孤高の王子様に、ただひとつの特別を

授業をすべて終えた放課後、校舎の窓から射し込む夕陽は橙色を深め、石造りの廊下に長い影を落としていた。

リリアーヌは、高等部第1寮の重厚な玄関ホールで寮長を務める上級生の女性と落ち合い、落ち着いた足取りで館内を進んでいた。
学院の敷地内に建つ寮は、校舎と同じく歴史を感じさせる洗練された造りで、廊下に敷かれた深い赤の絨毯が靴音を静かに吸収している。

「ここが貴女のお使いになる二階の居住エリアです、リリアーヌさん」

寮長は穏やかな声で語りかけながら、廊下に並ぶアーチ状の扉をひとつひとつ指し示した。

「本校の寮は基本的に二人部屋となっております。互いに助け合い、高め合うことを目的として生活を共にしていただくのが伝統なのです。ただ、貴女の入寮されるお部屋は、これまでは諸事情により、ひとりのお生徒さんがおひとりで使われておりました」
「まあ……そうでしたのね」

リリアーヌは深く波打つ金髪をそっと撫で、品良く頷いた。

「ええ。ですが、元々ふたり部屋として設計されたゆえ、広さにも十分なゆとりがございます。あらかじめ、同室となる方には貴女が今日から入寮される旨、そしてこのお部屋をお二人で使っていただく旨をお伝えしてありますわ。とても思慮深く、落ち着いた方ですから、どうぞ安心して過ごしてくださいね」
「ありがとうございます。至らない点も多いかと存じますが、ご迷惑をおかけしないよう努めますわ」
「ふふ、心配はいりませんよ。リリアーヌさんのようなお上品な方なら、きっと良い関係を築けるはずです」

寮長は微笑みをたたえながら、廊下の突き当たり近くにある一軒の部屋の前で足を止めた。
重厚な木製の扉には、磨かれた真鍮のプレートが掲げられている。

「こちらのお部屋になります」

寮長はそう言って、トントンと静かに二回、規則正しく扉をノックした。

「……はい。どうぞ」

室内から返ってきたのは、低く澄んだ、どこか聞き覚えのある声だった。
静寂に染み渡るようなその響きに、リリアーヌは小さく息を呑む。
朝、校舎の大階段の近くで耳にした声と、あまりにも似通っていたからだ。
寮長がゆっくりとドアノブを回し、扉を開け放つ。

「失礼しますね。今日から同室となるリリアーヌさんをお連れしましたよ」

部屋の窓からは、茜色に染まる斜光が差し込んでいた。
その柔らかな光の中に佇んでいた人物を見て、リリアーヌは緑色の瞳をわずかに見開いた。
そこにいたのは、昼間の「王子様」セレフィアだった。
しかし、その姿は朝に見かけた完璧な凛々しさとは、どこか異なっていた。
白のブレザーは綺麗にハンガーへ掛けられ、スラックスの上に纏っているのは第一ボタンをわずかに緩めた白いシャツのみ。
左腕にあった生徒会長の腕章はすでに外され、机の上に静かに置かれている。
銀に淡い水色が混ざる美しい髪は少し解れ、低く結び直そうとしていたのか、あるいは軽く手ぐしを通しただけなのか、わずかに柔らかく乱れていた。
机の上には温かい紅茶のカップから薄く湯気が立ち上っており、書類を整えていたと思われるその動作は、どこかあくびを噛み殺した後のような、わずかな緩やかさを帯びている。
校内での隙のない立ち振る舞いとは対照的な、日常の静けさに身を置く一人の少女の姿が、そこにはあった。

「……あ」

セレフィアは手にしていた万年筆を静かに置くと、紫色の瞳をリリアーヌへ向けた。
そして、少しだけ眠たげな、けれどいつもと変わらぬ静謐な眼差しで、ゆっくりと立ち上がった。

「お話ししていた通り、今日からこの部屋の二人目となるリリアーヌさんですよ。仲良くしてくださいね」

寮長が穏やかに二人の間を取り持つ。
セレフィアは細い手首でシャツの袖口を少し整えると、深く、丁寧なお辞儀をした。

「初めまして。今日から同室となります、セレフィアです。よろしくお願いいたします」
「……初めまして。リリアーヌと申します。どうぞよろしくお願いいたします、セレフィアさん」

リリアーヌが淑やかに一礼を返すと、セレフィアは一瞬だけ紫色の瞳を少しだけ丸くした。
学院内の誰もが彼女を「王子様」あるいは「セレフィア様」と呼ぶ。
校舎で彼女に群がる生徒たちの声が、今もリリアーヌの記憶には鮮明に残っていた。
しかし、リリアーヌの口から出た言葉は、過剰な崇拝も畏怖も含まれない、ただの「セレフィアさん」という当たり前の呼び名だった。

「……綺麗に使ってくださっているのですね。私の荷物は、こちらの空いている側へ運べばよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。こちら側は自由に使ってください」

セレフィアは静かに頷き、空いている方のデスクとベッドを示した。
その声は普段通り淡々としており、感情の起伏をあまり感じさせない。けれど、どこか刺のない、心地よい響きがあった。

「長旅でお疲れでしょう。荷物の整理が終わるまで、何かお手伝いできることがあれば言ってくださいね」
「ありがとうございます、セレフィアさん。お気持ちだけで十分です」

案内を終えた寮長が「では、ゆっくりお話ししてくださいね」と言い残して部屋を去ると、重厚な扉が静かに閉まり、部屋には二人きりの沈黙が訪れた。
廊下の雑音は完全に遮断され、部屋の中には柱時計の刻む規則正しい音と、窓の外から聞こえる風の音だけが響いている。

(学校では、あんなに多くの方に囲まれて『王子様』と呼ばれていた方が……)

リリアーヌは、自分の荷物をデスクの脇へ置きながら、さりげなくセレフィアの様子を窺った。
セレフィアは再び椅子に腰掛け、温かい紅茶にそっと口を付けた後、少しだけ肩の力を抜いて息を吐いていた。
その横顔は、校内で見た威風堂々とした生徒会長の姿というよりは、ごく普通の、少し疲れを見せる十六歳の少女そのものであった。

「……あの、セレフィアさん」

リリアーヌが静かに声をかけると、セレフィアはカップを置いて振り返った。

「何でしょう、リリアーヌさん」
「昼間、校舎でお見かけいたしました。……皆様の中心にいらした姿を」
「ああ……」

セレフィアは合点がいったように小さく頷き、少し困ったような、けれど淡々とした笑みを浮かべた。

「みなさんが私をそのように呼ばれるのは、私にもよく分からないのですが……お見苦しいところをお見せしたかもしれませんね」
「いいえ、お見苦しいだなんて……とても凛々しくて、素敵でした。ただ……」

リリアーヌは胸元で手を少し組み、素直な思いを言葉にした。

「あのようなお姿でお過ごしになられていて、お疲れにはなりませんか? ずっと多くの方の視線を浴びていらっしゃるのは、大変なこととお見受けいたしましたけれど」

その問いかけに、セレフィアは紫色の瞳をわずかに揺らした。

校内での自分は、常に完璧な生徒会長であり、誰にとっても頼もしい「王子様」であった。困っている者に手を差し伸べ、凛とした態度を崩さないことが当たり前とされ、誰もその背後にある労力や疲労について尋ねてくる者などいなかったのだから。

「……私は、ただ自分のすべきことと、できることをしているだけですので。特別、演じているという意識もありません」

セレフィアは淡々とそう答えたが、どこか懐かしむように自分の手元を見つめた。

「ですが……ここでは、ただの私でいられますから。この部屋は、静かで好きです」

その言葉は嘘偽りのない、彼女の本音のように思えた。

「そう、ですか……」

リリアーヌは優しく目を細め、胸の奥で温かなものが広がるのを感じた。
学校中の生徒が憧れる「皆様の王子様」。
けれど、鍵の閉まったこの部屋の中でだけ見せる、少し寝癖のついた髪と、無防備で穏やかな素顔。
それをこれから毎日、自分の隣で見ることができるのだという事実に、リリアーヌの心は静かに、けれど確かに跳ねていた。

「私も、このお部屋が気に入りました。セレフィアさん、これからよろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いします。リリアーヌさん」

夕暮れの光が静かに部屋を包み込む中、ふたりの新しい生活が、静かに、そして確実に動き始めていた。
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