恋を売る夜に、ただひとつの愛を

営業終了の余韻が残るエレベーターホールで、蓮は今夜最高額を使ってくれた太客の姫を、最後まで完璧なお辞儀で見送っていた。

「蓮くん、またすぐ来てもいい……?」
「もちろんです。あなたの顔が見られるなら、いつでもお待ちしていますよ。気をつけて帰ってくださいね」

エレベーターの扉が閉まるその瞬間まで、愛おしそうな笑顔を一切崩さない。
彼女を乗せた箱が下に降りていくのを確認し、蓮がふっと小さく息を吐いた、その時のことだ。

「しおんー! 今日も楽しかったねぇ!」

エレベーターの隣の階段から、鈴を転がすような明るい声が響いた。
見れば、少しお酒が回ったのか頬をほんのり赤く染めたルミが、紫苑の腰に遠慮なく抱きついていた。
人目も憚らず、まるで飼い主になつく仔猫のようにすりすりと甘えている。
紫苑は困ったような、けれど隠しきれない甘やかしを滲ませた表情で、ルミの柔らかい水色の髪をそっと撫でた。

「ルミ、まだ店ですよ。……立ち姿を崩すなと言っているでしょう」
「えー、だって誰もいないもん! あ、蓮くんだぁ。お邪魔してごめんねぇ」
「いいえ、お気になさらず」

蓮はいつもの紳士的な微笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
ルミの無邪気な無防備さは、この殺伐とした夜の街においては異物とも言えるが、だからこそ紫苑が絶対に外部に見せない「素顔」を引き出しているのだと、蓮は冷ややかに分析していた。
店の前に待たせていた漆黒の高級外車が静かに滑り込んでくる。
紫苑は後部座席のドアを開け、ルミの背中を優しく押して車内へと滑り込ませた。

「家で待っていなさい。残務処理が終わったらすぐに戻ります」
「はーい! 早く帰ってきてね、紫苑!」

車窓から小さく手を振るルミを乗せ、高級車は夜の歌舞伎町へと消えていく。
それを見送った瞬間、紫苑の空気感が一変した。冷酷で隙のない「絶対王者」の威厳が、静かに彼を覆い尽くす。
紫苑は隣に立つ蓮へ、視線すら合わせずに低く問いかけた。

「……悔しいか、蓮」
「何のことでしょうか、紫苑さん」
「白々しい。今夜の貴様の動きは悪くなかった。他卓へのアプローチ、シャンパンの引き出し方、どれも計算し尽くされていた。……だが、届かなかった」
「ふふ、まあ……ルミさんのあの『一言』には敵いませんでしたね。最高級タワーを即決させるあの方の存在こそ、紫苑さんにとって最大の強みでしょう」

蓮は柔らかく微笑みながらも、緑の瞳の奥に冷たい火花を散らせた。

「ですが、私は諦めていませんよ。太客の『愛』と自分の手腕だけで、いつか必ずあなたをその座から引きずり下ろします。……それまでは、その首を洗って待っていてください」
「フ……威勢だけは一人前だな。いつか刺される営業を続けて、そこまで辿り着ければの話だが」

紫苑は鼻で小さく笑うと、漆黒のスーツの裾を翻して店の中へと戻っていった。
その背中を見送りながら、蓮は静かに肩をすくめた。
帰宅後のルーティンは、どれだけ敗北の悔しさが胸を焦がしていても変わらない。
タワーマンションの自室に戻り、白スーツを脱ぎ捨ててラウンジウェアに着替える。
ソファに深く腰掛け、暗闇の中でスマートフォンの画面を光らせた。

(まずは、今夜悔しがっていた姫へのフォローから……)

『今日は最後まで一緒に戦ってくれてありがとう。君が悔しがってくれたこと、本当に嬉しかった。次は絶対に、君と一緒に一番の景色を見ようね』

過度な期待を持たせつつ、彼女の「悔しさ」を「次への熱量」へと変換する絶妙な文面。
続いて、他のテーブルでシャンパンを入れてくれた客へ、一人ひとり異なる甘い感謝の言葉を打ち込んでいく。
SNSには、少しだけ切なさを滲ませた自撮り写真を投稿する。

『届かなかった夜。でも、応援してくれるみんなの温かさを誰よりも感じた夜でした。明日からまた、みんなのために頑張るね』

計算された挫折感の演出。
これを見た姫たちが「次は私がもっと応援してあげなきゃ」と使命感を燃やすことを、彼は知り尽くしていた。
一通、また一通。
未読の通知をすべて消化し、画面を伏せたときには、すでにカーテンの隙間からうっすらと朝の光が差し込んでいた。

「……ふぅ」

静まり返ったリビングで、蓮は深く天を仰ぐ。
勝ちたいという執着。
負けた悔しさ。
そして、姫たちに嘘の甘言を振り撒き続ける疲弊感。さまざまな感情が渦巻き、頭が酷く重かった。
ベッドに横たわり、重い瞼を閉じる。
まどろみの中で、激しいコールの歓声やグラスの触れ合う音が遠のいていく。

(……あそこは、静かでしたね)

意識が落ちていく境界線で、ふと思い浮かんだのは、昼間出会ったあの少女の姿だった。
水色の髪のルミが見せた「無条件の愛」でもなく、夜の姫たちが向けてくる「執着と欲望の愛」でもない。
ただ丁寧にコーヒーを淹れ、美味しかったという言葉にパッと頬を緩ませた、白銀髪の少女のあの無垢な笑顔。
名前すら知らないまま店を出たはずなのに、なぜかその存在だけが、乾ききった彼の心に静かな波紋を広げていた。
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