恋を売る夜に、ただひとつの愛を
カチャン、と繊細な磁器が重なる小さな音が、静寂に包まれた店内に響いた。
カウンターの端の席で、レオは深く深く溜め息をついた。目の前に置かれたブレンドコーヒーからは、白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
しかし、彼の視線はその温もりを捉えておらず、ただ テーブルの木目を焦点の定まらない目で見つめていた。
(付き合いたい。そんなの、最初から分かってる)
胸の奥を焦がすような切ない熱量が、いくら抑え込もうとしても溢れ出してくる。
リリィの柔らかい笑顔も、自分に向けられる純粋な愛おしさも、すべてを自分だけのものにしたい。
夜の街で偽りの甘い言葉を売り散らかしてきた自分が、初めて手に入れたいと願った本物の感情だった。
だが、その望みを叶えるための代償が、あまりにも大きすぎる。
自分が「神城 蓮」として生きている限り、嫉妬と金が渦巻く歌舞伎町の毒から逃れることはできない。
もしリリィと恋人になれば、どんなに隠そうとしても、いつか太客たちの耳に入るだろう。
そうなれば、彼女たちに向けるはずだった歪んだ執着や悪意の刃が、すべてこの純粋で無垢な少女へと向けられてしまう。
先日の美咲のように、あるいはそれ以上に残酷な方法で、リリィの心が傷つけられるかもしれないのだ。
(私の我儘で、リリィさんをあの泥沼に巻き込むわけにはいかない……でも)
諦めることなど、到底できそうにない。
紫苑に突きつけられた「腹をくくれ」という言葉が、頭の中で何度も凶器のように鋭く響く。
進むことも退くこともできず、出口のない思考の迷宮で、レオは眉間に深いシワを寄せたまま頭を抱え込んでいた。
「……レオさん?」
耳元で届いたか細く儚い声に、レオはハッと息を飲んで顔を上げた。
目の前には、心配そうに自分を見つめるリリィが立っていた。
雪のように白い髪が、窓から差し込む冬の柔らかな光を受けて淡く輝いている。
彼女は不安を押し殺すように、自身の胸元にそっと両手を添えていた。
その小さな指先がぎゅっと握りしめているのは、服の上からでもはっきりと分かる、四つ葉のクローバーのネックレスだった。
かつてレオが「幸せになってほしい」と願いを込めて彼女に贈った、たった一つの大切なお守りだ。
リリィは赤い瞳を揺らし、怯えるような、けれどどこまでもまっすぐな眼差しでレオを見つめている。
「あの……すごく、難しいお顔を、されていたので……。どこか、苦しいのですか……?」
言葉をひとつひとつ手探りで紡ぐような、心許ない声。
それでも、自分のことよりもレオの異変を察し、必死に心配してくれているのだと痛いほど伝わってきた。
胸元で固く握られた手の中のクローバーが、彼女の祈りそのもののように見えた。
その純粋すぎる優しさに触れ、レオの胸はきつく締め付けられる。
こんなにも愛おしく、守りたいと思う存在を前にして、自分はいったいどうすればいいのか。
レオは固く結んだ唇をわずかに緩め、彼女を安心させるための嘘の笑みを浮かべようとしたが、上手く頬が動かなかった
貼りついたような笑みすら上手く作れず、レオはただ引きつった唇を噛みしめることしかできなかった。
そんな彼の迷いも、苦悩も、包み込むようにリリィは静かに首を振る。胸元でクローバーを握りしめたまま、小さな声で、けれどまっすぐに言葉を重ねた。
「……抱え込まないで、くださいね。わたし、何も、できませんけれど……レオさんのお心が、少しでも軽くなるなら、いくらでも、お話を聞きますから」
辿々しくも温かい言葉が、レオの荒んだ心に染み渡っていく。
(ああ、本当に……この人は)
これほどまでに愛おしく、何としても手に入れたい、守り抜きたいと思える存在は他にいない。
自分を「光の王子」と持て囃す者も、顔立ちや肩書だけに群がる女たちも、誰も届かなかった自分の心の奥底に、リリィだけが優しく触れてくれる。
だからこそ、逃げ場のない選択肢に苛まれていた。
『覚悟もないくせに昼の女に手を出そうなんて甘い。さっさと諦めるか、腹をくくれ』
紫苑の冷酷な言葉が、脳裏で何度も重く反芻される。
諦めることなど、最初から不可能だ。
策士とまで呼ばれた己の執念深さを、レオ自身が誰よりもよく理解している。
一度「リリィだけ」と定めてしまった心が、彼女を手放すことなどあり得ない。
かといって、ホストを辞めて昼の世界へ逃げるという選択肢も存在しなかった。
かつて、レオは幾度となく一般的な昼の職業に就こうとしたことがある。
しかし、端正すぎる顔立ちと持ち前の丁寧な客当たりが災いし、行く先々で女性客や同僚から告白され、執着され、店そのものが立ち行かなくなるという事態を繰り返してきたのだ。
自分のこの容姿と存在そのものが、普通の昼の世界ではトラブルの種になる。
自分の意志とは関係なく女を狂わせてしまう己の業を打ち消し、割り切って金を稼ぐには、毒をもって毒を制す「歌舞伎町」という夜の世界しか居場所がなかったのだ。
昼にも行けず、夜の毒にリリィを晒すわけにもいかない。
ホストを辞めるという逃げ道すら塞がれている。
(……なら、私はどうすればいい?)
リリィを諦める気はない。
ホストを辞めることもできない。
その条件のまま、彼女に一切の害を及ぼさずに自分のものにするには、いったいどうやって外堀を埋め、どんな手で彼女を守り切ればいいのか。
思考の海に沈み込みながら、レオは新緑の瞳の奥に、かつて見せていた冷徹で容赦のない策士としての光を、ほんの僅かに宿らせ始めていた。
どれだけ思考を巡らせようとも、現実は無情に時を刻んでいく。
窓の外の光はやがて薄らぎ、街は徐々に淫靡なネオンの海へと呑み込まれていった。
レオは喫茶店をあとにすると、いつものように控えめな私服から仕立ての良い白いスーツへと身を包んだ。
髪を整え、胸ポケットにサングラスを挿す。
その瞬間、鏡の中に映る男の瞳から私情が消え、至高のホスト「神城 蓮」が立ち現れる。
夜の帳が下りた店内で、彼は数多の女性たちを甘い言葉と柔らかな微笑みで魅了していった。
「僕もずっと、あなたに会いたかったですよ」
耳元で囁く言葉、見つめ返す眼差し、触れ合いそうな絶妙な距離感。
彼女たちが望む夢を寸分の狂いもなく与え、心を奪っていく。
自慢の容姿と完璧な客当たりで狂わされた女性たちが、惜しみなく大金を落としていくさまを冷ややかに見つめながら、彼は思う。
これが自分の天職なのだと。
一般的な職ではただ人間関係を破綻させるだけだった己の業が、この場所でだけは最強の武器になる。
そして、一度この頂を競う快感を覚えてしまった以上、そしてこの歌舞伎町で生き抜くと決めた以上、そこから逃げ出す選択肢など彼には初めから存在しなかった。
だが、どれほど華やかな喧騒の中に身を置こうとも、胸の深層に居座る冷たい葛藤が消えることはない。
リリィをあの毒から守りたい。
けれど、彼女を手放すつもりなど毛頭ない。
ならば、逃げるのではなく、この夜の世界の頂点に立ってすべてを支配するしかないのではないか。
営業が終わり、静まり返った店内で、蓮はひとりソファに深く腰掛けていた男へと近づいた。
店内で絶対的な存在感を放つナンバーワン、皇 紫苑である。
「紫苑さん」
澄んだ声で呼びかけると、紫苑は緩慢な動作で視線を上げてきた。
蓮はいつもの完璧な営業用の笑みを完全に削ぎ落とし、素の「レオ」としての静かな眼差しで、その紫の瞳を見つめ返した。
「少し、相談に乗っていただけますか」
ただ諦めることなど、最初から選ぶ気はなかった。
策士としての冷徹な執念を宿した声が、誰もいなくなった店内に静かに響いた。
紫苑は手にしていたグラスを微かに揺らすと、氷が静かな音を立てた。
紫の瞳を僅かに細め、目の前に立つ蓮……レオを静かに見下ろす。
「相談、ですか」
紫苑の声には、先ほどまでの冷徹な冷たさの中に、どこか呆れを含んだ響きがあった。
彼とルミの関係は、この歌舞伎町でも異質なものだ。
紫苑にはルミという絶対的な伴侶がありながら、いまも第一線でナンバーワンとして君臨し続けている。
そしてルミもまた、コンカフェでトップとして稼いだ全財産を惜しみなく紫苑の卓へ注ぎ込み、シャンパンタワーを打ち立てる。
毒と執着が渦巻くこの街で、互いに狂気とも言える覚悟を差し出し合っているからこそ成り立っている関係だった。
蓮がこの世界に足を踏み入れた経緯を、紫苑はよく知っている。
昼の世界でその容姿ゆえに女たちに狂わされ、行き場を失って辿り着いたこの夜の街。
そして何より、圧倒的なポテンシャルを持ち、本気で自分を脅かす存在である蓮がいるからこそ、紫苑自身もこのナンバーワン争いという退屈しのぎを楽しめているのだ。
本音を言えば、蓮にこの店を、この世界を去ってほしくはない。
「……ハッキリ言っておくが、私とルミのやり方がお前たちに適用できると思わない方がいいです」
紫苑は短く息を吐き出すと、背もたれに深く体を預けた。
「ルミはこの夜の毒を理解している。自分が刺されるリスクも、私が他の女に甘い顔をする現実も、すべて飲み込んだ上で全財産を私の卓に叩き込んでいるんだ。だが……貴方のその『昼の女』に、それができますか?」
リリィという少女の存在を思い浮かべ、紫苑は淡々と現実を突きつける。
「ホストを続けながら、完全な昼の女と付き合う。それは貴方が思っている以上に茨の道です。どれだけ隠そうと、貴方が人気ホストである限り、姫たちの執着と悪意はいずれ必ず彼女に向かう。彼女に貴方と同じ毒を煽らせる覚悟がないなら、守り切ることなど不可能に近い」
紫苑の言葉は残酷なほど正論だった。
それでも、紫苑の言葉の裏にある「簡単に辞めて逃げるな」という無言の圧力を、レオは見逃さなかった。
「……ええ、分かっています。リリィさんにこの世界の毒を吸わせる気は、さらさらありません」
レオは新緑の瞳にどこまでも深い、冷徹なまでの決意を宿らせた。
「だからこそ、聞きたいんです。私が歌舞伎町でホストを続け、神城蓮として頂点に立ち続けながら……それでも彼女を完璧に匿い、私のものにする方法を」
「……絶対的な隔離、だ」
紫苑は短く言い捨て、グラスをテーブルの上に静かに置いた。
澄んだ氷の音が、静寂に拍車をかける。
「貴方が今の売り方、つまりガチ恋営業を捨てず、神城蓮として売上を立て続けると言うのなら、取るべき道は一つしかありません。彼女を完全に、この街の毒から覆い隠しなさい」
その言葉の意味を、レオは息をのんで噛みしめる。
「SNSでの匂わせはもちろん、街で二人で歩くことも、昼間にデートをすることも一切禁止だ。貴方たちが恋人として存在することを許されるのは、誰の目も届かない、完全に隔離された部屋の中だけ。たとえ彼女が寂しさに耐えかねようと、貴方が愛おしさに狂いそうになろうと、一歩外に出れば赤の他人のフリを貫き通す」
紫苑の紫の瞳が、射抜くような冷徹さでレオを射射した。
「付き合っているという事実そのものを、この世界から永久に隠蔽しなさい。貴方の姫たちにも、ライバルにも、誰一人として悟らせないこと。……お前に、その嘘を死ぬまで吐き続ける覚悟と、彼女をただ暗がりに閉じ込め続ける残酷さがありますか?」
突きつけられたあまりにも厳しい現実に、レオは言葉を飲み込むしかなかった。
ガチ恋営業で成り上がってきた自分が選ぶべき、唯一の生き残り策。
だがそれは、リリィに「誰にも言えない秘密の恋人」という日陰の立場を強いることを意味していた。
日当たりの良い静かな喫茶店で、純粋に笑うあの少女を、自分との関係ゆえに秘密の檻へ閉じ込める。
恋人になれたとしても、手を繋いで外を歩くことすら叶わない。
それが、夜の世界の毒から彼女を守るための、あまりにも重い代償だった。
「……」
喉の奥が引きつり、返声すら出ない。
新緑の瞳を揺らすレオを静かに見つめながら、紫苑はそれ以上何も言わず、ただ冷ややかな静寂の中に彼を残した。
「そこまで覚悟して、それでも付き合いたいと思うなら……彼女にそう伝えればいい」
紫苑はそれだけ言い残すと、ソファから静かに立ち上がり、一度も振り返ることなく店をあとにした。
静まり返ったフロアに、彼の足音だけが遠ざかっていく。
残された蓮は、ぽつんと一人、重い静寂の中に取り残されていた。
(絶対的な隔離……完全に隠し通すこと)
更衣室へと向かい、ゆっくりと白いジャケットを脱ぐ。
胸ポケットからサングラスを抜き取り、ネクタイを緩める。私服に着替えながら、彼の頭の中では幾度となくシミュレーションが繰り返されていた。
リリィに自分の想いを告げ、恋人になる。
だが、その代償として彼女に求めるのは、あまりにも残酷な条件だ。
街を二人で歩くことはできない。
休日に手を繋いでデートをすることも叶わない。
「蓮」の姫たちの目、そして歌舞伎町の張り巡らされた網から彼女を守るためには、二人で会えるのは誰の目も届かない自分の部屋の中だけ。
(そんな日陰の立場を、あの純粋なリリィさんに強いるのか?)
彼女は傷つくだろうか。
自分に縛られ、閉じ込められていると感じるだろうか。
それとも、自分の都合で彼女の自由を奪ってしまうだけなのだろうか。
鏡に映る自分を見つめ直す。
神城蓮の装いを脱ぎ捨て、ただの「レオ」に戻った男の顔は、苦痛と葛藤で酷く歪んでいた。
だがどれほど頭の中で選択肢をこねくり回しても、リリィを諦めるという答えだけは、どうしても導き出せなかった。
(諦めることなんて、できるわけがない)
彼女を失うくらいなら、どれほど卑怯だと言われようと、彼女を自分の腕の中に囲い込みたい。
更衣室の灯りを消し、静まり返ったビルを出る。
冷たい夜風が、火照った頬を叩いた。
眠らない街のきらびやかなネオンを背に受けながら、レオは深くコートの襟を立て、ひとりマンションへの帰路についた。
一歩を踏み出すごとに、胸の中で揺るぎない覚悟の形が、少しずつ組み上がっていくのを感じながら。
カウンターの端の席で、レオは深く深く溜め息をついた。目の前に置かれたブレンドコーヒーからは、白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
しかし、彼の視線はその温もりを捉えておらず、ただ テーブルの木目を焦点の定まらない目で見つめていた。
(付き合いたい。そんなの、最初から分かってる)
胸の奥を焦がすような切ない熱量が、いくら抑え込もうとしても溢れ出してくる。
リリィの柔らかい笑顔も、自分に向けられる純粋な愛おしさも、すべてを自分だけのものにしたい。
夜の街で偽りの甘い言葉を売り散らかしてきた自分が、初めて手に入れたいと願った本物の感情だった。
だが、その望みを叶えるための代償が、あまりにも大きすぎる。
自分が「神城 蓮」として生きている限り、嫉妬と金が渦巻く歌舞伎町の毒から逃れることはできない。
もしリリィと恋人になれば、どんなに隠そうとしても、いつか太客たちの耳に入るだろう。
そうなれば、彼女たちに向けるはずだった歪んだ執着や悪意の刃が、すべてこの純粋で無垢な少女へと向けられてしまう。
先日の美咲のように、あるいはそれ以上に残酷な方法で、リリィの心が傷つけられるかもしれないのだ。
(私の我儘で、リリィさんをあの泥沼に巻き込むわけにはいかない……でも)
諦めることなど、到底できそうにない。
紫苑に突きつけられた「腹をくくれ」という言葉が、頭の中で何度も凶器のように鋭く響く。
進むことも退くこともできず、出口のない思考の迷宮で、レオは眉間に深いシワを寄せたまま頭を抱え込んでいた。
「……レオさん?」
耳元で届いたか細く儚い声に、レオはハッと息を飲んで顔を上げた。
目の前には、心配そうに自分を見つめるリリィが立っていた。
雪のように白い髪が、窓から差し込む冬の柔らかな光を受けて淡く輝いている。
彼女は不安を押し殺すように、自身の胸元にそっと両手を添えていた。
その小さな指先がぎゅっと握りしめているのは、服の上からでもはっきりと分かる、四つ葉のクローバーのネックレスだった。
かつてレオが「幸せになってほしい」と願いを込めて彼女に贈った、たった一つの大切なお守りだ。
リリィは赤い瞳を揺らし、怯えるような、けれどどこまでもまっすぐな眼差しでレオを見つめている。
「あの……すごく、難しいお顔を、されていたので……。どこか、苦しいのですか……?」
言葉をひとつひとつ手探りで紡ぐような、心許ない声。
それでも、自分のことよりもレオの異変を察し、必死に心配してくれているのだと痛いほど伝わってきた。
胸元で固く握られた手の中のクローバーが、彼女の祈りそのもののように見えた。
その純粋すぎる優しさに触れ、レオの胸はきつく締め付けられる。
こんなにも愛おしく、守りたいと思う存在を前にして、自分はいったいどうすればいいのか。
レオは固く結んだ唇をわずかに緩め、彼女を安心させるための嘘の笑みを浮かべようとしたが、上手く頬が動かなかった
貼りついたような笑みすら上手く作れず、レオはただ引きつった唇を噛みしめることしかできなかった。
そんな彼の迷いも、苦悩も、包み込むようにリリィは静かに首を振る。胸元でクローバーを握りしめたまま、小さな声で、けれどまっすぐに言葉を重ねた。
「……抱え込まないで、くださいね。わたし、何も、できませんけれど……レオさんのお心が、少しでも軽くなるなら、いくらでも、お話を聞きますから」
辿々しくも温かい言葉が、レオの荒んだ心に染み渡っていく。
(ああ、本当に……この人は)
これほどまでに愛おしく、何としても手に入れたい、守り抜きたいと思える存在は他にいない。
自分を「光の王子」と持て囃す者も、顔立ちや肩書だけに群がる女たちも、誰も届かなかった自分の心の奥底に、リリィだけが優しく触れてくれる。
だからこそ、逃げ場のない選択肢に苛まれていた。
『覚悟もないくせに昼の女に手を出そうなんて甘い。さっさと諦めるか、腹をくくれ』
紫苑の冷酷な言葉が、脳裏で何度も重く反芻される。
諦めることなど、最初から不可能だ。
策士とまで呼ばれた己の執念深さを、レオ自身が誰よりもよく理解している。
一度「リリィだけ」と定めてしまった心が、彼女を手放すことなどあり得ない。
かといって、ホストを辞めて昼の世界へ逃げるという選択肢も存在しなかった。
かつて、レオは幾度となく一般的な昼の職業に就こうとしたことがある。
しかし、端正すぎる顔立ちと持ち前の丁寧な客当たりが災いし、行く先々で女性客や同僚から告白され、執着され、店そのものが立ち行かなくなるという事態を繰り返してきたのだ。
自分のこの容姿と存在そのものが、普通の昼の世界ではトラブルの種になる。
自分の意志とは関係なく女を狂わせてしまう己の業を打ち消し、割り切って金を稼ぐには、毒をもって毒を制す「歌舞伎町」という夜の世界しか居場所がなかったのだ。
昼にも行けず、夜の毒にリリィを晒すわけにもいかない。
ホストを辞めるという逃げ道すら塞がれている。
(……なら、私はどうすればいい?)
リリィを諦める気はない。
ホストを辞めることもできない。
その条件のまま、彼女に一切の害を及ぼさずに自分のものにするには、いったいどうやって外堀を埋め、どんな手で彼女を守り切ればいいのか。
思考の海に沈み込みながら、レオは新緑の瞳の奥に、かつて見せていた冷徹で容赦のない策士としての光を、ほんの僅かに宿らせ始めていた。
どれだけ思考を巡らせようとも、現実は無情に時を刻んでいく。
窓の外の光はやがて薄らぎ、街は徐々に淫靡なネオンの海へと呑み込まれていった。
レオは喫茶店をあとにすると、いつものように控えめな私服から仕立ての良い白いスーツへと身を包んだ。
髪を整え、胸ポケットにサングラスを挿す。
その瞬間、鏡の中に映る男の瞳から私情が消え、至高のホスト「神城 蓮」が立ち現れる。
夜の帳が下りた店内で、彼は数多の女性たちを甘い言葉と柔らかな微笑みで魅了していった。
「僕もずっと、あなたに会いたかったですよ」
耳元で囁く言葉、見つめ返す眼差し、触れ合いそうな絶妙な距離感。
彼女たちが望む夢を寸分の狂いもなく与え、心を奪っていく。
自慢の容姿と完璧な客当たりで狂わされた女性たちが、惜しみなく大金を落としていくさまを冷ややかに見つめながら、彼は思う。
これが自分の天職なのだと。
一般的な職ではただ人間関係を破綻させるだけだった己の業が、この場所でだけは最強の武器になる。
そして、一度この頂を競う快感を覚えてしまった以上、そしてこの歌舞伎町で生き抜くと決めた以上、そこから逃げ出す選択肢など彼には初めから存在しなかった。
だが、どれほど華やかな喧騒の中に身を置こうとも、胸の深層に居座る冷たい葛藤が消えることはない。
リリィをあの毒から守りたい。
けれど、彼女を手放すつもりなど毛頭ない。
ならば、逃げるのではなく、この夜の世界の頂点に立ってすべてを支配するしかないのではないか。
営業が終わり、静まり返った店内で、蓮はひとりソファに深く腰掛けていた男へと近づいた。
店内で絶対的な存在感を放つナンバーワン、皇 紫苑である。
「紫苑さん」
澄んだ声で呼びかけると、紫苑は緩慢な動作で視線を上げてきた。
蓮はいつもの完璧な営業用の笑みを完全に削ぎ落とし、素の「レオ」としての静かな眼差しで、その紫の瞳を見つめ返した。
「少し、相談に乗っていただけますか」
ただ諦めることなど、最初から選ぶ気はなかった。
策士としての冷徹な執念を宿した声が、誰もいなくなった店内に静かに響いた。
紫苑は手にしていたグラスを微かに揺らすと、氷が静かな音を立てた。
紫の瞳を僅かに細め、目の前に立つ蓮……レオを静かに見下ろす。
「相談、ですか」
紫苑の声には、先ほどまでの冷徹な冷たさの中に、どこか呆れを含んだ響きがあった。
彼とルミの関係は、この歌舞伎町でも異質なものだ。
紫苑にはルミという絶対的な伴侶がありながら、いまも第一線でナンバーワンとして君臨し続けている。
そしてルミもまた、コンカフェでトップとして稼いだ全財産を惜しみなく紫苑の卓へ注ぎ込み、シャンパンタワーを打ち立てる。
毒と執着が渦巻くこの街で、互いに狂気とも言える覚悟を差し出し合っているからこそ成り立っている関係だった。
蓮がこの世界に足を踏み入れた経緯を、紫苑はよく知っている。
昼の世界でその容姿ゆえに女たちに狂わされ、行き場を失って辿り着いたこの夜の街。
そして何より、圧倒的なポテンシャルを持ち、本気で自分を脅かす存在である蓮がいるからこそ、紫苑自身もこのナンバーワン争いという退屈しのぎを楽しめているのだ。
本音を言えば、蓮にこの店を、この世界を去ってほしくはない。
「……ハッキリ言っておくが、私とルミのやり方がお前たちに適用できると思わない方がいいです」
紫苑は短く息を吐き出すと、背もたれに深く体を預けた。
「ルミはこの夜の毒を理解している。自分が刺されるリスクも、私が他の女に甘い顔をする現実も、すべて飲み込んだ上で全財産を私の卓に叩き込んでいるんだ。だが……貴方のその『昼の女』に、それができますか?」
リリィという少女の存在を思い浮かべ、紫苑は淡々と現実を突きつける。
「ホストを続けながら、完全な昼の女と付き合う。それは貴方が思っている以上に茨の道です。どれだけ隠そうと、貴方が人気ホストである限り、姫たちの執着と悪意はいずれ必ず彼女に向かう。彼女に貴方と同じ毒を煽らせる覚悟がないなら、守り切ることなど不可能に近い」
紫苑の言葉は残酷なほど正論だった。
それでも、紫苑の言葉の裏にある「簡単に辞めて逃げるな」という無言の圧力を、レオは見逃さなかった。
「……ええ、分かっています。リリィさんにこの世界の毒を吸わせる気は、さらさらありません」
レオは新緑の瞳にどこまでも深い、冷徹なまでの決意を宿らせた。
「だからこそ、聞きたいんです。私が歌舞伎町でホストを続け、神城蓮として頂点に立ち続けながら……それでも彼女を完璧に匿い、私のものにする方法を」
「……絶対的な隔離、だ」
紫苑は短く言い捨て、グラスをテーブルの上に静かに置いた。
澄んだ氷の音が、静寂に拍車をかける。
「貴方が今の売り方、つまりガチ恋営業を捨てず、神城蓮として売上を立て続けると言うのなら、取るべき道は一つしかありません。彼女を完全に、この街の毒から覆い隠しなさい」
その言葉の意味を、レオは息をのんで噛みしめる。
「SNSでの匂わせはもちろん、街で二人で歩くことも、昼間にデートをすることも一切禁止だ。貴方たちが恋人として存在することを許されるのは、誰の目も届かない、完全に隔離された部屋の中だけ。たとえ彼女が寂しさに耐えかねようと、貴方が愛おしさに狂いそうになろうと、一歩外に出れば赤の他人のフリを貫き通す」
紫苑の紫の瞳が、射抜くような冷徹さでレオを射射した。
「付き合っているという事実そのものを、この世界から永久に隠蔽しなさい。貴方の姫たちにも、ライバルにも、誰一人として悟らせないこと。……お前に、その嘘を死ぬまで吐き続ける覚悟と、彼女をただ暗がりに閉じ込め続ける残酷さがありますか?」
突きつけられたあまりにも厳しい現実に、レオは言葉を飲み込むしかなかった。
ガチ恋営業で成り上がってきた自分が選ぶべき、唯一の生き残り策。
だがそれは、リリィに「誰にも言えない秘密の恋人」という日陰の立場を強いることを意味していた。
日当たりの良い静かな喫茶店で、純粋に笑うあの少女を、自分との関係ゆえに秘密の檻へ閉じ込める。
恋人になれたとしても、手を繋いで外を歩くことすら叶わない。
それが、夜の世界の毒から彼女を守るための、あまりにも重い代償だった。
「……」
喉の奥が引きつり、返声すら出ない。
新緑の瞳を揺らすレオを静かに見つめながら、紫苑はそれ以上何も言わず、ただ冷ややかな静寂の中に彼を残した。
「そこまで覚悟して、それでも付き合いたいと思うなら……彼女にそう伝えればいい」
紫苑はそれだけ言い残すと、ソファから静かに立ち上がり、一度も振り返ることなく店をあとにした。
静まり返ったフロアに、彼の足音だけが遠ざかっていく。
残された蓮は、ぽつんと一人、重い静寂の中に取り残されていた。
(絶対的な隔離……完全に隠し通すこと)
更衣室へと向かい、ゆっくりと白いジャケットを脱ぐ。
胸ポケットからサングラスを抜き取り、ネクタイを緩める。私服に着替えながら、彼の頭の中では幾度となくシミュレーションが繰り返されていた。
リリィに自分の想いを告げ、恋人になる。
だが、その代償として彼女に求めるのは、あまりにも残酷な条件だ。
街を二人で歩くことはできない。
休日に手を繋いでデートをすることも叶わない。
「蓮」の姫たちの目、そして歌舞伎町の張り巡らされた網から彼女を守るためには、二人で会えるのは誰の目も届かない自分の部屋の中だけ。
(そんな日陰の立場を、あの純粋なリリィさんに強いるのか?)
彼女は傷つくだろうか。
自分に縛られ、閉じ込められていると感じるだろうか。
それとも、自分の都合で彼女の自由を奪ってしまうだけなのだろうか。
鏡に映る自分を見つめ直す。
神城蓮の装いを脱ぎ捨て、ただの「レオ」に戻った男の顔は、苦痛と葛藤で酷く歪んでいた。
だがどれほど頭の中で選択肢をこねくり回しても、リリィを諦めるという答えだけは、どうしても導き出せなかった。
(諦めることなんて、できるわけがない)
彼女を失うくらいなら、どれほど卑怯だと言われようと、彼女を自分の腕の中に囲い込みたい。
更衣室の灯りを消し、静まり返ったビルを出る。
冷たい夜風が、火照った頬を叩いた。
眠らない街のきらびやかなネオンを背に受けながら、レオは深くコートの襟を立て、ひとりマンションへの帰路についた。
一歩を踏み出すごとに、胸の中で揺るぎない覚悟の形が、少しずつ組み上がっていくのを感じながら。