恋を売る夜に、ただひとつの愛を

外の景色を誰も気にすることのない、安全で特別な場所。
レオが用意したのは、都心の一角に聳え立つタワーマンションの最上階近くにある一室だった。
普段のレオは、リリィを自分のプライベートな空間に招くことを固く禁じていた。
もし万が一にも姫たちに知られれば、彼女の平穏が脅かされるからだ。
けれど、セキュリティが完璧に施され、地下駐車場から直通のプライベートエレベーターが備わったこの部屋ならば、外部の目を完全に遮断できる。
重厚な玄関のドアが静かに閉まり、カチャリと鍵の開閉音が響く。
その瞬間、張り詰めていた緊張が解けたように、レオはふっと長く深呼吸をした。

「ようこそ、リリィさん。……私の家へ」
「あ……失礼いたします、レオさん」

初めて踏み入れる彼のプライベート空間に、リリィは緊張で肩をすくませていた。
広々とした玄関、高級感のあるシックなインテリア。
どこを見ても洗練されているが、どこか生活感が薄く静まり返っている。
靴を脱ぎ、恐る恐る廊下を進むリリィの背中に、レオは優しく声をかけた。

「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。ここには私とリリィさんしかいませんから」
「はい……っ。なんだか、夢の中にいるみたいで……」

居間に通されると、壁一面の大きな窓から都心の街並みが一望できた。
けれど、リリィの視線を捕らえたのはその絶景ではなく、ソファに置かれたクッションや、棚に並べられた本といった、日常の「レオ」を感じさせる品々だった。

「リリィさん、喉は乾いていませんか? 何か温かいものでも……」

そう言いかけたレオの言葉を遮るように、リリィは抱えていた小さな手提げ袋をギュッと胸元で抱きしめ、少し上目遣いで彼を見つめた。

「あの、レオさん! もし良ければ……今日はお夕飯、わたしに作らせていただけませんか?」
「リリィさんが……ですか?」

思いがけない申し出に、レオは新緑の瞳を丸くした。

「はい。いつもレオさんには素敵なお店へ連れて行っていただいたり、美味しいものを御馳走になってばかりですので……。わたしにできることなんて、本当に些細なことくらいしかないのですが、レオさんにお手料理を食べていただきたくて」

一生懸命に言葉を紡ぐリリィの姿に、レオの心が温かな熱で満たされていく。
彼が仕事で口にするのは、華やかではあるが毒も混ざったアルコールや、冷たい高級料亭の仕出しばかりだ。誰かが自分のために真心を込めて作ってくれる温かい料理。
それは彼が夜の世界に入ってから、ずっと遠ざかっていたものだった。

「……とても嬉しいです。ぜひ、お願いできますか?」
「はい! がんばります!」

ぱっと顔を輝かせたリリィは、持参したエプロンを身につけた。
白地に小さな花柄があしらわれた可憐なエプロン姿に、レオは不意を突かれたように胸を突かれ、思わず口元を片手で覆った。

「あの……レオさん? どうかされましたか?」
「い、いいえ! なんでもありません。……とても、よく似合っています」
「ふふ、ありがとうございます。今日はオムライスを作ろうと思っているんです。レオさん、お嫌いではありませんか?」
「オムライス……! 大好きです。大好物ですよ」

レオの即答に、リリィは嬉しそうに微笑み、キッチンへ向かった。
広々とした最新式のキッチンに立ったリリィは、テキパキと準備を進めていく。
玉ねぎや鶏肉を丁寧に切り刻むトントンという軽やかな包丁の音が、静かだった部屋に心地よく響き渡り始めた。
レオはリビングのソファに腰掛けることもできず、キッチンのカウンター越しに、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。
フライパンから立ち上る、甘い玉ねぎとバターの芳しい香り。
チキンライスが炒められる香ばしい匂い。そのどれもが、この部屋に今まで存在しなかった「家庭の温もり」そのものだった。

「レオさん、もうすぐできますから、座っていてくださいね」
「あ、はい……すみません、ついまじまじと見てしまって」

照れくさそうに微笑むレオを横目に、リリィは一番緊張する工程に入っていた。
チキンライスをお皿に丸く盛り付け、フライパンで手際よく半熟の薄焼き卵を作っていく。

「えい……っ」

そっと卵をチキンライスの上に滑らせると、綺麗で鮮やかな黄色のドレスを纏ったような美しいオムライスが完成した。

「できました……!」
「素晴らしい……! 本当に売っているものみたいに綺麗な形ですね」

テーブルに並べられた二つのオムライス。
リリィはケチャップのチューブを手に取ると、少し恥ずかしそうに手元を隠しながら、何かを書き始めた。

「よし……できました! レオさん、召し上がってください」

差し出されたお皿を見て、レオは息をのんだ。

そこには、赤くて丸いケチャップの文字で、歪ながらも丁寧に

『いつもありがとう』

そして、小さなハートマークが描かれていた。

「……リリィさん」
「あの……子どもっぽくて、恥ずかしいかもしれないのですが……日頃の感謝の気持ちです」

俯いて頬を赤く染めるリリィの姿に、レオの目元がじんと熱くなった。
夜の世界で「神城蓮」として受け取る言葉は、偽りの愛や、金と引き換えの甘いお世辞ばかりだ。
けれど、今目の前にあるのは、純度百パーセントの、ただ一人の少女が自分に注いでくれた無償の愛情だった。

「……いただきます」

震える手でスプーンを取り、卵とご飯をすくって口へ運ぶ。

口の中に広がったのは、バターの豊かな風味が効いたチキンライスと、ふんわりと柔らかい卵の甘み。
そして何より、丁寧に作られた温かさだった。

「……おいしいです。……こんなに美味しいオムライス、生まれて初めて食べました」
「本当ですか……? よかった……っ」

安堵の笑みを浮かべるリリィに対し、レオは一口、また一口と、慈しむように噛み締めて食べ進めた。
涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら、彼は綺麗にオムライスを平らげた。

「ごちそうさまでした。……本当に、美味しかった」
「お粗末様でした。レオさんに喜んでいただけて、わたし、本当に幸せです」

食後の片付けを済ませた後、二人は大きな窓の前のソファに並んで腰掛けた。
部屋の照明を少し落とすと、眼下には宝石をちりばめたような東京の夜景が広がっていた。
けれど、レオが見つめていたのは夜景ではなく、隣で静かに息をついているリリィだった。

「リリィさん」
「はい……?」

レオはそっと手を伸ばし、彼女の華身な身体を包み込むように抱き寄せた。
すっぽりと彼の胸の中に収まったリリィは、驚きに目を見開いたものの、すぐに身を委ね、彼の胸元にそっと顔を寄せた。
トクトクと、規則正しく打つレオの鼓動が、彼女の耳に伝わってくる。

「私は……今日という日を、一生忘れません」

レオの声は、少しだけ震えていた。
彼女の雪のような髪に顔をうずめ、その甘い香りを深く吸い込む。

「夜の世界で生きていると、何が本当で、何が偽りなのか分からなくなる瞬間があるんです。……でも、あなたが作ってくれたあの温かいご飯と、私に向けてくれた笑顔だけは、私の人生の中で何よりも確かな本物でした」
「レオさん……」

リリィは胸元に回された彼の手に、自分の小さな手を重ねた。

「わたしにとっても……レオさんとこうして一緒にいられる時間が、一番大切で、何よりも愛おしい時間です。どんなに外の世界が怖くても、レオさんがこうして抱きしめてくださるなら、わたしはいくらでも強くなれます」

その健気な言葉に、レオの抱きしめる腕に一層の力がこもる。

静かなタワーマンションの一室。
下界の喧騒も、女たちの嫉妬も、夜の世界の毒も、ここには何一つ届かない。
ただ互いの体温と鼓動だけを感じながら、二人は夜が明けるまで、静かに深く、寄り添い続けるのだった。
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