孤高の王子様に、ただひとつの特別を

日曜日の夕刻。
東の空から静かに夜の気配が忍び寄る中、高等部第1寮の廊下に少し慌ただしくも慎重な足音が響いていた。
帰省を終えたリリアーヌは、重そうな籠と幾つもの重箱を両手に大切そうに抱え、自室の前で足を止めた。
重箱からは、まだ仄かに温かな匂いと、様々な料理が織りなす芳醇な香りが漂っている。
手首を使ってゆっくりとドアノブを回し、部屋の扉を開ける。

「ただいま戻りました、セレフィアさん――」

室内に視線を向けると、そこには案の定、いつも通りの光景があった。
白シャツ姿のセレフィアがデスクの前に座り、引き出しから取り出したばかりの銀色の包装紙に手をかけているところだった。
味気ないシリアルバーを今まさに口へ運ぼうとしていた彼女は、リリアーヌの声に驚いたように紫色の瞳を瞬かせた。

「お帰りなさい、リリアーヌさん。……その大きな荷物は一体……」

セレフィアが立ち上がろうとした瞬間、リリアーヌは迷いのない足取りで部屋の中央にあるテーブルへと歩み寄った。
抱えていた重箱や小鉢を次々とテーブルの上へ広げていく。
煮込み料理の入った深皿、彩り豊かな野菜の和え物、丁寧に取られた出汁が薫るスープの容器、ふっくらと炊き上げられた白米。
整然と並べられた品々は、冷ややかだった部屋の空気を一瞬にして温かな湯気と幸福な香りで満たしていった。

「さあ、セレフィアさん。本日の夕飯はこちらを召し上がってください!」

リリアーヌは優しく微笑むと、驚きで固まっているセレフィアの元へ歩み寄り、彼女の細い指先からすっと銀色のシリアルバーを取り上げた。

「リリアーヌさん……? これは、どうされたのですか。このような大量のお料理を……」

「実家で作り込んできました! セレフィアさんに、いろんなものを食べてもらいたくて……。温かくて、美味しくて、お心が満たされるものを、どうしても召し上がっていただきたかったのです」

リリアーヌの言葉は穏やかだったが、そこには決して引かない強い意思が込められていた。
取り上げられたシリアルバーを見つめた後、セレフィアは目の前に広げられた湯気を立てる料理群へ視線を移した。
料理長や使用人たちが作る完璧な仕上がりの品とは少し異なり、野菜の大きさが不揃いだったり、焼き色にわずかな斑があったりと、作り手の試行錯誤と不慣れさが窺える料理たち。
そして、セレフィアの視線は、料理を指差しながら嬉しそうに語るリリアーヌの「手元」で静止した。

白く滑らかだったはずのリリアーヌの指先。
そのそこかしこに、小さな絆創膏が貼られ、包丁でかすめたような痛々しい赤い傷跡や、熱い鍋に触れてしまったのであろう微かな火傷の跡が残っていた。
裕福なお嬢様として大切に育まれ、これまで包丁一枚握ったことのなかったはずの彼女が。

「……リリアーヌさん。その手は……」

セレフィアの声が微かに震えた。

「ああ……これは」

リリアーヌは少し決意を秘めたように微笑み、傷のついた指先を隠すように軽く重ねた。

「少し、不手際がございまして。実家の厨房で料理長に無理を言って教わったのです。最初は反対されてしまいましたけれど……どうしても、セレフィアさんのために私が作りたかったので……。リリアがやるのだと、わがままを言ってしまいました」

照れくさそうに、けれど誇らしげに目を細めるリリアーヌ。
その一言、その傷跡の理由を理解した瞬間、セレフィアの胸の奥に、これまで生きてきて一度も味わったことのないような巨大な感情の波が押し寄せた。
ただ「みんなの王子様」として頼られ、期待され、自分の身体すら犠牲にして淡々と責務を果たし続けてきた自分。
冷たいシリアルバーを齧り、時間を節約することだけを考えていた自分。
そんな自分のために、この人は自らの美しい指先を傷だらけにしてまで、温かい料理を作り、運んできてくれたのだ。

昨日の記憶が、鮮明に脳裏に蘇る。

交流会の打ち合わせで訪れた系列校のアルヴィーノとルミの言葉。

『人間にはカロリーの数値だけでは測れない心身の充足が必要です』
『美味しいものを「美味しいね」って言いながら食べると、なんだか心がポカポカするでしょ? 一緒に温かいもの食べた方が絶対いいよ』

あの時、胸の奥に芽生えた小さな予感が、今、目の前で確かな温もりとなって溢れていた。

「……セレフィアさん?」

返事のないセレフィアを心配そうに覗き込むリリアーヌに対し、セレフィアはゆっくりと息を吐き、紫色の瞳を潤ませながら、静かに、けれど深く頷いた。

「……ありがとうございます、リリアーヌさん」

低く澄んだ声には、隠しきれない愛おしさと感謝が滲んでいた。

「ぜひ……一緒に、召し上がっていただけますか」

「ええ、もちろん!」

リリアーヌの顔に、ぱっと太陽のような笑みが咲いた。

二人は向かい合わせに椅子へ腰掛けた。
リリアーヌが丁寧に注いでくれた温かなスープの器を持ち、セレフィアはゆっくりと一口、口に含んだ。

野菜の優しい甘みと、出汁の深みが舌の上に広がり、喉を通って身体の隅々へと染み渡っていく。
ただ腹を満たすためだけの冷たい無機質な栄養食とはまるで違う、作り手の想いと温もりが詰まった「本物の食事」。

「……とても、美味しいです」

セレフィアが呟くと、リリアーヌは胸の前で手を組み、心から安心したように深く目を細めた。

「本当……? 良かった……! 口に合わなかったらどうしようかと、ずっとドキドキしてたの……」
「いいえ。こんなにも美味しいものをいただいたのは……生まれて初めてかもしれません」

セレフィアは素直な思いを口にし、ふわりと柔らかく口元を緩めた。
その微笑みは、学校で生徒たちに見せる完璧な「王子様」の笑みでもなく、疲弊しきった自嘲の苦笑いでもない。
ただの十六歳の少女としての、穏やかで心からの笑顔だった。

「美味しいですね、リリアーヌさん」
「ええ……! 本当に、美味しいですね、セレフィアさん」

湯気の立ち上るテーブルを挟んで、二人は顔を見合わせ、微笑みを交わした。

窓の外はすっかり深い夜の闇に包まれていたが、鍵のかかった小さなこの部屋の中には、二人が分け合う温かな湯気と、互いを想う優しさがどこまでも満ち満ちていた。

一人で背負い続けてきた「王子様」の孤独は、今、目の前にいる少女の傷だらけの手と、温かい料理によって、静かに、そして確実に溶かされていくのだった。
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