恋を売る夜に、ただひとつの愛を

ホストクラブの「締め日」。
毎月、誰もが正気を疑うほどの金額が飛び交い、キャストも姫もプライドと意地を全開にしてぶつかり合う、夜の街で最も荒れる一日だ。
夕方からは、指名本数と売上の頂点を目指す太客の姫との同伴、激動のラストソングバトル、そして深夜のアフターまで過密なスケジュールがギッシリと詰まっている。
そんな狂乱の夜を控えた昼下がり。
レオは重い脚を動かし、逃げ込むようにいつもの路地裏の喫茶店へと向かった。
カラン、と控えめなドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ、レオさん!」

カウンターの奥から弾んだ声が聞こえ、白銀の髪を揺らしてリリィが出迎えてくれた。
その胸元に視線を走らせた瞬間、レオの緑の瞳がわずかに丸くなり、次いですっと柔らかく細められた。
清楚な白ブラウスの胸元で、繊細なプラチナチェーンと小さな四葉のクローバーが、窓からの光を受けてキラキラと可憐に輝いている。
天然エメラルドの深みのある緑が、彼女の可憐さをこれ以上ないほど引き立てていた。

「……つけてくださったんですね」

レオが嬉しそうに目を細めて微笑むと、リリィは頬をほのかに桃色に染め、恥ずかしそうに胸元へ手を添えて控えめに笑った。

「はい……せっかくいただいたので……。私には少し綺麗すぎますけれど、とても気に入っていて……」
「とてもよくお似合いですよ。……選んだ甲斐がありました」

胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、レオはいつもの窓際の席へと腰を下ろした。
いつものブレンドコーヒーとケーキを注文すると、リリィは嬉しそうに「はい!」と返事をしてカウンターへ戻っていく。
レオはポケットから営業用のスマートフォンを取り出し、今夜の締め日に向けた最後の仕込みを始めた。

『今夜、絶対に勝とうね。君がいてくれるから私は戦えるんだ』

太客の姫へ向けて、甘く熱烈なメッセージを打ち込む。
指先が記憶しているルーティン作業。 ――その時だった。

「ここだよ! ここ! 紫苑、ここすっごく居心地がいいんだよ!」

静かな店内に、鈴を転がすような、けれど聞き覚えのありすぎる明るい声が響き渡った。
レオの手がぴたりと止まる。
入り口へと視線を向けると、そこには水色の髪を揺らし、男の腕にぴったりと自分の腕を絡めたルミの姿があった。
そして、その隣で高級スーツを隙なく着こなし、心底面倒くさそうに、けれど甘やかすような眼差しを向けているのは――『RAYSTOLL』の絶対王者、皇 紫苑――アルヴィーノだった。
ルミは最近、この喫茶店を気に入って通い始めた客だった。
天真爛漫なルミは、可憐で丁寧なリリィとすぐに意気投合し、よく楽しそうにおしゃべりをしていたのだ。

「あ、ルミさん! いらっしゃいませ!」

リリィがパッと顔を輝かせて出迎える。

「リリィちゃん、こんにちはー! 今日はね、紫苑を連れてきたの!」
「ふふ、ようこそいらっしゃいました」

無邪気に笑うルミの横で、アルヴィーノは店内に足を踏み入れ――窓際の席で硬直しているレオとバッチリ視線が合った。

「……」
「……」

一瞬の間。
アルヴィーノは紫の瞳をわずかに細め、レオは「なぜここに」と言いたげに優雅な笑みの裏で冷や汗を流した。
夜の世界の人間であること、そして「神城 蓮」というホストであることを、この平和で清らかな店でリリィに知られるわけには絶対にいかない。
レオの眼差しには『余計な口を滑らせるな』という強烈な圧が含まれていた。
アルヴィーノはレオのその必死な気配を察し、鼻で小さくフンと笑うと、関心がないふりをしてルミの背中を押した。

「ルミ、静かにしなさい。……店に迷惑だ」
「はーい。あ、レオくんもいるー!」

ルミがレオに手を振る。
レオはすっと上品に微笑みを浮かべた。

「こんにちは、ルミさん。……アルヴィーノさんも、お揃いで」
「ええ。ルミが連れて行くとうるさくてね」

アルヴィーノは「私服のレオ」と呼び方(アルヴィーノさん)を自然に受け流し、低い声で短く応じた。
二人とも、昼の顔として完璧に話を合わせている。
その時だった。
テーブルへお水を持ってきたリリィの胸元を見て、ルミが「あ」と声を上げた。

「リリィちゃん、そのネックレスすごくかわいい! 四葉のクローバーだ! 緑のキラキラがついてる!」
「あ……ありがとうございます、ルミ様。これ、レオさんが……いつものお礼にと、くださったんです」

リリィが少し照れくさそうに、けれど宝物を誇るようにネックレスに手を添える。

「えっ、レオくんが……!?」

ルミは目を丸くして、リリィの胸元のネックレスと、窓際で静かにコーヒーカップを持とうとしていたレオの顔を交互に見た。
ルミの頭の中で、瞬時に計算が弾き出される。
――あの、超がつくほど合理的で、女を転がすことにかけては悪魔的なあの蓮が?
――自分からは一銭も無駄金を使わず、太客にすら営業用の計算でしか物を買い与えないあの蓮が?
――交際もしていない喫茶店の店員に、一目で本物と分かる高額な天然エメラルドのネックレスを「お礼」と称して贈った……!?

ルミの顔が驚愕に染まり、それから一転して、何かをすべて察したようなニヤニヤとした顔に変わった。

「……あー。そういうことかぁ……」

ルミは自分の顎に手を当て、そっかそっかと一人で深く何度も頷いている。

「ルミさん? どうかなさいましたか?」

不思議そうに首を傾げるリリィに、ルミは楽しそうにパッと弾けるような笑顔を向けた。

「ううん! なんでもない! すっごくお似合いだよ、リリィちゃん! レオくん、いいセンスしてるねぇ〜!」
「……ありがとうございます、ルミさん」

レオは額に青筋が浮かぶのを完璧な微笑みの下に隠し、低く穏やかな声で返した。
ルミの背後では、アルヴィーノが「呆れた奴だ」と言わんばかりに小さく肩をすくめている。
ルミとアルヴィーノが奥の席へと案内されていくのを見送りながら、レオは深く、静かに息を吐き出した。

(……冷や汗をかきましたね)

けれど、リリィが嬉しそうに胸元のクローバーに触れながらコーヒーを淹れる姿を見ると、胸の中の緊張は一瞬で溶けていった。
画面の中で踊る、今夜の締め日に向けた数百万、数千万の数字と、女たちの執着。
それらの泥沼へ飛び込む直前の、束の間の平和。

「レオさん、お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます、リリィさん」

彼女が運んできてくれたコーヒーの温もりを手に感じながら、レオは今夜の激戦に向けて、静かに覚悟を固めるのだった。
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