孤高の王子様に、ただひとつの特別を

週末を迎えた聖リリウム女学院は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

多くの生徒たちが家族の待つ実家へと帰省し、手入れの行き届いた敷地内には、時折吹き抜ける風が木々を揺らす音だけが響いている。
しかし、すべての生徒が帰路につくわけではない。
遠方に実家がある者や、特別な事情を抱える生徒たちは、この静寂に包まれた寮内で思い思いの休日を過ごしていた。
生徒会長であるセレフィアもまた、学園に残る一人だった。
校内の二階、静まり返った生徒会室のデスクに向かい、セレフィアは黙々と万年筆を走らせていた。
白ブレザーは脱ぎ捨てられ、第一ボタンを外した白シャツ姿。
左腕の腕章はデスクの脇に静かに置かれている。
いつもなら隣のベッドやデスクに気配を感じるはずの空間には、今はいかなる人の気配もない。

(……静かですね)

小さく息を吐き、セレフィアは引き出しの奥から慣れた手つきで銀色の包装紙を取り出した。
カサリ、と無機質な音が静寂を破る。
一口噛み砕き、冷えた水で喉へ流し込む。
味気ないシリアルバーによる、いつも通りの淡々とした食事。
空腹を満たすためだけの作業を済ませると、彼女は再び手元の書類へと意識を戻した。
来月に予定されている系列校との交流会に向けた各種調整文書。確認すべき項目は山のようにあった。
そのとき、静かな廊下から規則正しい足音が近づき、部屋の扉が二回、静かにノックされた。

「……はい、どうぞ」

セレフィアが声をかけると、重厚な木製の扉が押し開かれた。

そこに立っていたのは、隣接する系列校・白薔薇高等学校の生徒会副会長を務めるアルヴィーノだった。
白ブレザーに濃紺のスラックスを完璧に着こなし、胸元には男子校の校章である白薔薇の徽章が光っている。その佇まいは相変わらず冷静で、隙がない。
そして、そのすぐ後ろから顔を覗かせていたのは、小柄で華奢な少年ルミだった。
ルミは本来の制服の上から、明らかにサイズの合っていないアルヴィーノ私物の濃紺カーディガンを羽織っている。
長すぎる袖口からわずかに指先を覗かせ、腰まで届く水色の長髪を揺らしながら、親しげな笑みを浮かべていた。

「失礼します、セレフィアさん。休日に申し訳ありません」

アルヴィーノは低く落ち着いた声で会釈した。

「いいえ、構いませんよ、アルヴィーノさん、ルミさん。どうぞお入りください」

セレフィアは万年筆を置き、椅子から立ち上がった。

「系列校交流会の件ですね。そちらの準備状況はいかがですか?」
「ええ。双方の生徒会で共有すべき確認事項がいくつか出来しましたので、資料を持参しました。休日のうちに擦り合わせておいた方が、週明けの動きがスムーズかと思います」

アルヴィーノは手にした黒いファイルから幾枚かの書類を取り出し、セレフィアのデスクへ丁寧に広げた。

「ありがたいです。私もちょうどその件の資料を整理していたところでした」

セレフィアは持ち前の高い処理能力を発揮し、提示された資料の記載事項を素早く検分し始めた。
二人の間では、無駄のない合理的な言葉交わしが淡々と続いていく。
お互いに仕事を迅速かつ確実にこなすタイプであるため、協議は驚くほどスムーズに進んでいった。
その傍らで、ルミは部屋の中を興味深そうにそっと見回していたが、やがてデスクの片隅に置かれた小さなゴミ箱へ目を留めた。
そこには、先ほどセレフィアが捨てたばかりの、銀色のシリアルバーの包装紙が丸めて捨てられている。
ルミは青い瞳をわずかに丸め、それからセレフィアの横顔をじっと見つめた。

「ねえ、セレフィアちゃん。もしかして、それでお昼おしまい?」

書類をめくっていたセレフィアの手が、ぴたりと止まった。

「……ええ。必要な栄養はこれで補給できておりますので、問題ありません」

セレフィアはいつも通りの淡々とした口調で答えたが、ルミはぶかぶかのカーディガンの袖を軽く揺らしながら、少しだけ首を傾げた。

「んー……それ、全然お昼ごはんっぽくないよ? アルヴィーノ、これどう思う?」

振られたアルヴィーノは、整った眉を微かにひそめ、デスクの上の包装紙とセレフィアの顔を交互に見つめた。

「……セレフィアさん。差し出口を叩くようですが、あなたの食生活については以前から少々懸念しておりました。効率を重視するお考えは理解できますが、それは健康的な管理とは言えません」

アルヴィーノの指摘は極めて合理的で冷徹だった。

「交際相手であるルミを見ていても分かりますが、人間にはカロリーの数値だけでは測れない心身の充足が必要です。そのような冷ややかな補給のみでは、いずれパフォーマンスの低下を招きますよ」
「アルヴィーノの言う通りだよ~」

ルミはふわりと笑いながら、セレフィアの近くへ一歩踏み出した。

「俺ね、アルヴィーノと一緒にご飯食べるの、すっごく大好きなんだ。美味しいものを『美味しいね』って言いながら食べると、なんだか心がポカポカするでしょ? セレフィアちゃんも、誰かと一緒に温かいもの食べた方が絶対いいよ」
「……誰かと、一緒に……」

セレフィアは言葉を反芻し、紫色の瞳をわずかに揺らした。
脳裏に浮かんだのは、金髪を優しく揺らしながら、この部屋で丁寧に紅茶を注いでくれたリリアーヌの姿だった。

『ここには、貴女を崇める生徒も、頼りにしてくる下級生もおりませんでしょう? 私と、セレフィアさんのおふたりだけなのですから』
『これからは、このお部屋に戻られたら、ただのセレフィアさんでいらしてくださいね』

あの時口にした紅茶の温もりと、リリアーヌの穏やかな微笑み。

「……リリアーヌさんは今、実家へ戻られています」

セレフィアはポツリと、自分でも意図しないほど小さな声で呟いた。

「彼女は……私の身体や生活を、とても心配してくれていました。『そんなものは食事と言えません』と……強く言われてしまいました」

その言葉を聞いたアルヴィーノは、眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげ、深く静かに頷いた。

「彼女の仰る通りでしょうね。あなたを真に案じているからこその言葉です」
「うんうん!」

ルミは嬉しそうに頷き、ぶかぶかの袖口から覗く手でポンと手を打った。

「リリアーヌちゃん、すごくセレフィアちゃんのこと大事に思ってるんだね。だったらさ、今度リリアーヌちゃんが帰ってきたら、一緒にちゃんとしたご飯食べなよ! 絶対その方が嬉しいよ!」

ルミの屈託のない笑顔と、アルヴィーノの静かな納得の表情。
系列校の二人から投げかけられた素直な言葉に、セレフィアは胸の奥が微かに熱くなるのを覚えた。

「……そうですね。彼女が戻ったら……少し、考えてみます」

セレフィアは淡く、けれどどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。

「では、交流会の調整の続きをはじめましょうか」
「ええ、よろしくお願いします」

静かな部屋の中で、再び万年筆の走る音が心地よく響き始めた。
一人きりの冷ややかな週末の中に、ほんのわずかな温かな予感が、静かに芽生え始めていた。
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