孤高の王子様に、ただひとつの特別を

季節の針が着実に進み、聖リリウム女学院の庭園を彩る樹々の葉も、深みのある色合いへと表情を変え始めていた。
それから数日、そして数週間という時間が静かに流れていった。
かつては世間知らずで控えめなお嬢様だったリリアーヌと、誰からも「完璧な王子様」として崇められていた生徒会長のセレフィア。
ふたりの日常は、校内でも誰もが知る馴染みの光景となっていた。

「もう、セラったら! またそんな冷たいゼリーだけでお昼を済ませようとして! 今日は食堂で温かいおうどんを食べるって約束したでしょ!」
「ですがリリアーヌ、午後は教務課との打ち合わせがあり、あまり時間をかけられないのです……」
「言い訳は駄目! 5分で食べるから大丈夫! ほら、行くよ!」

澄み渡る秋空の下、放課後や昼休みの廊下で繰り広げられるのは、頬を膨らませたリリアーヌがセレフィアの手首を強く握りしめ、強引に連れ出そうとする姿だった。
お嬢様としての品格や遠慮をすっかり脱ぎ捨てたリリアーヌは、容赦なくセレフィアの無機質な食生活を拒絶し、彼女を引っ張っていく。
そして、かつては誰に対しても隙を見せず、完璧な対応を貫いていたセレフィアが、髪を少し乱しながら「待ちなさい、リリアーヌ」「引かないでください」と不器用によろめき、困り果てたような表情で彼女に従っているのだ。
周囲の生徒たちにとって、それは驚愕の連続だった。

誰の立ち入りも許さなかった「王子様」の孤独な領域に、いとも容易く足を踏み入れ、あろうことか彼女を振り回している少女。
セレフィアが魅せる、年相応の人間らしい表情や困惑の眼差しは、すべてリリアーヌの前でしか現れない特別なものだった。

「まあ……今日もセレフィア様が、リリアーヌさんに引っ張られていらっしゃるわ」
「あんなに感情を露わにされるセレフィア様、今まで見たことがありませんものね……」

多くの生徒たちは、孤高だった生徒会長が見せる微笑ましい変化を好意的に受け止めていた。
けれど、広大な校内の中に存在するすべての人間が、それを温かな眼差しで見守っていたわけではない。
伝統と格調を重んじる一部の上級生や、古くからセレフィアを神聖視し、遠くから熱烈な憧れを抱き続けてきた生徒たちにとって、今の現状は決して面白く受け入れられるものではなかった。

「一介の転入生に過ぎないあの少女が、なぜあのように無礼な振る舞いを許されているの?」
「私たちの憧れであるセレフィア様を、まるで自分の所有物のように連れ回して……言葉遣いまで崩して、下品極まりないわ」
「セレフィア様も、きっとあんな強引な少女に困惑されているに違いないわ。私たちが、あの方の威厳をお守りしなければ……」

歪んだ崇拝と嫉妬、そして身勝手な正義感は、静かに、けれど確実に熱を帯びて暗雲のように膨らんでいった。
それは、放課後の鐘が鳴り響き、校内が茜色の夕闇に包まれ始めた頃のことだった。
リリアーヌは、図書室で借りた本を返却し、自室へ戻るために静かな北校舎の廊下を歩いていた。今日の夕飯には、実家から届いた新鮮な根菜を使って、温かいスープを部屋で振る舞おうと考えていた。

(セラ、今日も生徒会の仕事で疲れているみたいだったから……根菜を柔らかく煮込んで、生姜を少し効かせたら喜んでくれるかな)

そんなことを考えながら足早に歩を進めていたリリアーヌの前に、ふっと幾筋もの影が落ちた。

「……あら、リリアーヌさん。少々お時間を見分していただけますかしら?」

静かだが、冷ややかな声が廊下に響いた。
リリアーヌが足を止めると、目の前には品格のある制服を隙なく着こなした三人の高等部三年生が立ち塞がっていた。
中央に立つ背の高い生徒は、鋭い眼差しでリリアーヌを見下ろしている。その胸元に光る豪華な刺繍は、彼女たちが代々続く名家の子女であることを物語っていた。

「……先輩方。何かご用でしょうか?」

リリアーヌは姿勢を正し、静かに問いかけた。かつての臆病さは消えていたが、上級生たちの纏う刺々しい空気に、胸の奥が微かに冷たくなるのを感じた。

「ええ。あまり大きな声では言えませんの。あちらの旧館の談話室へいらしてくださらない? 大事なお話がございますのよ」

選択肢など与えないと言わんばかりの威圧的な態度。
断れば、さらに面倒なことになるのは明白だった。
リリアーヌは軽く頷き、彼女たちの後に続いて、人通りの途絶えた旧校舎の奥へと足を踏み入れた。
重厚な木造の扉が閉ざされ、薄暗い談話室に佇む四人。
夕暮れの橙色の光が斜めに差し込む部屋の中で、中央の三年生が静かに腕を組み、冷酷な笑みを浮かべた。

「単刀直入に申し上げますわ、リリアーヌさん」

彼女の声には、隠しきれない蔑みと嫉妬が満ちていた。

「あなたの最近の立ち振る舞い……見ていて非常に不愉快ですの。ご自覚はおあり?」
「不愉快、ですか……?」
「ええ。あなたはご自身の立場というものを理解していらっしゃるのかしら? 転入してきて日の浅いあなたが、なぜ学院の象徴であり、生徒会長であられるセレフィア様に軽々しく触れ、あのような無礼な口調で連れ回しているのです?」

他の二人の上級生も、同調するように冷ややかな視線を浴びせてくる。

「セレフィア様は、この学院の誇りですわ。誰よりも高潔で、完璧で、遠い雲の上の存在……。それを、あなたはまるで自分の玩具のように振り回し、庶民のような品のない真似をさせて……。セレフィア様の高貴な尊厳を傷つけているとは思わないのですか?」
「お言葉ですが」

リリアーヌは揺らぐことなく、まっすぐに上級生たちの瞳を見つめ返した。言葉遣いは丁寧に戻していたが、その緑色の瞳には一点の濁りもなかった。

「私は、セラの……セレフィアさんの尊厳を傷つけてなどおりません」
「言い返しますのね? あのお方の優しさに甘えて、つけあがるのもいい加減にしなさい! あのお方は断れないお優しいお性格だからこそ、あなたの強引な我が儘にお付き合いさせられているだけですわ。あなたが隣にいることで、あのお方の完璧な御名に傷がついているのです!」

甲高い声が、静かな談話室に反響する。

「いいですか? 二度とセレフィア様に気安く触れないこと。あのお方の手を引っ張るような下品な真似はやめ、一歩引いた場所で慎ましくしていなさい。もしこれ以上、あのお方を困らせ、学院の秩序を乱すというのであれば……私たちにも考えがございますわ」

明確な脅迫と排斥の言葉。
かつてのリリアーヌであれば、大勢の上級生に囲まれ、このような冷酷な言葉をぶつけられれば、恐怖に身を縮こまらせ、ただ黙って引き下がっていたかもしれない。
けれど、今の彼女の頭に浮かんだのは、冷たい引き出しから味気ないシリアルバーを取り出し、一人で孤独に耐えていたセレフィアの横顔だった。
誰からも「完璧な象徴」であることを求められ、弱音を吐くことすら許されず、食事をとる時間すら削って誰かのために尽くし続けていた彼女。
目の前にいるこの人たちは、セレフィアの「完璧な姿」しか見ていない。
崇め奉るだけで、彼女がどれほど疲れ果て、どれほど脆いひとりの少女であるかを知ろうともしない。

「……違います」

リリアーヌの声は小さかったが、部屋の空気をピリリと震わせるほどの芯の強さがあった。

「何が違うとおっしゃるの!?」
「先輩方は……何もご存じないのです」

リリアーヌは一歩踏み出し、上級生たちをまっすぐに見つめた。

「セレフィアさんは、完璧な飾り物ではありません! 皆様が『王子様』だと持ち上げて、頼りきりにしている陰で……あの方がどれほどご自分の体を削り、どれほど冷たく寂しい思いをされているか、考えたことがおありですか!?」
「なっ……何を生意気な……!」
「私は、あの方を振り回したいわけではありません!ただ、あの方に温かいご飯を食べてほしいだけです!温かいスープを飲んで『美味しい』って笑ってほしいだけです!」

感情が高ぶり、思わずいつもの言葉遣いが口をついて出た。リリアーヌの緑色の瞳には、偽りのない真摯な情熱と、怒りにも似た強い意志が宿っていた。

「あの方を『雲の上の存在』にして孤独の中に閉じ込めているのは、あなた方です!だから私は、絶対に引き下がりません!セラがちゃんとした人間らしい生活を取り戻すまで、私は何度でも彼女の手を引きます!」

言葉を失う三年生たち。
一介の大人しいお嬢様だと思っていた少女が放つ、圧巻の気迫とブレない強い信念。談話室を支配したのは、重苦しい静寂だった。

その時だった。
カチャリと、談話室の重厚な扉が静かに開かれた。

「――そこまでにしていただけますか」

静かで、どこまでも澄んだ低音。
夕闇の廊下から姿を現したのは、第一ボタンまで隙なく留められた白ブレザーを纏い、左腕に生徒会長の腕章を光らせたセレフィアだった。
その紫色の瞳には、氷のように冷ややかで、けれど圧倒的な威厳に満ちた光が宿っていた。
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