恋を売る夜に、ただひとつの愛を

深夜二時前。閉店の鐘が鳴る直前の『HOST CLUB RAYSTOLL』は、狂気にも似た熱気に包まれていた。
今夜のラストソング――その日最も売上を上げたホストだけに許される勝利の旋律をかけ、熾烈なデッドヒートが繰り広げられていた。
追うのは「神城 蓮」。
彼のテーブルには、今日同伴で来店した太客の姫が座っている。
蓮は今夜、勝利のために完璧な盤面を組み上げていた。
自分のメイン卓だけでなく、ヘルプとして回った他のテーブルでも見事なエスコートを見せ、最高級のヴィンテージ・シャンパン『アルマン・ド・ブリニャック』を何本も開けさせていたのだ。

「蓮くん、絶対今夜は勝とうね。私、蓮くんにラスソン歌ってほしい!」
「ありがとうございます。あなたのおかげで、今夜はあと一歩のところまで来られましたよ」

蓮は姫の手を包み込み、耳元で愛おしそうに囁く。
勝機は十分にある。今夜こそ、絶対王者である皇 紫苑の首を獲れる――そう確信しかけた、その時だった。
フロアの最奥、最も絢爛豪華なメイン卓から、甲高く可憐な声が響き渡った。

「ねえねえ、紫苑! 俺、あのキラキラしたやつがもっと見たいな! 高級なシャンパンたくさん開けて、観覧車見たい!」

声を上げたのは、紫苑の一番の太客であり、そして秘密の『本カノ』でもあるルミだった。
水色の髪を揺らし、無邪気で可憐な笑顔を浮かべるルミは、卓に並べられたテキーラ観覧車――幾多のテキーラグラスが光り輝きながら回転する派手なセットを、嬉しそうに指差している。
紫苑は漆黒のスーツ姿のまま、冷徹とも言える美しい顔立ちをほんの少しだけ緩め、ルミの頭を優しく撫でた。

「……ルミ、あまり無茶な飲み方をするなと言ってるでしょう?」
「いいじゃん! だって紫苑が一番になるところ、今日も見たいんだもん!」
「……やれやれ」

紫苑は短く息を吐くと、静かに手を挙げた。
それだけで、黒服たちが緊張感をもって一斉に集まってくる。

「タワーだ。一番高いやつを用意しろ。……ルミがキラキラを見たいそうだ」
「――っ! 皇 紫苑様、最高級シャンパンタワー、入りました!!」

マイクをとったマイク担当のホストが叫ぶと、店内に割れんばかりの歓声と大音量の音楽が鳴り響いた。
一瞬にして組み上げられていく幾重ものグラスの塔。
そこへ注ぎ込まれるのは、最高峰のシャンパン『クリュッグ』と『ロマネ・コンティ』を思わせる桁違いのヴィンテージボトルだ。

「さあ行きますよ! コールいきます!!」

ヘルプのホストたちがタワーを囲み、揃いのステップと手拍子で圧倒的なテンションのコールを打ち鳴らす。

『東の空から夜が明ける! 歌舞伎町に舞い降りた! 絶対王者、紫苑様! 魅せてくれ、その煌めきを! ぐい! ぐい! ぐいぐいぐい! 飲んで飲んで飲んで、パーフェクト!!』

シャンパンタワーにライトが反射し、店内が眩いばかりの光で満たされる。
ルミはその光景に「わあ、すごい! すっごく綺麗!」と目を輝かせ、パチパチと手を叩いて満面の笑みを浮かべていた。
桁違いの一撃。
計算も、積み上げた本数も、あの突発的なシャンパンタワ一本によって一瞬で崩れ去った。
締め日のような土壇場での逆転劇。
マイクから、今夜のラストソングの発表が流れる。

『今夜のラストソングは――! ナンバーワン、皇 紫苑様――!!』

店内が揺れるほどの大きな拍手に包まれる中、紫苑は「仕方ないな」とでも言いたげにわずかに眉をひそめつつ、マイクを手に取った。
彼が歌い始めたのは、重厚な彼のイメージとは少しギャップのある、ルミが以前「これ歌って!」とリクエストしていたPOPなバラードソングだった。

周りのホストたちが手拍子で盛り上げる中、ルミはソファの上でちょこんと座り、嬉しそうににこにこしながら紫苑の歌声に耳を傾けている。
二人の間にだけ存在する、誰も侵せない特別な空気感。

「……蓮くん、ごめんね。私の力不足で……っ」

隣で悔しそうに拳を握りしめ、申し訳なさそうに下を向く自分の姫の姿が視界に入る。
蓮は胸の奥に湧き上がる強烈な悔しさを完璧に押し殺すと、いつもの穏やかで優しい笑みを浮かべ、彼女の頭をそっと撫でた。

「何を言っているんですか。あなたがここまで私を押し上げてくれたんですよ。……今日は届きませんでしたが、あなたと過ごせたこの夜が、私にとって一番の宝物です」

甘い言葉で姫を慰め、彼女の自尊心を優しく拾い上げる。
けれど、紫苑の背中を見つめる緑の瞳の奥には、メラメラと燃える冷たい執念の炎が宿っていた。

「……今日もダメでしたか」

蓮は誰にも気づかれないほどの小さな動作で、静かに肩をすくめた。
札束と虚栄心が飛び交い、一瞬の気まぐれで何百万もの金が動く、このイカれた夜の世界。
勝者としてマイクを握る紫苑と、それを無邪気に愛するルミ。
その眩しすぎる光の渦からそっと視線を外したとき、蓮の脳裏にふと思い浮かんだのは――

あの静かな喫茶店で、慎重に、けれど心を込めて淹れたてのコーヒーを運んできてくれた、白銀の髪の少女の素朴な笑顔だった。
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