恋を売る夜に、ただひとつの愛を
眩いクリスタルのシャンデリアが天井で妖しく光を弾き、重厚な絨毯が足音を静かに吸い込んでいく。
重なり合うグラスの澄んだ音、上質な香水と煙草の残り香、そして低く流れるジャズ。
新宿・歌舞伎町の片隅に位置する『HOST CLUB RAYSTOLL』の店内は、今夜も現実を忘れたい人々を優しく呑み込んでいた。
「神城 蓮 」は、対面する女性の少し前に置かれたグラスに、冷えたミネラルウォーターを滑らかな動作で注ぎ足した。
結露したガラスの表面を水滴がゆっくりと滑り落ちていく。
その一筋を、白の手袋は嵌めていないものの、完璧に手入れされた指先でさりげなく拭い去る。
「……蓮くんって、本当に私の話、ちゃんと覚えててくれるよね」
向かいに座る女性が、うっとりと頬を緩めながら吐息を漏らした。
蓮は、絶妙な角度で唇の端を押し上げ、どこまでも穏やかで甘い眼差しを彼女へと向けた。
プラチナブロンドの髪が、店の落ちついた照明を受けて柔らかく煌めく。
「覚えていますよ。あなたの声も、話してくれる時間も、私にとってはすべて大切なものですから」
低く、耳に心地よく響く声。
乱暴な響きは一切なく、まるで極上の絹織物で包み込むような丁寧な敬語だ。
相手の瞳をじっと見つめ、小さく首を傾げる。それだけで、女性の胸が跳ねるのが空気の揺らぎで伝わってきた。
「本当? 他の姫にも同じこと言ってるんじゃないの?」
「まさか。私がこんな風に胸を痛めるほど惹かれるのは、あなただけですよ」
嘘か真ことか判別のつかない言葉すら、彼の口から紡がれれば絶対の真実のように聞こえてしまう。
蓮――レオは、決して相手の領域を強引に侵さない。
ただ、相手が望む距離まで自ら進んで歩み寄り、包み込む。
過剰な触れ合いや下品な色香に頼るのではない。
徹底された紳士的な振る舞いと、狂いなく計算された言葉遣い。
それだけで、女たちは彼という底なしの沼へと自ら落ちていくのだった。
手元で静かに携帯端末が振動する。
画面を見ずとも解る。
別のテーブルの客からの「今どこにいるの」「いつ来てくれるの」という切実な連絡だ。
SNSの更新、日々の細やかな連絡、店外での付き合い。彼はそのすべてを怠らない。
売上のため、そして何より『皇 紫苑 』という絶対的な一番の背中を捕えるために。
「蓮」
静かで、どこか冷ややかな声が背後から掛けられた。
振り返ると、漆黒のスーツを隙なく着こなした男――皇 紫苑が立っていた。
紫の瞳が、静かにレオを見下ろしている。
「紫苑さん。何か?」
「次の席の準備が整っている。あまり長居をして、こちらの姫を退屈させるな」
「ええ、分かっていますよ。……では、少しだけ席を外しますね。すぐに戻りますから、待っていてくださいますか?」
レオは女性の手の甲にそっと指先を触れさせ、優しく囁いた。
女性は名残惜しそうに、けれど満足気に頷く。
席を離れ、薄暗い通路へと足を進めたところで、紫苑が足取りを合わせるように隣に並んだ。
「相変わらず、危うい営業をしているな」
紫苑は表情一つ変えず、淡々と告げる。
「客の心を揺さぶり、本気にさせすぎる。一線を越えないだけで、やっていることは相手の依存を煽る行為だ。いつか刺されても文句は言えんぞ」
「ふふ、ご心配ありがとうございます、紫苑さん」
レオは崩さない笑顔のまま、軽く首を横に振った。緑の瞳に、かすかな愉悦の色が浮かぶ。
「ですが、この方が効率よく稼げるのですよ。私は早く、あなたがいるその一番の席に座りたいものですから」
「……好きにしろ。だだし、店に迷惑だけはかけるなよ」
呆れたように吐き捨て、紫苑は先へと歩み去っていった。
レオはその背中を笑顔で見送ると、軽く肩をすくめる。
身体を重ねるような安易な枕営業は絶対にしない。
それは己の矜持であり、同時に客の幻想を壊さないための計算でもあった。
自分を過剰に魅せ、焦らし、渇望させる。
歌舞伎町という夜の街において、己の容姿と立ち振る舞いは最強の武器だった。
(……少し、疲れましたね)
時計の針は、すでに午前二時を回ろうとしている。
煌びやかな酒の香りと、女たちの欲望が渦巻くこの場所。嫌いではない。
競争も、勝ち上がっていく感覚も自分の性に合っている。
けれど、時折、胸の奥がひどく乾く感覚を覚えるのもまた事実だった。
「神城さん、あちらのテーブルでお待ちです!」
後輩のホストが威勢よく声をかけてくる。
「ええ、今行きます」
レオは胸元のポケットに挿した黒いサングラスに軽く触れ、微笑みを浮かべ直すと、再び喧騒の渦へと戻っていった。
この時の彼はまだ知らなかった。
夜の帳が下りたこの街の喧騒から遠く離れた、静かな朝の光の中で。
自分の壊れた金銭感覚と、乾いた心を揺るがすような「一人の少女」と出会うことを。
重なり合うグラスの澄んだ音、上質な香水と煙草の残り香、そして低く流れるジャズ。
新宿・歌舞伎町の片隅に位置する『HOST CLUB RAYSTOLL』の店内は、今夜も現実を忘れたい人々を優しく呑み込んでいた。
「
結露したガラスの表面を水滴がゆっくりと滑り落ちていく。
その一筋を、白の手袋は嵌めていないものの、完璧に手入れされた指先でさりげなく拭い去る。
「……蓮くんって、本当に私の話、ちゃんと覚えててくれるよね」
向かいに座る女性が、うっとりと頬を緩めながら吐息を漏らした。
蓮は、絶妙な角度で唇の端を押し上げ、どこまでも穏やかで甘い眼差しを彼女へと向けた。
プラチナブロンドの髪が、店の落ちついた照明を受けて柔らかく煌めく。
「覚えていますよ。あなたの声も、話してくれる時間も、私にとってはすべて大切なものですから」
低く、耳に心地よく響く声。
乱暴な響きは一切なく、まるで極上の絹織物で包み込むような丁寧な敬語だ。
相手の瞳をじっと見つめ、小さく首を傾げる。それだけで、女性の胸が跳ねるのが空気の揺らぎで伝わってきた。
「本当? 他の姫にも同じこと言ってるんじゃないの?」
「まさか。私がこんな風に胸を痛めるほど惹かれるのは、あなただけですよ」
嘘か真ことか判別のつかない言葉すら、彼の口から紡がれれば絶対の真実のように聞こえてしまう。
蓮――レオは、決して相手の領域を強引に侵さない。
ただ、相手が望む距離まで自ら進んで歩み寄り、包み込む。
過剰な触れ合いや下品な色香に頼るのではない。
徹底された紳士的な振る舞いと、狂いなく計算された言葉遣い。
それだけで、女たちは彼という底なしの沼へと自ら落ちていくのだった。
手元で静かに携帯端末が振動する。
画面を見ずとも解る。
別のテーブルの客からの「今どこにいるの」「いつ来てくれるの」という切実な連絡だ。
SNSの更新、日々の細やかな連絡、店外での付き合い。彼はそのすべてを怠らない。
売上のため、そして何より『
「蓮」
静かで、どこか冷ややかな声が背後から掛けられた。
振り返ると、漆黒のスーツを隙なく着こなした男――皇 紫苑が立っていた。
紫の瞳が、静かにレオを見下ろしている。
「紫苑さん。何か?」
「次の席の準備が整っている。あまり長居をして、こちらの姫を退屈させるな」
「ええ、分かっていますよ。……では、少しだけ席を外しますね。すぐに戻りますから、待っていてくださいますか?」
レオは女性の手の甲にそっと指先を触れさせ、優しく囁いた。
女性は名残惜しそうに、けれど満足気に頷く。
席を離れ、薄暗い通路へと足を進めたところで、紫苑が足取りを合わせるように隣に並んだ。
「相変わらず、危うい営業をしているな」
紫苑は表情一つ変えず、淡々と告げる。
「客の心を揺さぶり、本気にさせすぎる。一線を越えないだけで、やっていることは相手の依存を煽る行為だ。いつか刺されても文句は言えんぞ」
「ふふ、ご心配ありがとうございます、紫苑さん」
レオは崩さない笑顔のまま、軽く首を横に振った。緑の瞳に、かすかな愉悦の色が浮かぶ。
「ですが、この方が効率よく稼げるのですよ。私は早く、あなたがいるその一番の席に座りたいものですから」
「……好きにしろ。だだし、店に迷惑だけはかけるなよ」
呆れたように吐き捨て、紫苑は先へと歩み去っていった。
レオはその背中を笑顔で見送ると、軽く肩をすくめる。
身体を重ねるような安易な枕営業は絶対にしない。
それは己の矜持であり、同時に客の幻想を壊さないための計算でもあった。
自分を過剰に魅せ、焦らし、渇望させる。
歌舞伎町という夜の街において、己の容姿と立ち振る舞いは最強の武器だった。
(……少し、疲れましたね)
時計の針は、すでに午前二時を回ろうとしている。
煌びやかな酒の香りと、女たちの欲望が渦巻くこの場所。嫌いではない。
競争も、勝ち上がっていく感覚も自分の性に合っている。
けれど、時折、胸の奥がひどく乾く感覚を覚えるのもまた事実だった。
「神城さん、あちらのテーブルでお待ちです!」
後輩のホストが威勢よく声をかけてくる。
「ええ、今行きます」
レオは胸元のポケットに挿した黒いサングラスに軽く触れ、微笑みを浮かべ直すと、再び喧騒の渦へと戻っていった。
この時の彼はまだ知らなかった。
夜の帳が下りたこの街の喧騒から遠く離れた、静かな朝の光の中で。
自分の壊れた金銭感覚と、乾いた心を揺るがすような「一人の少女」と出会うことを。
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