恋を売る夜に、ただひとつの愛を

数日後の夕暮れ時。
喫茶店の勝手口から抜け出る路地裏は、すでに薄闇に包まれていた。
仕事を終えたリリィがドアを開けて外へ足を踏み出すと、冷たい冬の空気が頬を撫でた。
そのまま駅へ向かおうとした彼女の視界に、壁に背を預けて立っている一人の男の姿が映り込む。
白の細身のスーツに黒いシャツ、胸元に挿されたサングラス。
昼の静かな喫茶店には不釣り合いな、神城蓮としての完璧な装い。
これから歌舞伎町の夜へと繰り出すための姿だった。

「リリィさん」

静かな呼び声に、リリィは息をのんだ。
立ち上がった彼は、迷いのない足取りでまっすぐに歩み寄ってくる。
そして、驚きに目を見開くリリィの華身な手首を、解けないよう確かめるような強さで、けれど優しく掴んだ。

「あ……レオ、さん……」

夜の装いを纏っていても、目の前にいるのは間違いなく自分の大好きな「レオ」だった。
リリィは逃げることも、手を引き抜くこともせず、その手に伝わる微かな震えを受け止めながら、彼の新緑の瞳をじっとまっすぐに見つめ返した。
路地裏の静寂の中で、レオはゆっくりと瞼を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
幾重にも張り巡らせた策も、ホストとしての甘い営業文句も、今の彼には何一つ必要なかった。頭の中で幾度となくシミュレーションした隠蔽工作の言葉すらも捨て去り、ただ一度、深く深く深呼吸をする。
そして目を開けた時、その瞳には夜の世界の策士ではなく、一人の男としての愚直なまでの決意だけが宿っていた。

「好きです」

たった一言。
飾りのない、短い言葉。
神城蓮の派手な装いを纏いながらも、そこに響いたのは、いつもの穏やかで柔らかく、どこまでも誠実なレオの声音だった。
世界中の誰に告げるでもない、目の前にいるリリィただ一人だけに向けられた、嘘偽りのない本心の告白。
掴まれた手から、その強い想いが熱のように伝わってくる。
リリィの赤い瞳に、熱い涙がじんわりと溢れ出した。
ルミから聞かされた夜の世界の残酷さも、これから二人を待ち受けるであろう嫉妬や悪意の恐ろしさも、頭の片隅で確かに覚えている。
秘密の恋人という日陰の立場になることも、外を胸を張って歩けない苦しさも、すべて分かっていた。
それでも、この手を放したくないという想いが、恐怖のすべてを塗りつぶしていく。
リリィは掴まれた己の手の上に、もう片方の手をそっと重ねた。
そして、涙で濡れた瞳でまっすぐに彼を見つめ、震える声で、けれど一度も揺らぐことなく答えた。

「……はい。わたしも……わたしも、レオさんが大好きです」

冷たい路地裏で、二人の想いが静かに重なり合った。
それはこれから始まる厳しく険しい茨の道への、たった一つの、けれど破られることのない誓いだった。
二人の想いが重なり合った余韻のなかで、レオは握りしめた手にぎゅっと一層の力をこめた。
新緑の瞳に苦痛の色を滲ませながら、絞り出すように言葉を続ける。

「……私は、ホストという仕事をやめることができません。今のこの身で昼の世界へ行けば、余計なトラブルを生み、あなたに届くはずのない刃まで引き寄せてしまう。……これが、私にとっての現実なんです」

誠実であろうとすればするほど、突きつける言葉は冷酷な事実となって二人を苛む。
神城蓮という虚飾を脱ぎ捨てた素のレオとして、彼は隠すことなくすべてを打ち明けた。

「だから……私を巡って、あなたを傷つけようとする女性が現れないとは言い切れません。そんな者がいれば、私は容赦なく店を出禁にし、あらゆる手段を使ってあなたから遠ざけます。私の持てるすべての力を使って、あなたを、あなただけの日常を徹底的に守り抜く」

そこまで一気に捲し立てると、レオは一度言葉を詰まらせ、喉を詰まらせるように息を呑んだ。
胸の奥を刺す罪悪感に、端正な顔が苦しげに歪む。

「……だけど、それでも。完璧に防ぎ切れる保証はないんです。あなたを日陰に閉じ込め、危険に晒してしまうかもしれない……そんな勝手な私を、許してください……」

ホストとしてではなく、一人の情けない男として苦悩を露わにするレオ。

そんな彼の痛々しい表情を、リリィは慈しむような赤い瞳で見つめていた。
彼女は重ねた己の手から優しく温もりを伝え、彼の手を小さく、けれど確かに握り返した。

「……レオさん」

消え入りそうな、けれどどこまでも温かい声が夜の空気に溶けていく。
リリィは微かに首を振ると、涙の残る目元を和らげ、心からの柔らかな微笑みを浮かべた。

「私は、大丈夫です」

恐怖がないわけではない。
夜の世界の毒も、見知らぬ誰かの悪意も、本来の彼女なら足がすくむほど恐ろしいものだ。
けれど、目の前で自分のためにこれほどまでに苦しみ、傷つきながらも必死に守ろうとしてくれる男がいる。
その事実だけで、彼女の心はどんな脅威にも屈しない強さを得ていた。

「レオさんが、私のために戦ってくださるなら……私、どんなことでも耐えられます。ですから……そんなお顔をなさらないでください」

雪のような髪を夜風に揺らしながら、リリィは微笑み続ける。
その健気で揺るぎない覚悟を目にして、レオの胸には言葉にできないほどの愛おしさと、二度と彼女を放さないという冷徹なまでの決意が満ちていくのだった。
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