恋を売る夜に、ただひとつの愛を
連日の激しい営業の疲れが、じわじわと体に沈着していくのを感じていた。
数日後の昼下がり。
浅い睡眠から覚めたレオは、無意識のうちに足をあの路地裏へと向けていた。
完璧な立ち振る舞いと甘い言葉で女たちを酔わせる「神城 蓮」の仮面を脱ぎ捨て、上質なニットに袖を通しただけの「レオ」として。
カラン、とドアベルが静かな音を立てる。
「いらっしゃいませ!」
店内に響いたのは、数日前よりも少しだけ通りがよく、落ち着いた声だった。
見上げると、あの白銀の髪の少女が出迎えてくれた。 ゆったりとまとめた髪に、清楚な白ブラウスとエプロン姿。
前回見せたガチガチの緊張感は和らぎ、少し仕事に慣れた様子で、丁寧なお辞儀とともに柔らかな笑みを浮かべている。
「……あ、先日の……」
彼女はレオの顔を見ると、驚いたように小さく瞳を丸くし、それからどこか嬉しそうに目元を緩めた。
自分が受け持ち、美味しいと言ってくれた客のことをちゃんと覚えていたのだろう。
「こんにちは。また来させていただきました」
「ありがとうございます。お好きなお席へどうぞ」
案内されたのは、前回と同じ静かな窓際の席だった。
「ご注文は、いかがなさいますか?」
「ブレンドコーヒーをひとつ、お願いします」
「かしこまりました。ブレンドコーヒーですね。少々お待ちください」
メモを取る手つきも、前よりずっとスムーズだ。
けれど、丁寧にお辞儀をしてカウンターへ戻るまでの真摯な歩みは少しも変わっていなかった。
注文を終えたレオは、ポケットから営業用のスマートフォンを取り出した。
画面を開けば、相変わらず「姫」たちからの大量のメッセージが並んでいる。
『蓮くん今日何してるの?』『会いたいな』『昨日は楽しかったね』。
指先を滑らせ、思考の何割かをそちらに割きながら、一通一通に返信を打ち込んでいく。
相手の承認欲求を満たし、過不足のない甘さを添えた完璧な文面。
何年も叩き込んできた「神城 蓮」としてのルーティン作業だ。
ぽちぽちと画面をタップする指先は、ほとんど無意識に近い。
けれど――彼の意識と視線は、完全にその画面だけに集中してはいなかった。
(……今日は、随分と手際が良くなりましたね)
スマートフォンの画面の上から、ふと視線を上げる。
カウンターの奥で、彼女は慎重にサイフォンを扱っていた。
フラスコから立ち上る湯気をじっと見つめる真剣な横顔。
豆を削る音、お湯の沸く静かな音に合わせて、彼女の長い白銀の髪が繊細に揺れる。
他の客から注文が入ると、「はい、ただいまお伺いします」と小さくお辞儀をしてテーブルへ向かう。
トレイを持つ手元はまだどこか緊張を孕んでいるものの、グラスを置く動作は驚くほど静かで丁寧だ。
客から「ありがとう」と言われるたび、パッと花が咲いたように嬉しそうに微笑む。
(……本当に、見ていて飽きない人だ)
歌舞伎町の店で見る女たちの笑顔は、どれも自分を良く見せるための計算や、欲望に彩られた華やかなものばかりだ。
けれど、目の前でひたむきに働く彼女の笑顔には、一切の裏がない。
ただ純粋に、「お客様に喜んでほしい」という素朴な想いだけで満たされている。
返信を打つ手が、ふと止まる。
画面の中に踊る「好きだよ」「会いたい」という自分の打った偽りの言葉と、目の前で静かに流れる穏やかな時間。
その鮮やかな対比に、レオの唇から小さく息が漏れた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
運ばれてきたカップから、香ばしい湯気が立ち上る。
彼女はそっとカップを置くと、レオの手元にあるスマートフォンに一瞬だけ目線をやり、すぐに申し訳なさそうに視線を外した。
「お仕事中でしたか? お邪魔してしまってすみません」
「いえ、大したことではありませんから。お気になさらないでください」
レオはスマートフォンを伏せてテーブルに置くと、いつもの営業用の笑みとは違う、胸の奥から落ちてくるような穏やかな微笑みを彼女に向けた。
「淹れてくださって、ありがとうございます」
「はい。ゆっくりしていってくださいね」
ぺこりと頭を下げ、嬉しそうにカウンターへと戻っていく後ろ姿。
レオは温かいカップを持ち上げ、ゆっくりと一口含んだ。
深く芳醇な味わいが、疲れた体にじわりと染み渡っていく。
彼女はまだ、自分が夜の街で無数の女たちを惑わす「神城 蓮」であることを知らない。
そして自分もまた、この心癒やす白銀髪の少女の名前すら知らない。
店員と常連客。
ただそれだけの浅い繋がりのまま、流れる静かな時間が、今のレオには何よりも愛おしく感じられていた。
数日後の昼下がり。
浅い睡眠から覚めたレオは、無意識のうちに足をあの路地裏へと向けていた。
完璧な立ち振る舞いと甘い言葉で女たちを酔わせる「神城 蓮」の仮面を脱ぎ捨て、上質なニットに袖を通しただけの「レオ」として。
カラン、とドアベルが静かな音を立てる。
「いらっしゃいませ!」
店内に響いたのは、数日前よりも少しだけ通りがよく、落ち着いた声だった。
見上げると、あの白銀の髪の少女が出迎えてくれた。 ゆったりとまとめた髪に、清楚な白ブラウスとエプロン姿。
前回見せたガチガチの緊張感は和らぎ、少し仕事に慣れた様子で、丁寧なお辞儀とともに柔らかな笑みを浮かべている。
「……あ、先日の……」
彼女はレオの顔を見ると、驚いたように小さく瞳を丸くし、それからどこか嬉しそうに目元を緩めた。
自分が受け持ち、美味しいと言ってくれた客のことをちゃんと覚えていたのだろう。
「こんにちは。また来させていただきました」
「ありがとうございます。お好きなお席へどうぞ」
案内されたのは、前回と同じ静かな窓際の席だった。
「ご注文は、いかがなさいますか?」
「ブレンドコーヒーをひとつ、お願いします」
「かしこまりました。ブレンドコーヒーですね。少々お待ちください」
メモを取る手つきも、前よりずっとスムーズだ。
けれど、丁寧にお辞儀をしてカウンターへ戻るまでの真摯な歩みは少しも変わっていなかった。
注文を終えたレオは、ポケットから営業用のスマートフォンを取り出した。
画面を開けば、相変わらず「姫」たちからの大量のメッセージが並んでいる。
『蓮くん今日何してるの?』『会いたいな』『昨日は楽しかったね』。
指先を滑らせ、思考の何割かをそちらに割きながら、一通一通に返信を打ち込んでいく。
相手の承認欲求を満たし、過不足のない甘さを添えた完璧な文面。
何年も叩き込んできた「神城 蓮」としてのルーティン作業だ。
ぽちぽちと画面をタップする指先は、ほとんど無意識に近い。
けれど――彼の意識と視線は、完全にその画面だけに集中してはいなかった。
(……今日は、随分と手際が良くなりましたね)
スマートフォンの画面の上から、ふと視線を上げる。
カウンターの奥で、彼女は慎重にサイフォンを扱っていた。
フラスコから立ち上る湯気をじっと見つめる真剣な横顔。
豆を削る音、お湯の沸く静かな音に合わせて、彼女の長い白銀の髪が繊細に揺れる。
他の客から注文が入ると、「はい、ただいまお伺いします」と小さくお辞儀をしてテーブルへ向かう。
トレイを持つ手元はまだどこか緊張を孕んでいるものの、グラスを置く動作は驚くほど静かで丁寧だ。
客から「ありがとう」と言われるたび、パッと花が咲いたように嬉しそうに微笑む。
(……本当に、見ていて飽きない人だ)
歌舞伎町の店で見る女たちの笑顔は、どれも自分を良く見せるための計算や、欲望に彩られた華やかなものばかりだ。
けれど、目の前でひたむきに働く彼女の笑顔には、一切の裏がない。
ただ純粋に、「お客様に喜んでほしい」という素朴な想いだけで満たされている。
返信を打つ手が、ふと止まる。
画面の中に踊る「好きだよ」「会いたい」という自分の打った偽りの言葉と、目の前で静かに流れる穏やかな時間。
その鮮やかな対比に、レオの唇から小さく息が漏れた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
運ばれてきたカップから、香ばしい湯気が立ち上る。
彼女はそっとカップを置くと、レオの手元にあるスマートフォンに一瞬だけ目線をやり、すぐに申し訳なさそうに視線を外した。
「お仕事中でしたか? お邪魔してしまってすみません」
「いえ、大したことではありませんから。お気になさらないでください」
レオはスマートフォンを伏せてテーブルに置くと、いつもの営業用の笑みとは違う、胸の奥から落ちてくるような穏やかな微笑みを彼女に向けた。
「淹れてくださって、ありがとうございます」
「はい。ゆっくりしていってくださいね」
ぺこりと頭を下げ、嬉しそうにカウンターへと戻っていく後ろ姿。
レオは温かいカップを持ち上げ、ゆっくりと一口含んだ。
深く芳醇な味わいが、疲れた体にじわりと染み渡っていく。
彼女はまだ、自分が夜の街で無数の女たちを惑わす「神城 蓮」であることを知らない。
そして自分もまた、この心癒やす白銀髪の少女の名前すら知らない。
店員と常連客。
ただそれだけの浅い繋がりのまま、流れる静かな時間が、今のレオには何よりも愛おしく感じられていた。