恋を売る夜に、ただひとつの愛を

「あ! 蓮くん! やっと来たーっ!」

蓮が卓に足を踏み入れた瞬間、退屈そうにグラスを弄んでいたルミの顔がパッと華やぎ、弾むような声で手招きをしてきた。

「お待たせいたしました、ルミさん。紫苑が席を外してしまって寂しかったでしょう?」

蓮は作法通り、隣に優しく腰を下ろすとスマートにグラスに手を伸ばす。
しかし、ルミはニヤニヤとした悪戯っぽい笑みを浮かべながら、蓮の顔を覗き込んできた。

「ううん! ううん! 寂しくないよ? だってね、紫苑をあっちの卓に行かせたの、俺だから!」
「……はい?」

予期せぬ言葉に、完璧な「神城 蓮」の笑みが一瞬ピクリと固まる。

「紫苑の太客の姫が来てたからさー、『紫苑行ってあげなよー』って追い払ったの! 蓮くんと二人でお話したかったんだもん!」

悪びれる様子もなくケラケラと笑うルミ。
紫苑の太客が連日落とす金額を考えれば、黒服や紫苑がどれほど冷や汗をかいたか想像に難くない。
蓮は額に手を当てたくなるのをぐっと堪え、平静を装って問いかけた。

「……それはまた、大胆なことをされましたね。それで、私に一体どのようなご用件でしょうか?」

するとルミは、持っていたグラスをテーブルにコトンと置くと、身を乗り出して蓮の顔をじっと見つめた。

「あのね! 最近リリィちゃんにお店に来てって誘っても、『レオさんと約束したからダメ!』って絶対断られちゃうの。それでね、俺、気になっちゃって……喫茶店に様子を見に行ったらさ!」

ルミは目を輝かせながら、楽しそうに手振りを交える。

「リリィちゃん、俺があげた着物着て、お正月に蓮くんと初詣行ったんだって! すっごく楽しそうに話してくれたよ? ……ねえ、蓮くん」

ルミの雰囲気がふっと変わり、子供のような無邪気さと、歌舞伎町の頂点に君臨する者特有の鋭い観察眼が混ざり合った瞳が、蓮の緑の瞳を射抜いた。

「で? いつ付き合うの?」
「〜〜〜っ!?」

あまりにもストレートでド直球な質問に、完璧に作り込まれていた「神城 蓮」の呼吸が完全に止まった。
夜の世界の駆け引きも、嘘も、営業の微笑みも、一瞬で吹き飛ぶ。
白スーツの袖を握りしめた手がかすかに震え、蓮は柄にもなく顔に熱が集まっていくのを感じながら、声にならない悲鳴を胸の中で上げていた。

「えへへ、だってリリィちゃん、俺に全部教えてくれたんだも〜ん!」

動揺で言葉を失っている蓮を前に、ルミは楽しそうに足をパタパタと揺らしながら、追い打ちをかけるように話を続けた。

「初詣の時、蓮くんがかっこよく妹って嘘ついて守ってくれたこと! そのあとリリィちゃんが『どちらも大好きなレオさん』って言っちゃったこと! そしたら蓮くんが手握って『何があっても守る』って言ったこと!」
「〜〜〜っ!?」

完璧な「神城 蓮」の仮面が、音を立てて粉々に砕け散った。
あの参道での二人だけの甘く切ない記憶が、目の前で事細かに再生されていく。
蓮は片手で顔を覆い、本気で頭を抱えた。

「そしてねぇ……! お互いの気持ちに気づいちゃったせいで、今お店で二人ともす〜っごく気まずくなってることも!」
「ルミ、さん……っ、お願いですからもう少し声を抑えて……」
「なんでー? 両想いじゃん! おめでたいじゃん! さっさと付き合っちゃえばいいのに!」

無邪気にそう言って笑うルミ。
けれど、その言葉を聞いた蓮の表情から、徐々に動揺が消えていった。
代わりに落ちてきたのは、夜の世界の泥を深く知る男としての、重く切ない陰りだった。
蓮は深く深く息を吐き出すと、手にしていたグラスの氷をカラリと鳴らし、静かに口を開いた。

「……付き合いたいですよ。……私だって、できることなら、彼女をこの腕に抱きしめたいです」

喉の奥から絞り出すような、掠れた本音。
そこには「神城 蓮」としての嘘も駆け引きもなく、ただ一人の男「レオ」としての苦悩だけがあった。

「ですが……ルミさん。私は、自分がどんな売り方をしてここまで這い上がってきたのかを、誰よりもよく理解しています」

蓮はフロアの賑わいに目を向けた。
自分を指名し、大金を落としてくれる太客たち。
彼女たちに甘い毒を注ぎ込み、「君が一番だ」「愛している」と偽りの恋を売りつけて得てきた売上とポジション。

「私は女性に『愛している』『君だけだ』と嘘を吐くことで、飯を食ってきた男です。そんな不潔で歪んだ私が……どんな言葉を使えば、あんなにも純粋で無垢な彼女に『本当の言葉』として伝わるというのですか?」

緑の瞳に滲むのは、あまりにも深い自己嫌悪と葛藤。
自分が「神城 蓮」として口にする「好き」や「愛している」という言葉は、すべて金を得るための毒だ。
だからこそ、命よりも大切で愛おしいリリィに対して、どんな言葉を選べば自分の本当の心が届くのか、分からなくなってしまっていた。
七色の光に照らされるホストクラブの片隅で、男は初めて、自分の商売の業に苦しんでいた。

「まあねぇ……蓮くん、ガチ恋営業だもんねぇ」

ルミは腕を組み、知った風な顔で「うんうん」と深く首を縦に振った。
その言葉に、蓮は苦笑交じりに「……ええ」と小さく頷くしかなかった。

「そして……そんな売り方をしてここまで来た私が、もし本当に『本カノ』を作ったらどうなるかも、火を見るより明らかです」

蓮の緑の瞳に、重く冷たい影が落ちる。
ホストの世界において、ガチ恋営業を極めたキャストが本カノを作ることリスク。
それは単なる売上の下落だけでは済まない。
嫉妬に狂った姫たちからの執着、嫌がらせ、暴走は最悪の場合、その刃が彼女自身へ向けられる。

「私が守ると言ったところで、私と付き合っているという事実そのものが、彼女を危険に晒すことになる。……私は、あの子をそんな醜い渦中に巻き込みたくないのです」

静かな決意と苦悩が混ざり合った蓮の声。
その言葉を聞きながら、ルミはいつもの無邪気な笑顔をすっと潜め、どこか遠くを見るような瞳になった。
他でもないルミ自身が、誰よりもその痛みを理解していたからだ。
歌舞伎町の絶対的王者である紫苑の「本カノ」として、彼の隣に立ち続けてきたルミ。
紫苑の太客たちからの冷ややかな蔑視、SNSでの誹謗中傷、時には直接的な嫌がらせや脅迫めいた嫌み。
これまでルミが受けてきた裏での嫌がらせは、生半可なものではなかった。
紫苑がどれほど鉄壁に守ろうとも、夜の街の狂気は隙を突いて襲いかかってくる。

「……そっか。蓮くん、ちゃんとリリィちゃんのこと、守りたいんだね」

ルミは小さく呟くと、膝の上でぎゅっと自分の手を重ねた。

「紫苑の姫たちにもさ、俺、昔いろいろひどいことされたし……。だから、蓮くんが言いたいこと、すっごくわかるよ」

夜の世界の歪みを誰よりも知る二人だからこそ通じ合う、重く切ない沈黙。
「神城 蓮」として培ってきた名声と売上、そして彼を支える姫たちの欲望。
それらすべてが巨大な壁となって、ただ純粋に一人の少女を愛したいと願う「レオ」の前に、立ちはだかっていた。

「それにさ……俺とリリィちゃんじゃ、立ち位置も違うんだよね」

ルミはふぅと小さな息を吐き出すと、カクテルのストローをクルクルと回しながら呟いた。
ルミ自身は完全な夜の世界の人間だ。
コンセプトカフェのトップキャストとして歌舞伎町で圧倒的な売り上げを誇り、夜の街のルールも、女たちのドロドロとした嫉妬の恐怖もすべて身をもって知っている。
だからこそ紫苑の「本カノ」という過酷な立ち位置にも、毒を毒で制するように耐えていられるのだ。
けれど、リリィは違う。
彼女は昼間の柔らかな光の中、小さな喫茶店で真面目に働く、完全な「昼の世界」の少女だ。夜の街の狂気にも、ホストに狂う女たちの執着にも、何一つ免疫がない。そんな彼女が蓮の「本カノ」になれば、受けるダメージはルミの比ではないだろう。

「俺なら殴られたって叩き返せるけど、リリィちゃんはそんな世界と無縁だもんね……。うーん、どうしたらいいんだろうなぁ……」

珍しく真剣な表情で、自分のことのように頭を抱えて悩むルミ。
――と、その時。

「……ルミ。いい加減にしなさい」

氷のように冷たく、けれど恐ろしく低い声が二人の頭上から降ってきた。
振り返ると、そこには紫苑が立っていた。
完璧に整えられた美しい顔立ちには、隠しようもないほどの不機嫌さが色濃く滲み出ている。
自分のメイン卓での対応を手早く片付け、ルミのもとへ戻ってきたのだろう。
その鋭い青い瞳は、ルミの隣に座る蓮を射殺さんばかりに射抜いていた。

「紫苑! あ、おかえり〜!」
「『おかえり』ではないでしょう。私をわざと別卓に追いやって、何をしているのですか。……蓮、君もだ。私のルミに何を長々と喋らせている?」
「……申し訳ありません、紫苑さん。ルミさんの退屈しのぎにお相手をしていただけですよ」

蓮はすっと立ち上がり、いつもの隙のない「神城 蓮」の笑みを浮かべて頭を下げた。

「ふん……。行くぞ、ルミ。これ以上、蓮のつまらない男の悩みに付き合う必要はない」

紫苑はルミの腕を引くと、まるで自分の所有物を誇示するかのようにしっかりと抱き寄せた。嫉妬と独占欲を隠そうともしないその態度に、ルミは「ちょっと紫苑、引っ張りすぎ〜!」と笑いながらも、どこか嬉しそうに身を委ねている。
紫苑は去り際、蓮に向かって冷ややかな一言を言い残した。

「覚悟もないくせに、昼の女に手を出そうなんて甘いんですよ。……さっさと諦めるか、腹をくくりなさい」

そう言ってルミを連れて去っていく背中を見送りながら、蓮は一人、深々と息を吐き出した。

(腹をくくる、か……)

紫苑の容赦ない一言が、蓮の胸の奥に冷たく、けれど確かな重みを持って突き刺さっていた。
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