恋を売る夜に、ただひとつの愛を
歌舞伎町の夜は、相変わらず煌びやかな狂気と欲望で満ち溢れていた。
重低音が響き渡る『HOST CLUB RAYSTOLL』のフロア。
幾つもの卓でシャンパンコールが巻き起こる中、蓮はヘルプとして店内を回っていた。
「……蓮さん、あちらの卓、初回の姫です。少し繋いでいただけますか?」
黒服に促され、蓮は静かに指定されたテーブルへと足を向ける。
そこに座っていたのは、夜の世界にはおよそ不釣り合いな、黒髪ロングの清楚な雰囲気を纏った女性だった。
膝の上でバッグをぎゅっと握りしめ、煌びやかな店内に怯えるように身体を縮めている。
「失礼しますね。はじめまして」
蓮が隣に腰を下ろし、極上の笑みを浮かべると、彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて飛び跳ねるように背筋を伸ばした。
「あ、あの……はじめまして! すみません、私、こういうお店……本当に初めてで……っ!」
グラスを持つ手すら微かに震えている。
理由を聞けば、長年付き合っていた恋人に酷い振られ方をし、やけくそになって歌舞伎町に飛び込んできたのだという。
だが、いざ足を踏み入れてみたものの、どう振る舞えばいいのか分からず、ただパニックになっているのだそうだ。
「そうだったのですね。……大丈夫ですよ、怖がる必要はありません。今夜はあなたが少しでも笑顔になれるよう、私が全力でおもてなししますから」
蓮が低く優しい声で語りかけると、彼女は「あ……はい……!」と顔を真っ赤にしてお辞儀をした。
(……反応が、いちいち初々しいな)
お酒のグラスを恐る恐る口に運ぶ仕草。
蓮と少し視線が合っただけで、パッと林檎のように頬を染めて下を向く反応。
世慣れていない、純粋で真っ直ぐな言葉遣い。
――その一つ一つの挙動が、どうしても昼間のあの少女……リリィの姿に重なってしまう。
(……駄目だな、私は)
接客中であるにもかかわらず、脳裏を過ぎる白銀の髪と赤い瞳。 「大好きなレオさん」と呟いた彼女の照れた笑顔や、初詣の日に「何があっても守ります」と告げた時の自分の浮き足立った感情。
両想いだと知ってしまってからの、あの焦れったくも愛おしい空気感。
プロとして目の前の客だけに集中すべき場面で、別の少女の面影を追いかけている自分に、蓮は胸の奥で苦笑した。
「……あの、神城さん……?」
「蓮、で構いませんよ」
「は、はい! 蓮さん……あの、私みたいなノリの悪い客、困らせちゃってますよね……? ごめんなさい……」
申し訳なさそうに眉を下げ、下を向く黒髪の姫。
その可憐で素直な様子に、蓮の目元がすっと柔らかくなった。
それは営業用の作られた「神城 蓮」の笑みではなく、どこか昼間の「レオ」の温もりが混ざり合った、優しい微笑みだった。
「そんなことはありませんよ。……とても素敵です」
「え……?」
「背伸びをする必要なんてないんです。あなたはそのままのあなたでいて下さるのが、一番可愛らしいのですから」
蓮の手がそっと姫のグラスの結露を拭い、優しく語りかける。
自分を指名して大金を積む夜の女たちとは違う、素朴で純粋な姫の存在は、図らずも蓮の胸にあるリリィへの愛おしさを、より一層深く確かなものへと際立たせていくのだった。
それからというもの、あの黒髪ロングの初回の姫――美咲(みさき)は、数日に一度のペースで店に顔を出すようになった。
「蓮さん……今日も、少しだけお話しできますか……?」
だが、彼女は夜の街の遊び方を知らない普通のOLだ。
頼むのは一番安いセット料金とソフトドリンク、たまに小さなカクテルを一杯。
ホストクラブの売り上げとしては、いわゆる「細客」だった。
当然、蓮が美咲の卓につける時間はごくわずか。
基本的には後輩のヘルプがつき、蓮はたまに挨拶に顔を出す程度だ。
しかし、歌舞伎町の嫉妬と欲望の渦は、そんな細客の存在すら許さない。
「ねえ、蓮くん。あの子、また来てるんだけど」
蓮のメイン卓で、高級シャンパン『クリュッグ』を傾けていた太客の姫が、不機嫌そうにネイルの整えられた指先でグラスを弄んだ。
「ただの細客でしょ? お金も使わないのに、蓮くんの時間を奪わないでほしいんだけど。お店の営業妨害じゃない?」
「申し訳ありません。ですが、わざわざ私に会いに足を運んでくださるから、無下にはできませんよ」
「ふーん……じゃあ、あの子が帰れなくなるくらい、私がボトル入れまくればいいわけね?」
太客の姫はあからさまな対抗心を燃やし、一晩で何百万というボトルを次々と追加していく。
『蓮様のお卓! 高級シャンパン入りました――っ!!』
賑やかなコールが響き渡るフロアの隅で、美咲の卓には冷ややかな視線が突き刺さっていた。
(あの子、また来てるよ。蓮さんに数十万使う私たちと同列のつもりなのかな?)
(身の程知らずだよね。あんな端金のセット料金で蓮さんの卓につけると思ってるとか笑える)
周囲の太客たちのひそひそ話や刺すような視線。
美咲は肩をすくませ、自分の小さなグラスを両手で握りしめながら、申し訳なさそうに小さくなっていた。
ヘルプの後輩ホストが気を遣って場を盛り上げようとするものの、フロア全体に漂う異様な圧迫感に、美咲の表情はどんどん曇っていく。
チラリと視線を送った蓮の胸の中に、苦い感情が広がる。
(……歪んでいるな、ここは)
金がすべてを支配する世界。
金を落とす者が正義であり、落とせない者は爪弾きにされる。
自分を指名して大金を積んでくれる太客の姫の気持ちも分かる。
けれど、同時に、ただ純粋に自分を頼ってお店に足を運んでくれる美咲の姿に、どうしても昼間の喫茶店で懸命に働くリリィの面影が重なってしまうのだ。
「蓮くん、聞いてる? 次はあのオリシャン開けようよ!」
「ええ、もちろんです。あなたの最高な夜にしましょう」
太客の腰を抱き寄せ、極上の笑みを浮かべながらシャンパンを流し込む。
(金でしか繋がれない関係と、金がなければ居場所すら奪われる世界……)
煌びやかなライトと泡の弾ける音の陰で、蓮は『神城 蓮』という男が生きる夜の街の醜さと残酷さを、改めて痛感していた。
周囲の冷ややかな視線と、太客たちのあからさまなマウントに耐えかねた美咲は、ある夜、申し訳なさそうに頭を下げて店を飛び出していった。
それ以来、彼女が『RAYSTOLL』の扉をくぐることは二度となかった。
いわゆる「干された」状態での退場。
「やったぁ! あのお金使わない女、やっと来なくなったじゃん!」
「ホントムカついてたんだよね〜。蓮くんの顔見る資格もないのにさ!」
太客の姫たちは勝利の美酒に酔いしれ、フロアで甲高い歓声をあげていた。
その光景を冷ややかな眼差しで見つめながら、蓮は優雅にグラスを傾けた。
(……これが、夜の世界の現実だ)
金を使わなければ居場所を失い、欲望の渦に飲まれて傷ついていく。
どんなに素直で優しい客であっても、金を落とせなければ惨めな思いをして去るしかない残酷な仕組み。
(……本当に、リリィさんがここに来なくなってくれて良かった)
脳裏に浮かぶのは、自分との約束を律儀に守り、昼の穏やかな光の中で笑顔を向けてくれる白銀の髪の少女。
もし彼女がルミに流されてこの店に通い続けていたら、間違いなく太客たちの嫉妬の標的になり、このドロドロとした醜い悪意に晒されて傷ついていたはずだ。
彼女を守れたという安堵感が、疲弊した蓮の心に温かく染み渡る。
「……蓮さん、申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
ふと、背後から黒服が申し訳なさそうな様子で声をかけてきた。
「どうしました?」
「紫苑様が、高額を動かしているメインの太客の方の卓へ急遽つかざるを得なくなりまして……。紫苑様の元の卓にいらっしゃるルミ様の相手を、蓮さんにお願いしたいのです」
「ルミさんの……?」
視線をフロアの奥へ向けると、紫苑が離れたソファでルミが退屈そうに一人、ポツンと放置されていた。
手元には色とりどりのカクテルやシャンパンが並んでいるものの、隣に紫苑がいないためか、あからさまに頬を膨らませて不満そうな顔をしている。
「……分かりました。すぐに行きます」
蓮は白スーツの乱れをそっと整えると、退屈に耐えかねている歌舞伎町の「台風の目」のもとへ足を進めた。
重低音が響き渡る『HOST CLUB RAYSTOLL』のフロア。
幾つもの卓でシャンパンコールが巻き起こる中、蓮はヘルプとして店内を回っていた。
「……蓮さん、あちらの卓、初回の姫です。少し繋いでいただけますか?」
黒服に促され、蓮は静かに指定されたテーブルへと足を向ける。
そこに座っていたのは、夜の世界にはおよそ不釣り合いな、黒髪ロングの清楚な雰囲気を纏った女性だった。
膝の上でバッグをぎゅっと握りしめ、煌びやかな店内に怯えるように身体を縮めている。
「失礼しますね。はじめまして」
蓮が隣に腰を下ろし、極上の笑みを浮かべると、彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて飛び跳ねるように背筋を伸ばした。
「あ、あの……はじめまして! すみません、私、こういうお店……本当に初めてで……っ!」
グラスを持つ手すら微かに震えている。
理由を聞けば、長年付き合っていた恋人に酷い振られ方をし、やけくそになって歌舞伎町に飛び込んできたのだという。
だが、いざ足を踏み入れてみたものの、どう振る舞えばいいのか分からず、ただパニックになっているのだそうだ。
「そうだったのですね。……大丈夫ですよ、怖がる必要はありません。今夜はあなたが少しでも笑顔になれるよう、私が全力でおもてなししますから」
蓮が低く優しい声で語りかけると、彼女は「あ……はい……!」と顔を真っ赤にしてお辞儀をした。
(……反応が、いちいち初々しいな)
お酒のグラスを恐る恐る口に運ぶ仕草。
蓮と少し視線が合っただけで、パッと林檎のように頬を染めて下を向く反応。
世慣れていない、純粋で真っ直ぐな言葉遣い。
――その一つ一つの挙動が、どうしても昼間のあの少女……リリィの姿に重なってしまう。
(……駄目だな、私は)
接客中であるにもかかわらず、脳裏を過ぎる白銀の髪と赤い瞳。 「大好きなレオさん」と呟いた彼女の照れた笑顔や、初詣の日に「何があっても守ります」と告げた時の自分の浮き足立った感情。
両想いだと知ってしまってからの、あの焦れったくも愛おしい空気感。
プロとして目の前の客だけに集中すべき場面で、別の少女の面影を追いかけている自分に、蓮は胸の奥で苦笑した。
「……あの、神城さん……?」
「蓮、で構いませんよ」
「は、はい! 蓮さん……あの、私みたいなノリの悪い客、困らせちゃってますよね……? ごめんなさい……」
申し訳なさそうに眉を下げ、下を向く黒髪の姫。
その可憐で素直な様子に、蓮の目元がすっと柔らかくなった。
それは営業用の作られた「神城 蓮」の笑みではなく、どこか昼間の「レオ」の温もりが混ざり合った、優しい微笑みだった。
「そんなことはありませんよ。……とても素敵です」
「え……?」
「背伸びをする必要なんてないんです。あなたはそのままのあなたでいて下さるのが、一番可愛らしいのですから」
蓮の手がそっと姫のグラスの結露を拭い、優しく語りかける。
自分を指名して大金を積む夜の女たちとは違う、素朴で純粋な姫の存在は、図らずも蓮の胸にあるリリィへの愛おしさを、より一層深く確かなものへと際立たせていくのだった。
それからというもの、あの黒髪ロングの初回の姫――美咲(みさき)は、数日に一度のペースで店に顔を出すようになった。
「蓮さん……今日も、少しだけお話しできますか……?」
だが、彼女は夜の街の遊び方を知らない普通のOLだ。
頼むのは一番安いセット料金とソフトドリンク、たまに小さなカクテルを一杯。
ホストクラブの売り上げとしては、いわゆる「細客」だった。
当然、蓮が美咲の卓につける時間はごくわずか。
基本的には後輩のヘルプがつき、蓮はたまに挨拶に顔を出す程度だ。
しかし、歌舞伎町の嫉妬と欲望の渦は、そんな細客の存在すら許さない。
「ねえ、蓮くん。あの子、また来てるんだけど」
蓮のメイン卓で、高級シャンパン『クリュッグ』を傾けていた太客の姫が、不機嫌そうにネイルの整えられた指先でグラスを弄んだ。
「ただの細客でしょ? お金も使わないのに、蓮くんの時間を奪わないでほしいんだけど。お店の営業妨害じゃない?」
「申し訳ありません。ですが、わざわざ私に会いに足を運んでくださるから、無下にはできませんよ」
「ふーん……じゃあ、あの子が帰れなくなるくらい、私がボトル入れまくればいいわけね?」
太客の姫はあからさまな対抗心を燃やし、一晩で何百万というボトルを次々と追加していく。
『蓮様のお卓! 高級シャンパン入りました――っ!!』
賑やかなコールが響き渡るフロアの隅で、美咲の卓には冷ややかな視線が突き刺さっていた。
(あの子、また来てるよ。蓮さんに数十万使う私たちと同列のつもりなのかな?)
(身の程知らずだよね。あんな端金のセット料金で蓮さんの卓につけると思ってるとか笑える)
周囲の太客たちのひそひそ話や刺すような視線。
美咲は肩をすくませ、自分の小さなグラスを両手で握りしめながら、申し訳なさそうに小さくなっていた。
ヘルプの後輩ホストが気を遣って場を盛り上げようとするものの、フロア全体に漂う異様な圧迫感に、美咲の表情はどんどん曇っていく。
チラリと視線を送った蓮の胸の中に、苦い感情が広がる。
(……歪んでいるな、ここは)
金がすべてを支配する世界。
金を落とす者が正義であり、落とせない者は爪弾きにされる。
自分を指名して大金を積んでくれる太客の姫の気持ちも分かる。
けれど、同時に、ただ純粋に自分を頼ってお店に足を運んでくれる美咲の姿に、どうしても昼間の喫茶店で懸命に働くリリィの面影が重なってしまうのだ。
「蓮くん、聞いてる? 次はあのオリシャン開けようよ!」
「ええ、もちろんです。あなたの最高な夜にしましょう」
太客の腰を抱き寄せ、極上の笑みを浮かべながらシャンパンを流し込む。
(金でしか繋がれない関係と、金がなければ居場所すら奪われる世界……)
煌びやかなライトと泡の弾ける音の陰で、蓮は『神城 蓮』という男が生きる夜の街の醜さと残酷さを、改めて痛感していた。
周囲の冷ややかな視線と、太客たちのあからさまなマウントに耐えかねた美咲は、ある夜、申し訳なさそうに頭を下げて店を飛び出していった。
それ以来、彼女が『RAYSTOLL』の扉をくぐることは二度となかった。
いわゆる「干された」状態での退場。
「やったぁ! あのお金使わない女、やっと来なくなったじゃん!」
「ホントムカついてたんだよね〜。蓮くんの顔見る資格もないのにさ!」
太客の姫たちは勝利の美酒に酔いしれ、フロアで甲高い歓声をあげていた。
その光景を冷ややかな眼差しで見つめながら、蓮は優雅にグラスを傾けた。
(……これが、夜の世界の現実だ)
金を使わなければ居場所を失い、欲望の渦に飲まれて傷ついていく。
どんなに素直で優しい客であっても、金を落とせなければ惨めな思いをして去るしかない残酷な仕組み。
(……本当に、リリィさんがここに来なくなってくれて良かった)
脳裏に浮かぶのは、自分との約束を律儀に守り、昼の穏やかな光の中で笑顔を向けてくれる白銀の髪の少女。
もし彼女がルミに流されてこの店に通い続けていたら、間違いなく太客たちの嫉妬の標的になり、このドロドロとした醜い悪意に晒されて傷ついていたはずだ。
彼女を守れたという安堵感が、疲弊した蓮の心に温かく染み渡る。
「……蓮さん、申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
ふと、背後から黒服が申し訳なさそうな様子で声をかけてきた。
「どうしました?」
「紫苑様が、高額を動かしているメインの太客の方の卓へ急遽つかざるを得なくなりまして……。紫苑様の元の卓にいらっしゃるルミ様の相手を、蓮さんにお願いしたいのです」
「ルミさんの……?」
視線をフロアの奥へ向けると、紫苑が離れたソファでルミが退屈そうに一人、ポツンと放置されていた。
手元には色とりどりのカクテルやシャンパンが並んでいるものの、隣に紫苑がいないためか、あからさまに頬を膨らませて不満そうな顔をしている。
「……分かりました。すぐに行きます」
蓮は白スーツの乱れをそっと整えると、退屈に耐えかねている歌舞伎町の「台風の目」のもとへ足を進めた。