている。
室内の明かりはすべて消され、デスクの上に置かれた小さな読書用ランプの淡い橙色の光だけが、暗闇の中にポツリと小さな円を描いていた。
ベッドの中で、リリアーヌは掛け布団を胸元まで引き上げ、じっと身を小さくしていた。
ゆっくりとした規則正しい寝息を立てながら、彼女は必死に「眠っているふり」を続けていた。
固く閉じられた瞼の裏で、心臓は早鐘のように激しく脈打ち、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめていた。

(……眠れるわけ、ないじゃない……)

胸の奥が、氷を押しあてられたように冷たく、そして痛かった。

夕暮れの裏庭で目撃したあの光景。
可憐な女子生徒から差し出された桃色の手紙と、それを受け取り、困惑したように佇んでいたセレフィアの姿。

あの後、二人は何事もなかったかのように合流し、共に夕食を摂り、自室へと戻ってきた。
セレフィアの態度は普段と何も変わらず、静かで、誠実で、どこまでも穏やかだった。
けれど、その佇まいが却ってリリアーヌの胸を苦しくさせた。
何も聞けない自分、問い詰める勇気すらない自分の不甲斐なさに、胸が押し潰されそうだったのだ。

室内を充たす静寂の中で、カサリと、紙が擦れる小さな音が響いた。

リリアーヌは息を止め、耳を澄ませた。

デスクの前に腰掛けたセレフィアが、引き出しからあの手紙を取り出したのだと、見なくても分かった。

カサ、と封筒の端が切られ、中に収められていた上質な便箋が広げられる柔らかな音。
ランプの光に照らされた紙面を、セレフィアの紫色の瞳が静かに辿っていく気配が、肌を通じて伝わってくるようだった。

便箋に綴られているのは、あの日、裏庭で絞り出された少女の切切なる思いなのだろう。

「完璧な王子様」としてではなく、一人の人間としてのセレフィアを心から慕い、憧れ、勇気を振り絞って認められた、純粋で偽りのない恋心。

手紙を追うセレフィアの指先が、途中でぴたりと止まった。
室内の空気が凝固したかのように重くなる。
セレフィアは便箋をじっと見つめたまま、微動だにしない。

「……ふう……」

暗闇の中に、深く、重い吐息が落ちた。
それは、生徒会長としての業務で疲弊した時のそれとは明らかに異なる、答えのない問いに直面した人間の、深く切実な迷いの吐息だった。

「……どのように、返事を出せば良いのだろうか……」

かすかな、掠れた独白。
普段の冷静沈着な彼女からは想像もつかない、途方に暮れたような声だった。
セレフィアの頭の中では、千々の思考が渦巻いていた。
手紙に込められた少女の真摯な熱量は、あまりにも重く、尊いものだった。
生半可な気持ちで断ることも、あるいは曖昧な期待を持たせるような言葉でお茶を濁すことも、相手の誠実さに対する冒涜に他ならない。

だが、受け入れることなどできるだろうか。

自分の中に「恋愛感情」というものの答えはない。そして何より告白を受けたその瞬間から、頭の片隅から離れようとしない金髪の少女の存在があった。

もし、この手紙に応えてしまえば。
もし、誰か特定の人間の「特別な存在」になってしまえば。

自分が孤独だった頃、真っ直ぐに手を引いてくれたあの少女との時間は、一体どうなってしまうのか。

(……私は、彼女に何と伝えれば誠実なのだろう……)

セレフィアは便箋を指先でなぞりながら、何度も言葉を組み立てては、解体した。
傷つけず、けれど嘘をつかず、己の未熟さと向き合うための言葉。それを探せば探すほど、思考は深い霧の中へと迷い込んでいく。

「……分からないな……」

ぽつりと漏れた小さな呟き。

その声を聞くたびに、ベッドの中のリリアーヌの目元から、静かに涙が溢れ出していた。
掛け布団を噛み締め、声を殺して泣いた。
セレフィアが悩んでいる。
あんなにも声に迷いを滲ませて、手紙の返答に頭を抱えている。
それは、セレフィアがあの女子生徒の思いを、心から真剣に受け止めている証拠だった。
無下にあしらうこともせず、一人の人間として真っ向から向き合おうとしている。

(セラは……すごく優しい人だから……)

もし、その優しさが、あの手紙の思いに応える方向へ傾いてしまったら。

「本当は起きてるよ」
「あの手紙、見ちゃったんだ」
「お願いだから、誰のものにもならないで」
──そう言って飛び起き、彼女の背中に抱きつくことができたなら、どれほど楽だっただろう。

けれど、そんなことができるはずもなかった。

自分のわがままでセレフィアを困らせたくなかった。
何より、恋愛感情すらよく分かっていないと言っていた彼女に対して、自分の醜い独占欲を押し付けることが恐ろしかったのだ。
拒絶されるのが怖くて、彼女の「一番」でなくなることが怖くて、リリアーヌはただ、眠ったふりを続けることしかできなかった。

カサリ、と再び紙が畳まれる音がした。

セレフィアは静かに便箋を封筒に戻すと、それをデスクの引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
椅子が引かれる小さな音。
静かな足音が、リリアーヌのベッドの脇へと近づいてくる。
リリアーヌは固く目を閉じ、全身の力を抜いて息を整えた。
枕元で足音が止まる。
セレフィアは、ベッドの中で丸くなっているリリアーヌの小さな背中を、じっと見つめていた。
ランプの淡い光が照らし出す彼女の寝顔に、セレフィアが気づいているのかは分からなかった。
ただ、ゆっくりと伸ばされたセレフィアの手が、リリアーヌの掛け布団をそっと引き上げ、肩口を優しく包み込み直した。

「……おやすみなさい、リリアーヌ」

耳元で囁かれた低く澄んだ声は、どこまでも愛おしそうに、そしてどこか切なく響いていた。
そのまま静かに離れていく気配と、自分のベッドへと横たわる衣擦れの音。
やがて、読書用ランプの明かりが消され、室内の完全な暗闇が戻ってきた。
暗闇の中で、二人の呼吸だけが静かに重なる。
手紙の返事に答えを出せずに揺れるセレフィアと、声をかけることすらできずに涙を流し続けるリリアーヌ。
言葉にできない思いを胸に抱えたまま、夜の深淵は、ただ静かに二人を呑み込んでいくのだった。
22/34ページ
スキ