恋を売る夜に、ただひとつの愛を

昨夜の狂乱が嘘のように静まり返った、午後の柔らかな光が差し込む街並み。
非番の昼下がり、レオは重い足取りでいつもの路地裏へと向かっていた。

(……どんな顔をして、会えばいいのか)

昨夜、歌舞伎町の「神城 蓮」として生きる自分の泥臭く歪んだ裏の顔を、よりによって一番見られたくなかったリリィに見られてしまった。
自分の仕事の異質さ、あの狂気的な金銭感覚、そして煌々としたネオンの下で女たちを相手にする自分の姿。
失望されているかもしれない。気味悪がられているかもしれない。
最悪、お店に足を踏み入れることすら拒絶されるのではないか。
そんな暗い予感に胸を締め付けられながら、レオはそっとドアを開けた。
カラン、といつもの鈴の音が鳴る。

「いらっしゃいませ、レオさん!」

ドアが開いた瞬間、カウンターの奥からパッと花が咲くような笑顔でリリィが駆け寄ってきた。
白銀の髪をふんわりと揺らし、胸元にはあの日贈った四葉のクローバーのネックレスが優しく輝いている。
昨日までの華やかなドレス姿ではなく、いつもの清楚で素朴なカフェエプロン姿。
駆け寄ってくる彼女を前に、レオは息を呑み、痛々しいほど酷く申し訳なさそうな表情を浮かべた。
緑の瞳には、隠しきれない罪悪感と動揺が滲んでいる。

「……リリィさん。昨日は、その……本当に、すみませんでした」

言葉を詰まらせ、頭を下げようとしたレオ。
けれど、リリィはそんな彼の反応に少し驚いたように瞳を丸くすると、頬をほのかに桃色に染めて、照れくさそうに控えめな笑みを浮かべた。

「ふふ、頭を上げてください、レオさん。……私、昨日は……少しだけ、楽しかったです」
「……え?」
「ルミさんが連れて行ってくださったあそこは、すごくキラキラしていて……おとぎ話の世界みたいでびっくりしました。でも何より……いつものお優しいレオさんとは少し違う、すごく格好いいレオさんを見られて……なんだか、ドキドキしてしまいました」

恥ずかしそうに下を向きながら、指先でネックレスに触れるリリィ。
軽蔑も、恐怖も、失望すらそこにはなかった。
ただ、純粋に「新しい彼の一面」を知れたことを、彼女なりに静かに喜んでいたのだ。
リリィはパッと顔を上げると、いつものように嬉しそうに窓際の席を示した。

「いつものお席へどうぞ! 今日も、いつものブレンドコーヒーとケーキでよろしいですか?」

無垢で、どこまでも優しいその言葉。
どれほど自分の救いになっただろう。
けれど、だからこそ、レオの胸の奥で冷たい理性が警鐘を鳴らした。
彼女はあまりにも純粋すぎる。
あんな危険で歪んだ夜の世界に、これ以上巻き込んでいい存在では絶対にない。
レオは優しく微笑み返す代わりに、表情を固く引き締めた。
そして、彼女の視線をまっすぐに見つめ、二人の間に明確な一線を引くように、静かに釘を刺した。

「……リリィさん」
「はい?」
「昨日のことは……楽しんでいただけたなら、それで良かったです。ですが……あのような場所へは、もう二度と来てはダメですよ」

あまりにも真剣で、どこか拒絶するような強い響きを含んだ声。

「……レオ、さん……?」

リリィが困惑したように小さく首を傾げる。

「昨日はルミさんが連れて行ってくれたから無事でしたし、私もいました。ですが、本来あの場所は……あなたのような純粋な人が立ち入っていい世界ではありません。欲望やお金で、人が簡単に壊れてしまう場所なんです」

レオは自嘲気味に口元を歪め、自分の胸にそっと手を当てた。

「私も……あの場所では『神城 蓮』という、あなたに見せるべきではない嘘と欲望で塗り固められた人間です。……だから、約束してください。二度と、あの店には近づかないと」

目の前の少女を守るため、そして、彼女にとっての自分が「昼間の穏やかなレオ」であり続けるために。
レオは静かに、けれど決して揺るがない強い眼差しで、リリィからの言葉を待つのだった。

「はい……レオさんがそう仰るのでしたら、もう行きません」

レオの真剣な眼差しに押されるように、リリィは少しだけ寂しそうにしながらも、素直に小さく頷いた。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたレオの肩からすっと力が抜け、強張っていた表情が柔らかく解けていく。
心底ほっとしたような深い吐息が、口元からこぼれ落ちた。

「……ありがとうございます。少し厳しい言い方をしてしまって、怖がらせてしまいましたね。本当にすみません」
「ううん、いいんです。レオさんが私のことを心配してくださっているのは、ちゃんと分かりますから」

微笑み合う二人。
いつもの穏やかで優しい空気が、再び二人の間を取り戻していく。
レオは案内された窓際の席へ腰を下ろすと、ふと思い出したように、少しだけ悪戯っぽく目元を和ませた。

「そういえば……昨日はせっかくリリィさんが作ってくださるはずだった特別なクリスマスケーキ、食べられなくて本当に残念でした」
「あ……」

レオが残念そうに溢した言葉に、リリィはハッと目を見開いた。

「あ! レオさん、ちょっと待っていてください!」
「え……?」

リリィはパッと表情を輝かせると、パタパタと忙しない足取りでカウンターの奥へと走っていった。
困惑しながら待つレオの元へ、ほどなくしてリリィが戻ってくる。
その手には、大切そうに抱えられた小さな平皿が載っていた。

「これ……! 昨日、レオさんのために焼いたイチゴのショートケーキなんです! 一日経ってしまっているんですけど、冷蔵庫でしっかり保管していたので……もし良かったら、食べていただけますか?」

差し出されたお皿の上には、小ぶりながらも丁寧にデコレーションされた白いケーキ。
真っ赤なイチゴの隣には、チョコレートで手書きされた小さなメッセージプレートが添えられていた。

『Merry Christmas レオさん』

一文字一文字、心を込めて書かれたであろうその文字と、目の前で不安そうに、けれど期待に満ちた瞳で自分を見つめる少女の姿。
歌舞伎町の豪華なシャンパンタワーも、太客が落とす何百万のボトルも、この一皿のケーキの前にはかすんでしまう。

「……リリィさん」

レオの緑の瞳に、あたたかな光が宿る。

「……いただきます。今から食べるこのケーキが、私にとって今年一番のクリスマスプレゼントです」

フォークを手に取り、一口口に運ぶと、口いっぱいに広がる優しい甘さ。
昨日までの狂乱と焦燥感が、嘘のように綺麗に溶けていくのを、レオは静かに噛み締めていた。
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