孤高の王子様に、ただひとつの特別を

旧校舎の談話室で起きた出来事から、数日の時が流れていた。
秋の澄んだ空気が聖リリウム女学院の校舎を包み込み、庭園の樹々は日に日に赤や黄色へと色濃く染まりつつある。

一見すると、日常は何一つ変わっていないように思えた。
リリアーヌは相変わらず同級生たちと楽しげにランチを囲み、放課後には談話室で読書や会話を楽しんでいる。
けれど、彼女の胸の奥底には、以前にはなかった小さな、けれど無視できない変化が静かに生じ始めていた。

ふとした瞬間に、あの日の光景が鮮明に脳裏に蘇ってくるのだ。
授業中、黒板に向かう教員の声を背景にしながら窓の外の雲を眺めている時。
あるいは、自室で机に向かい、ペンを走らせている静かな夜。
夕闇の混じる薄暗い部屋で、自分を背中に隠すようにして立っていたセレフィアの横顔。
冷徹で圧倒的な威厳を漂わせながらも、上級生たちに向かって放たれたあの一言ひとことが、リリアーヌの耳の奥で何度もリフレインしていた。

『私に温かいものを食べさせるために、何度も指を傷つけながら料理を覚えてくれたのです』 『私のご威厳などという薄っぺらなもののために、彼女の真摯な優しさと情熱を不当に踏みにじることは、この生徒会長・セレフィアが絶対に許しません』

その言葉を思い出すたびに、リリアーヌの胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない高鳴りを覚えた。

(……どうしてなの)

両手でそっと自分の頬に触れてみると、肌がかすかに熱を帯びているのが分かった。

これまでも、セレフィアの身体を心配し、無機質な食生活から救い出したいという情熱は胸の中にあった。
けれど、今の胸の内に広がる熱は、単なる同情や友人としての思いやりとはどこか違う、もっと深く、甘く、胸を揺さぶる性質のものだった。
あの日、自分を「ただの友達」としてではなく、全霊をかけて守るべき大切な存在として扱ってくれたこと。
「みんなの王子様」ではなく、一人の少女として自分にすべてを明かしてくれたこと。
それを思い返すだけで、心臓がトクトクと重い鼓動を打ち始め、視線が泳いでしまうのだった。

そんなリリアーヌの揺れる心情に追い打ちをかけるかのように、学園内で新たな変化が起きていた。
それまで生徒会室と校長室、そして自身の寮室くらいしか往復することのなかったセレフィアが、頻繁にリリアーヌの所属する二年二組の教室に足を運ぶようになったのである。
昼休み、あるいは放課後。

「失礼します。リリアーヌはいますか?」

澄んだ声が教室の扉越しに響くと、教室内の生徒たちが一斉にざわめいた。
白ブレザーを隙なく着こなし、腕章を覗かせたセレフィアが扉の脇に立っている。
その佇まいは相変わらず美しい「王子様」そのものだったが、彼女の紫色の瞳が捉えているのは、常に教室の奥にいるリリアーヌ一人だけだった。

「せ、セレフィアさん……? どうされたのですか、こんなところまで」

リリアーヌが慌てて席を立ち、扉のほうへ駆け寄ると、セレフィアはほんのわずかに口元を緩め、持っていた小さなノートや書類を軽やかに持ち上げた。

「交流会の準備で、あなたのクラスの提出書類に少し確認したい点があったのです。それと……」

セレフィアは周囲の生徒たちの視線を気にする素振りも見せず、リリアーヌの顔をまっすぐに見つめた。

「今日は、昼食を一緒に摂ろうと思いまして。あなたがいつも選んでくれる、あの食堂の温かいスープをいただこうかと」
「えっ……!?」

リリアーヌは思わず声を裏返らせた。

かつては「効率が悪い」「時間がない」と言って、引き出しのシリアルバーばかり齧っていたあのセレフィアが、自ら進んで食堂へ行こうと誘ってきているのだ。
しかも、わざわざ彼女の教室まで足を運んで。
周囲の同級生たちが、「まあ……」「セレフィア様が自らお迎えに……」と感嘆と羨望の入り混じった吐息を漏らすのが聞こえてくる。
その視線を感じるだけで、リリアーヌの顔は一気に沸騰したかのように熱くなった。

「な、なにを言っているの、セラ! 私から行くって言おうと思ってたのに……! わざわざ迎えに来なくてもいいでしょう!?」

思わずいつものような親しげな口調が飛び出し、リリアーヌは慌てて口を押さえた。
周囲にはまだ「お嬢様」としてのリリアーヌしか知らない同級生も多い。
けれど、セレフィアはリリアーヌのそんな反応すら愛おしそうに見つめ、クスリと小さく笑った。

「あなたに呼びに来てもらうのを待つより、私が迎えに来た方が早いでしょう? それに……あなたと過ごす時間を、少しでも長く取りたかったのです」

淡々と、けれど何の迷いもなく告げられた言葉。
その一言は、リリアーヌの胸にダイレクトに突き刺さった。

(な、何を……何を言っているの、この人は……!)

心臓が早鐘のように鳴り響き、赤くなった顔を隠すように、リリアーヌは下を向くしかなかった。
あの日以来、セレフィアの何気ない言動や視線の一つひとつが、過剰なほどの熱量を持ってリリアーヌの心に響いてしまう。

「ほら、行きましょう、リリアーヌ」

そう言って、セレフィアは自然な動作でリリアーヌの手を優しく取った。
かつてはリリアーヌが強引に引っ張っていたその手を、今はセレフィアのほうから静かに、けれどしっかりと握り返してくる。
指先から伝わってくる、セレフィアの体温。
かつては冷たく、どこか無機質に感じられた彼女の手が、今はとても温かく、心地よかった。

「あ……うん……」

リリアーヌは小さな声を漏らし、引かれるままに歩き出した。
廊下を並んで歩く二人。
すれ違う生徒たちが驚きと憧れに満ちた視線を向けてくるが、今のセレフィアはそれらを意に介する様子もなく、ただ隣を歩くリリアーヌの様子を伺っていた。

「リリアーヌ? 顔が赤いようですが……体調でも悪いのですか?」

足を止め、心配そうに顔を覗き込んでくるセレフィア。
その透明感のある紫色の瞳が、至近距離でリリアーヌを映し出している。

「な、なんでもない! なんでもないから、早く行きましょう!」

リリアーヌは慌てて握られた手をギュッと握り返し、誤魔化すように早足で歩き出した。
自分を庇ってくれたあの日から、何かが確実に変わってしまった。
冷たい王子様を救おうとしていたはずの自分が、いつの間にか彼女の持つまっすぐな熱と優しさに、足元から呑み込まれていくような感覚。
高鳴る胸の鼓動を隠しながら、リリアーヌは隣で穏やかに微笑むセレフィアとともに、秋の光差し込む廊下を歩み進めていくのだった。
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