恋を売る夜に、ただひとつの愛を

翌朝。澄み切った冬の青空が広がる駅前のロータリー。
普段のシックで落ち着いた装いとは一味違う、少し気合の入ったコートに身を包んだレオが、そわそわと時計に視線を送っていた。
連日の激務による疲労など、どこかへ吹き飛んでいた。
胸の中にあるのは、ただ彼女と二人きりで過ごせる休日への期待と、柄にもない緊張感だけだ。

「レオさん、お待たせいたしました……!」

パタパタと少しぎこちない足取りで駆け寄ってきた声に、レオは弾かれたように振り返った。
そして、その場に完全に凝固した。

「……リリィ、さん……?」

そこに立っていたのは、いつものカフェエプロン姿とも、クリスマスのドレス姿とも違う、見違えるほど華やかな『和服』に身を包んだリリィの姿だった。
淡い桜色の生地に、繊細な小花が散りばめられた美しい着物。
白銀の髪は上品にまとめ上げられ、うなじの白さを際立たせている。
そしてその首元には和服の襟越しに、あの日贈った四葉のクローバーのネックレスが、ゆらゆらと小さく揺れていた。
言葉を失って固まるレオに、リリィは顔を真っ赤にして、帯の前でぎゅっと両手を握りしめた。

「あの……すみません……! 昨日、レオさんとお出かけすることになったのをルミさんに報告したら、『お正月なんだから絶対着物!! 貸してあげるから!!』って言われて……そのままルミ様のおうちに連れていかれて、半ば強引に着せられてしまって……っ」

申し訳なさそうに、恥ずかしそうに下を向くリリィ。
慣れない着物と帯の締め付けに戸惑いながらも、恐る恐る上目遣いでレオの顔色を伺ってくる。

「あ、あの……ヘンじゃないでしょうか……? 似合って……ますか……?」

赤い瞳を不安そうに揺らす彼女。
その可憐な姿と、あまりにも似合いすぎている美しさに、レオの胸が大きくドクンと跳ね上がった。
歌舞伎町でどれほど煌びやかに着飾った美女たちを見てきても、一度も動じることのなかったレオの心が、目の前の少女一人に狂わされていく。
胸の奥が熱く高鳴り、耳たぶまで熱くなっていくのが分かった。
レオは一瞬だけ言葉に詰まりながらも、溢れ出す愛おしさを隠すことなく、深く優しく微笑んだ。

「……いいえ、ヘンだなんてとんでもない」
「え……?」
「……とても、とても綺麗です、リリィさん。あまりにもお似合いで……あまりの美しさに息を呑んでしまいました」
「〜〜〜っ!?」

まっすぐに見つめられ、熱を孕んだ低い声で告げられた言葉に、リリィの顔が一気に林檎のように真っ赤に染まった。

「あ、ありがとうございます……レオさん……っ」
「ふふ、あまりの可愛らしさに、他の誰かに見せるのが勿体なくなってしまうくらいです。……さあ、行きましょうか」

レオはそっとエスコートするように手を差し出した。
リリィはその大きな手に、恥ずかしそうに自分の小さな手を重ねる。

「はい……! 初詣、楽しみです!」

冬の静けさの中、着物の裾を揺らして歩く彼女の隣で、レオは誇らしさと、溢れんばかりの幸福感を胸に抱いていた。
昼の「レオ」と、可憐な和服姿の少女。
二人の特別な初詣の時間が、静かに刻まれ始めていた。
神社へと続く参道には色とりどりの屋台が立ち並び、賑やかな活気と香ばしい匂いに包まれていた。

「レオさん、見てください! りんご飴です!」
「ふふ、可愛らしいですね。食べますか?」

普段の夜の世界では考えられないような、穏やかで素朴な時間。
着物の袖を少し気にしながら、熱々のベビーカステラやりんご飴を嬉しそうに頬張るリリィ。
そんな彼女の姿を、レオは目元を緩ませながら愛おしそうに見つめていた。

「美味しいです……! レオさんもどうぞ!」
「ありがとうございます。……うん、とても甘いですね」

リリィが差し出してくれた一口を食み、笑い合う。
偽りの愛を売り買いする夜の街では決して得られない、純粋で温かな幸福感。
レオは自分の胸を満たすこの穏やかな時間を、何よりも愛おしく感じていた。
――だが、その幸福な空気は、一瞬にして冷たく凍りつくことになる。

「……え? ちょっと、蓮くん……!?」

人混みの向こうから届いた、甲高く聞き覚えのある声。

レオの背筋に、冷たい悪寒が走った。
振り返った彼の視線の先に立っていたのは最高級のブランドバッグを抱え、バッチリとメイクを整えた自分の太客の姫の一人だった。

「やっぱり蓮くん……! なんでこんなところに……ううん、それより」

姫の視線が、レオの隣に立つリリィへと向けられる。
清楚な和服に身を包み、レオから贈られた四葉のクローバーのネックレスを胸元で光らせている白銀の髪の少女。
その瞬間、姫の瞳にドロリとした激しい敵対心と執着の火が灯った。

「誰……? その子」

突き刺さるような鋭い声。
リリィは恐怖に身体を強張りませ、思わずレオのコートの袖をぎゅっと握りしめた。
レオの頭の中で、瞬時に冷徹な計算が弾き出される。
目の前にいるのは、月に数百万円を自分に落としてくれる大切な客だ。
ここで対応を誤れば、大きなトラブルに発展し、店での立場も危うくなる。何より――隣にいる無垢なリリィに刃が向くことだけは、絶対に避けなければならない。
昼間の「レオ」の温もりを一瞬で封印し、男は歌舞伎町の「神城 蓮」の仮面を完璧に装着した。

「……こんなところで会うなんて、奇遇ですね」

蓮はすっとリリィを自分の背中へ庇うように一歩前へ出ると、極上の、けれど一切の隙を見せない「神城 蓮」の完璧な微笑みを浮かべた。

「蓮くん、ごまかさないで! その女、誰なの!? 私には『正月は実家に帰る』って言ってたじゃない! なんで女と初詣なんか来てるのよ!?」

狂気を含んだ姫の追及にも、蓮の表情はピクリとも動かない。
声のトーンを極限まで低く、耳に甘く溶けるような特別なトーンへと落とし、姫の瞳をまっすぐに見つめ返した。

「落ち着いてください。……彼女は、私の親戚の妹ですよ」
「……え? 妹……?」
「ええ。田舎から出てきたばかりで、東京の初詣が見たいと言うので……身内として連れてきていただけです。せっかくの正月に、彼女を一人にしておくわけにもいきませんから」

蓮は完璧な嘘を淀みなく紡ぎ出し、姫の自尊心を傷つけないよう、絶妙な距離感でその手にそっと触れた。

「私にとって、プライベートで本当に特別扱いしたい女性が誰なのか……あなたが一番よく知っているでしょう?」

耳元で低く囁かれたその言葉に、怒りに打ち震えていた姫の顔が、一瞬で桃色に染まっていく。

「……本当に? 本当にお仕事やプライベートの女じゃないの……?」
「勿論です。私を信じられないのですか?」

甘く、けれど拒絶を許さない強い瞳で見つめられ、姫は毒気を抜かれたように小さく頷いた。

「ううん……信じる。ごめんね、急に叫んだりして……」
「いいんですよ。あなたがそれだけ私のことを大切に思ってくれている証拠ですから。……ね? 続きはまた、店で話しましょう」

優しく姫の背中を押し、うまくその場から離れさせる蓮。
姫が人混みの中へと消えていくのを見届けた瞬間、蓮は長くて深い、苦痛に満ちた息を吐き出した。
首筋を冷や汗が伝う。
完璧に「神城 蓮」を演じきったものの、胸の奥は激しい自己嫌悪と痛みに引き裂かれていた。

「……リリィさん」

恐る恐る振り返ると、そこには自分の背中の後ろで、小さく震えながら自分を見つめるリリィの姿があった。

「いまの、は……」

見せたくなかった、夜の世界のドロドロとした嘘と計算。
自分を守るためとはいえ、彼女を「妹」と偽り、他の女性に甘い言葉を囁く姿を見せてしまった。
静まり返った参道の脇で、二人の間に重い緊張が走り抜けていた。
参道の脇、冷たい冬の風が二人を吹き抜けていく。

(……やってしまった)

後悔と自己嫌悪が、レオの胸を強く締め付けた。
自分を守るため、そしてこの平和な時間を壊さないためだったとはいえ、目の前で別の女性に甘い言葉を囁き、完璧な嘘を吐く自分のドロドロとした「営業の顔」を見せてしまった。
自分を「妹」と偽られ、傷ついただろうか。
呆れられただろうか。
それとも、こんな嘘つきで歪んだ男だともう関わりたくないと、吐き気を催しているだろうか。
恐ろしさに胃が痛むのを感じながら、レオはどう言葉を返すべきか必死に喉を鳴らした。

「リリィさん……その、今のは……」

弁明の言葉すら上手く出てこない。 焦りと動揺で緑の瞳を揺らすレオ。
そんな彼を見つめていたリリィだったが、次の瞬間、ふっと肩の力を抜き、可憐な唇から「くすっ」と小さく愛らしい笑い声を漏らした。

「……え?」

呆然とするレオの前で、リリィは着物の袖口で口元を隠しながら、目を細めて嬉しそうに彼を見上げた。

「ごめんなさい、レオさん。……でも、私の知っているお優しいレオさんと、さっきの格好いいお仕事のレオさんって、本当にまるで違っていて……何度拝見しても、やっぱり驚いてしまいます」
「……リリィさん、失望……しなかったのですか? 私は、あなたに嘘まで吐いて……」

不安そうに尋ねるレオに、リリィはゆっくりと首を横に振った。
胸元の四葉のクローバーのネックレスにそっと触れ、まっすぐな赤い瞳で彼を見つめ返す。

「失望なんて、するわけありません。私を守るために、一生懸命にお話してくださったんですよね? ……それに」

リリィは少し照れくさそうに、けれど深く納得したように微笑んだ。

「……どちらも、私の大好きなレオさんなんですよね」
「……っ」

その一言が、レオの胸の深いところにまっすぐに突き刺さった。
夜の世界で「神城 蓮」として生きる自分も、昼の世界で「レオ」として憩いを求める自分も。
どちらかを偽物だと切り捨てることなく、すべてをそのまま受け止めてくれる少女。
嘘と計算で塗り固められた世界で生きてきた自分が、こんなにも純粋で、温かな愛おしさに包まれる日が来るなんて思いもしなかった。

レオは拍子抜けしたように、そして心底脱力したように「はは……」と小さく苦笑した。

「……本当に、あなたには敵いませんね」

深く一息をつき、胸の中に渦巻いていた不安も自己嫌悪も、すべてがすーっと溶けて消えていくのを感じた。
レオは一歩リリィへと歩み寄ると、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。
慣れない着物姿で寒そうにする彼女の手を温めるように、ぎゅっと力を込める。
そして、営業用の「神城 蓮」の笑みでも、いつもの穏やかな「レオ」の笑みでもない。
胸の奥から溢れ出す本気の情熱を宿した緑の瞳で、リリィをまっすぐに見つめた。

「……約束します、リリィさん。何があっても……どんなことがあっても、私はあなたを守ります。……絶対に」

静かな神社の一角で紡がれた、まるで誓いであり、告白のようでもある真摯な言葉。
耳たぶまで真っ赤に染めたリリィは、照れくさそうに、けれど嬉しそうに「はい……!」と強く頷いた。
遠くで鳴り響く参拝客の喧騒を遠くに聞きながら、二人はしっかりと手を繋ぎ直し、再び色鮮やかな初詣の参道へと歩き出していくのだった。
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