孤高の王子様に、ただひとつの特別を

聖リリウム女学院の敷地に差し込む光が、どこか柔らかな帯となって校舎の廊下を照らしていた。
季節が巡る中で、学園内の空気は確実に変わりつつあった。
かつては誰もが一定の距離を保ち、ただ遠くから息を呑んで仰ぎ見るだけの存在だった「生徒会長」であり「王子様」であるセレフィア。
その神聖な壁が、一人の少女の強引な情熱によって、少しずつ、けれど確実に解きほぐされていたからである。
廊下でリリアーヌに手を引っ張られ、不器用に眉をひそめながら追従するセレフィアの姿。
食堂で目の前に温かいスープを突きつけられ、困り果てたように匙を動かすセレフィアの横顔。

それらの光景を日常的に目にするようになった生徒たちの心の中に、変化が芽生え始めていた。
誰も近づけなかった高嶺の花だと思っていた彼女も、本当は困ったり、照れたり、誰かの温もりに翻弄されたりする、自分たちと同じ一人の少女なのだという親近感。
そして、何よりも「完璧な存在」として一人で無理を重ねていた彼女を労わりたいという、純粋な思いやり。

変化は、ほんの小さな出来事から始まった。

朝、校舎の昇降口で靴を履き替えていたセレフィアのもとへ、すれ違う下級生が控えめに声をかけた。

「セレフィア様……あ、あの、おはようございます」

これまでは憧れと畏怖が混ざり合い、視線を合わせることすら避けて素通りされるのが常だった。
セレフィアは一瞬だけ紫色の瞳を瞬かせたが、いつものように静かに一礼を返した。

「おはようございます。今日も良い一日になるといいですね」

ただそれだけの、他愛もない挨拶。
けれど、挨拶を返された下級生はパッと顔を輝かせ、嬉しそうに深々とお辞儀をして去っていった。

数日後には、図書室での出来事があった。

高層まで積み上げられた書棚の前で、セレフィアが探している資料の背表紙を見上げていた時のことだ。
彼女の身長では少しばかり手の届かない上段の棚。普段であれば無理をして背伸びをし、指先を伸ばして一人で取ろうとするところだった。

「セレフィアさん、その本をご所望ですか?」

背後から声をかけてきたのは、同じ学年の背の高い生徒だった。
彼女はすっと手を伸ばし、セレフィアの手が届かなかった分厚い図鑑を滑らかに引き抜いて、手渡してくれた。

「あ……ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして。いつもお仕事でお忙しそうですから、たまには私たちにも頼ってくださいね」

そう言って爽やかに微笑む生徒に対し、セレフィアは受け取った本の重みを感じながら、どこかぽつねんとした表情で佇んでいた。
誰かに日常のささやかな手助けをされるという感覚に、彼女の意識はまだ追いついていなかった。
さらに、生徒会室での執務中や廊下を歩いている際にも、似たような出来事が頻発するようになった。

「セレフィア様、こちら……よろしければ召し上がってください。焼き立てのクッキーですの。あまりお食事を摂られないと伺いましたので、少しでも栄養になればと……」
「セレフィアさん、放課後の書類提出ですが、私たちが分担してお手伝いしましょうか?」

手に渡される小さな焼き菓子の袋や、温かな申し出の数々。

セレフィアは、それらの意図を完全には理解できずにいた。
これまでは「王子様」としての完璧な振る舞いを期待され、頼られる側でしか存在し得なかった自分が、なぜこうして一方的に何かを与えられ、労わられているのか。

(……これは、一体どういう現象なのでしょうか)

手元に残された小さなクッキーの袋を見つめながら、セレフィアは首を傾げた。
断る理由もなく、無下に突っぱねることもできず、彼女はよく分からないまま、周囲から差し出される温かな配慮や贈り物をおとなしく受け取っていた。

しかし、その表情からは、かつてのような孤高の冷たさは消え、どこかわざとらしさのない無防備さが滲み出ていた。
その隙こそが、さらに周囲の生徒たちの「守ってあげたい」「力になりたい」という感情を刺激していることに、当の本人は全く気づいていなかった。

そして、その光景を少し離れた場所から見守る人物がいた。

リリアーヌである。

放課後の廊下、生徒たちに囲まれ、少し戸惑いながらも素直にお菓子の袋を受け取っているセレフィアの姿を、リリアーヌは遠目からじっと見つめていた。
胸の中に広がったのは、まず何よりも大きな安らぎと歓喜だった。

(……よかった。本当に、よかった……)

リリアーヌは胸の前でそっと両手を組んだ。

かつては「雲の上の存在」として神聖視され、誰とも打ち解けることができず、一人静かに生徒会室で冷たいシリアルバーを齧っていた彼女。
孤独の檻に閉じ込められていた「王子様」が、今ではこうして普通の女の子として同級生や下級生たちと触れあい、温かな言葉を交わし合っている。
自分が泥臭く彼女の手を引っ張り、なりふり構わずぶつかっていったあの選択は、決して間違いではなかったのだ。
学園の誰もが、セレフィアをただの「完璧な象徴」ではなく、血の通った一人の人間として、優しく受け入れ始めてくれている。
それは、リリアーヌがずっと望んでいた光景そのものだった。

けれど──。

安堵のすぐ後ろから、静かに忍び寄ってきた感情があった。

(……あれ?)

リリアーヌは、自分の胸の奥がキュッと小さく痛むのを感じた。
ほんのわずかな、ちくりとした刺すような痛み。
セレフィアの手が届かない本を、自分以外の誰かが代わりに取ってあげる姿。
セレフィアの体調を気遣い、自分以外の誰かが温かなお菓子を渡す姿。
そして、それらを拒絶することなく、少し首を傾げながら素直に受け取っているセレフィアの横顔。

これまで、セレフィアの不健康な食生活を叱り、その冷えた手を引っ張り、誰も知らない彼女の無防備な素顔を知っていたのは、自分だけだったはずだった。
あの鍵のかかる小さな寮室の中で、自分だけが彼女の「ただのセラ」という素顔を独占していたはずだった。

それなのに、彼女がみんなの「普通の人」になっていくにつれて、自分だけの特別な居場所が、少しずつ薄れていってしまうような……そんな身勝手で幼い寂しさが、胸の片隅に小さく芽生えていた。

(何考えているのかしら、私……。みんながセラと仲良くしてくれるのは、一番望んでいたことなのに……)

リリアーヌは慌てて首を振り、胸の中の邪念を払おうとした。
セレフィアが孤立から解放され、みんなに愛されることは素晴らしいことだ。
自分一人が独占していい存在ではないことなど、最初から分かっていたはずだった。

「あ……リリアーヌ」

ふと、人混みの隙間からリリアーヌの姿を見つけたセレフィアが、静かに声をかけてきた。

周りの生徒たちに一礼をして辞すと、セレフィアは手にお菓子の袋を持ったまま、迷いのない足取りでリリアーヌのもとへと歩み寄ってくる。

「探していました。……これ、先ほど下級生の方からいただいたのですが、私一人では食べきれそうにありません。よろしければ、部屋で一緒に食べませんか?」

何気ない調子で差し出されたお菓子の袋。
そして、まっすぐに自分だけを映し出す、あの透明な紫色の瞳。
その瞳に見つめられた瞬間、胸の奥のちくりとした痛みは、一気に甘く熱い高鳴りへと姿を変えた。

(……ひどいな、私)

リリアーヌは小さく自嘲しながらも、溢れ出そうになる笑みを隠すように、少しだけ口元を緩めた。
みんながセレフィアに優しくしてくれるようになった。
それは本当に嬉しいことだ。
けれど、こうして自分の元へ真っ先に戻ってきて、「一緒に食べよう」と言ってくれるその特別な温度だけは、誰にも渡したくないと思ってしまう。

「ええ……! 喜んで、セラ!」

リリアーヌはお上品な微笑みを浮かべ直し、セレフィアの隣にそっと寄り添った。
自分の中で蠢く、祝福とほんの少しの独占欲。その甘い痛みを胸に抱えたまま、リリアーヌはみんなの「普通の人」になりつつある彼女の手を、今日も優しく取り直すのだった。
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