恋を売る夜に、ただひとつの愛を

歌舞伎町の狂騒がようやく引いていく。
午前一刻を過ぎた頃、店内の照明が落とされ、昼間の静寂に似た薄暗がりが『RAYSTOLL』を包み込んだ。
営業終了の合図とともに、ホールでは後輩のキャストや内勤のスタッフたちが忙しなく動き始める。
散らかったグラスをトレイにまとめ、テーブルの灰皿を下げ、床にモップをかける音が遠くで響いていた。

「蓮さん、本日もお疲れ様でした! あとの掃除は自分たちに任せて上がってください」

通りがかった下っ端のキャストが、汗を拭いながら頭を下げる。

「ありがとう。残りの作業、よろしくお願いしますね」

いつもの穏やかな笑顔で応えると、レオは控室へと足を向けた。
鏡の前で細身の白スーツを脱ぎ捨て、上質な素材のシンプルなニットとスラックスに着替える。
胸ポケットに挿していた黒のサングラスをケースに収め、整えられていた髪を指先で軽く崩した。
その瞬間、顔から「神城 蓮」という完璧な飾りが剥がれ落ちる。
鏡に映る自分の瞳に静かな影が落ちたのを確認し、彼はひとつ、短い息を吐いた。
ここからは、ただのレオに戻る時間だった。
タクシーに乗り込み、深夜の歌舞伎町を離れる。
車窓を流れるネオンの光を眺めながら、彼は手元のスマートフォンを開いた。
高級タワーマンションの自室に帰り着くと、静まり返ったリビングのソファに深く身体を沈める。
部屋の灯りは点けず、スマートフォンの画面の光だけが彼の綺麗な顔立ちを浮かび上がらせていた。
ここからが、夜の仕事の延長であり、最も気を抜けない「店外」の作業だ。
まずは店公式のSNSと個人のアカウントの更新。
今日撮影した、白スーツ姿の写真を一枚選ぶ。露骨な自慢や嫌みのない、けれど女性の心を揺さぶる短文を添えて投稿した。

『今夜もたくさんの笑顔に会えて幸せでした。少し寒くなってきたから、みんな温かくして休んでね』

投稿を終えると、間髪入れずに「姫」たちからの反応が押し寄せる。
それらを軽く確認しながら、次は個人のメッセージアプリを開く。
画面には、未読を示す赤い数字がずらりと並んでいた。
今夜来てくれた客への「お礼のメッセージ」。 今日店に来られなかった客への「日常の報告と甘い言葉」。
指名本数No.2を維持し、紫苑を追い抜くためには、この地道な「営業」こそが生命線だった。

(……この子は、少し不安になりやすいから丁寧めに)

『今日は会えて本当に嬉しかったよ。仕事で疲れているのに時間を作ってくれてありがとう。無事に家に着いた?』

(こっちの子は、他のキャストに浮気しそうになっているから、少し独占欲を滲ませて)

『他の席にいる時も、ずっと君のことばかり気になってた。次は二人だけでゆっくり話したいな』

相手の性格、好み、過去に話した内容、そして店で使った金額。
それらすべてを頭の中の引き出しから正確に引っ張り出し、一人ひとりに合わせた文面を打ち込んでいく。
文章の温度感、返信のタイミング、絵文字の塩梅まで、一切の妥協はない。
ただ「好き」と伝えるのではなく、相手が「自分だけが特別に愛されている」と錯覚するように言葉を紡ぐ。

「……ふぅ」

一通、また一通と返答を返し終え、未読の数字がすべて消えた頃には、東の空がうっすらと白み始めていた。
画面を閉じ、テーブルの上にスマートフォンの画面を伏せて置く。
静寂が戻った部屋の中で、レオはゆっくりと天を仰いだ。
「この方が稼げるんですよ」と紫苑にはうそぶいてみせたものの、精神を削りながら誰かの幻想を演じ続ける作業に、疲弊していないと言えば嘘になる。
枕営業をせず、純粋に「ガチ恋」の感情だけで客を繋ぎ止めるスタイルは、常に相手の執着と背中合わせだ。
一歩間違えれば、刃となって自分に跳ね返ってくる危うさを、彼自身も痛いほど理解していた。
けれど、妥協するつもりはない。
勝ちたいという欲望と、この街で成り上がるための冷徹な計算が、彼を突き動かしていた。
ソファから立ち上がり、寝室へと向かう。
ベッドに倒れ込み、重い瞼を閉じる。頭の中ではまだ、無数のメッセージの文面や店での会話がぐるぐると渦巻いていた。

(……静かなところが、いいですね)

意識がまどろみの中に沈んでいく間際、レオの心にふと、そんな脈絡のない思いが浮かんだ。 狂ったような熱気と、嘘で塗られた甘い言葉が飛び交う夜の街。
そこから完全に切り離された、嘘のない、穏やかな場所。

まだ見ぬその場所の記憶を探すように、彼は深い眠りへと落ちていった。
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