氷の騎士に、白百合の恋を
あの日を境に、セレフィアは庭園の白百合の傍らに佇むリリアーヌの姿をよく目にするようになった。
かつては興味の対象外として景色の一部に過ぎなかったものが、ひとたび認識してしまえば自ずと瞳に映り込むようになる。彼女は日々、花々に水をやり、動物たちに優しく微笑みかけていた。
それから幾日かが過ぎた、ある夕刻のこと。
苛烈な鍛錬を終え、汗を拭いながら回廊を一人歩いていたセレフィアの元へ、慌ただしい足音が近づいてきた。
「あの、待ってください……! 取ってください、助けてください……!」
静寂を破って駆け寄ってきたのは、涙目で助けを求めるリリアーヌであった。
その声は微かに震え、可憐な面輪は恐怖に引きつっている。
セレフィアが足を止め、無表情のまま問いかけようとした瞬間、彼女の姿を覆う異変に気づいた。
黄金色の波打つ髪の至るところに、羽ばたく蝶や数匹のトンボが静かに止まっていたのである。その豊かな髪を自然の樹木か花畑と錯覚したのか、羽虫たちは去ろうとせず、悠々と羽を休めていた。
「……動かないでください」
セレフィアは淡々と短く告げると、至近距離まで足を踏み入れた。
リリアーヌが引きつった息を飲み、じっと固まる中、セレフィアは無駄のない洗練された所作でそっと手を伸ばした。
一瞬の猶予も与えず、風を斬るような滑らかな手つきで、彼女の髪を傷つけることなく虫たちを払っていく。
指先が黄金色の髪に触れるたび、サラリとした感触とともに羽虫たちが夕空へと飛び立っていった。
「……終わりました」
すべての虫が離れ去ったことを確認し、セレフィアはすっと手を引いた。
身構えることもなく、ただ与えられた脅威を排除しただけという風体で、変わらぬ紫の瞳をリリアーヌへと向けたのだった。
すべての虫が夕闇の空へと去り、静寂が訪れる。
リリアーヌは安堵の息を漏らすと、まだ涙の残る翠色の瞳でゆっくりと顔を上げた。
胸の前で両手を固く握りしめたまま、目の前に佇む小さな少女を見つめる。
「……ありがとうございます。本当に、助かりました。あのお召し物……貴方は、どなたですか?」
軍服を隙なく着こなし、感情の波を一切感じさせない紫の瞳。
その冷徹とも取れる美しさに圧倒されながらも、リリアーヌはどこか切実な眼差しで問いかけた。
質問を受けた少女は、姿勢一つ崩さずに淡々と口を開いた。
「私の名前はセレフィア」
余計な飾りのない、短く明確な名乗り。
それだけを告げると、セレフィアは回廊の窓の外へと静かに視線を向けた。
陽はすでに落ち、夕闇が刻一刻と廊下の足元を呑み込み始めている。
「陽が落ちました。外はもう暗いです。……お部屋までお送りしましょうか」
無機質に見える言葉の裏にある、確かな気遣い。
リリアーヌはその温もりに触れ、胸元で握りしめていた手に少しだけ力を込めると、こくこくと深く頷いた。
「……はい。お願いします、セレフィアさん」
夕闇が包み込み始めた静かな回廊を、二人の足音が並んで響き始める。
光と影のように対照的な二人は、静かに、けれど確かに歩みを揃えて部屋へと向かっていくのだった。
二人が静かな足取りで部屋の前に辿り着くと、重厚な扉が開かれ、温かな灯りが廊下へと漏れ出た。
出迎えたのは、王妃エルザであった。
彼女はリリアーヌの姿を目に映すと、安堵と少しの苦笑を交えた吐息を漏らし、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「まあ……リリアーヌ。また庭園に出ていらしたのですね」
エルザは膝を折り、リリアーヌの背丈に目線を合わせると、黄金色の髪に引っかかっていた小さな木の葉を優しく指先で取り除いた。
その手つきには、慈愛に満ちた母としての温もりが宿っている。
そうして視線を少し横へとずらしたエルザは、リリアーヌの隣に隙なく佇む少女の存在に気づいた。
小柄な身体にぴったりと仕立てられた隙のない軍装。水色の長髪と、感情の起伏を感じさせない冷徹な紫の瞳。
その異彩を放つ佇まいから、エルザはすぐさま彼女がアルヴィーノの引き取った『駒』――セレフィアであることを察した。
エルザは穏やかな笑みを浮かべ、セレフィアに向けて静かに頭を下げた。
「この子をここまで送り届けてくださって、ありがとうございます。助かりました」
立場としては王妃であるはずの女性からの丁寧な感謝。しかし、セレフィアの表情に揺らぎや動揺が走ることはなかった。
「命じられたわけではありません。当然のことをしたまでです」
セレフィアは淡々と短く応じると、胸元に手を当てて深く、洗練された一礼を捧げた。
「では、失礼いたします」
一切の無駄のない所作で身を翻すと、セレフィアは二人へ背を向け、静かな足音とともに廊下の闇へと消えていく。
己を待つ父上と母上のいる私室を目指して、彼女はただ淡々と、己の歩みを進めるのだった。
重厚な扉を開け、私室へと足を踏み入れた瞬間、待っていたルミが弾かれたように駆け寄ってきた。
「セラ! おかえりなさい! 遅かったからすごく心配したよ、何かあったの?」
心配そうに水色の瞳を揺らし、矢継ぎ早に問い詰めてくるルミ。
セレフィアは変わらぬ冷ややかな佇まいのまま、少し首を振って応えた。
「問題ありません、母上。鍛錬の帰り道、庭園でリリアーヌ殿下とお会いしました」
セレフィアは、彼女の髪に群がっていた羽虫を取り払ったこと、そして陽が落ちて危険だったため、王妃エルザの待つ部屋まで送り届けた経緯を淡々と報告した。
静かに腰掛けていたアルヴィーノも、彼女の無駄のない報告に耳を傾けている。
事の顛末を聞き終えると、ルミは「ふぅ……」と胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。
「そっか、無事だったならよかった! でもリリアちゃん、本当にかわいいでしょう? 優しいし、お花みたいに可憐だし」
先ほどまでの心配顔から打って変わって、ルミはぱっと顔を華やがせ、心底嬉しそうに語り始めた。
しかし、その言葉に含まれた響きに、セレフィアは微かに首を傾げる。
「……リリア、ですか?」
聞き慣れぬその名に問い返す娘に対し、アルヴィーノが静かに口を開いた。
長椅子の隣に座るルミの頭にそっと手を置き、その柔らかい髪を愛おしそうに撫でながら微笑む。
「愛称ですよ。……貴方がルミから、セラと呼ばれているのと同じです」
「あ……」
母上からの『セラ』という呼び名、そしてルミが慈しみを込めて呼ぶ『リリアちゃん』という響き。
セレフィアは自分に与えられた温かな名と、今日出会った金髪の少女の姿を思い返し、ふむ、と胸の中で小さく納得するように頷くのだった。
かつては興味の対象外として景色の一部に過ぎなかったものが、ひとたび認識してしまえば自ずと瞳に映り込むようになる。彼女は日々、花々に水をやり、動物たちに優しく微笑みかけていた。
それから幾日かが過ぎた、ある夕刻のこと。
苛烈な鍛錬を終え、汗を拭いながら回廊を一人歩いていたセレフィアの元へ、慌ただしい足音が近づいてきた。
「あの、待ってください……! 取ってください、助けてください……!」
静寂を破って駆け寄ってきたのは、涙目で助けを求めるリリアーヌであった。
その声は微かに震え、可憐な面輪は恐怖に引きつっている。
セレフィアが足を止め、無表情のまま問いかけようとした瞬間、彼女の姿を覆う異変に気づいた。
黄金色の波打つ髪の至るところに、羽ばたく蝶や数匹のトンボが静かに止まっていたのである。その豊かな髪を自然の樹木か花畑と錯覚したのか、羽虫たちは去ろうとせず、悠々と羽を休めていた。
「……動かないでください」
セレフィアは淡々と短く告げると、至近距離まで足を踏み入れた。
リリアーヌが引きつった息を飲み、じっと固まる中、セレフィアは無駄のない洗練された所作でそっと手を伸ばした。
一瞬の猶予も与えず、風を斬るような滑らかな手つきで、彼女の髪を傷つけることなく虫たちを払っていく。
指先が黄金色の髪に触れるたび、サラリとした感触とともに羽虫たちが夕空へと飛び立っていった。
「……終わりました」
すべての虫が離れ去ったことを確認し、セレフィアはすっと手を引いた。
身構えることもなく、ただ与えられた脅威を排除しただけという風体で、変わらぬ紫の瞳をリリアーヌへと向けたのだった。
すべての虫が夕闇の空へと去り、静寂が訪れる。
リリアーヌは安堵の息を漏らすと、まだ涙の残る翠色の瞳でゆっくりと顔を上げた。
胸の前で両手を固く握りしめたまま、目の前に佇む小さな少女を見つめる。
「……ありがとうございます。本当に、助かりました。あのお召し物……貴方は、どなたですか?」
軍服を隙なく着こなし、感情の波を一切感じさせない紫の瞳。
その冷徹とも取れる美しさに圧倒されながらも、リリアーヌはどこか切実な眼差しで問いかけた。
質問を受けた少女は、姿勢一つ崩さずに淡々と口を開いた。
「私の名前はセレフィア」
余計な飾りのない、短く明確な名乗り。
それだけを告げると、セレフィアは回廊の窓の外へと静かに視線を向けた。
陽はすでに落ち、夕闇が刻一刻と廊下の足元を呑み込み始めている。
「陽が落ちました。外はもう暗いです。……お部屋までお送りしましょうか」
無機質に見える言葉の裏にある、確かな気遣い。
リリアーヌはその温もりに触れ、胸元で握りしめていた手に少しだけ力を込めると、こくこくと深く頷いた。
「……はい。お願いします、セレフィアさん」
夕闇が包み込み始めた静かな回廊を、二人の足音が並んで響き始める。
光と影のように対照的な二人は、静かに、けれど確かに歩みを揃えて部屋へと向かっていくのだった。
二人が静かな足取りで部屋の前に辿り着くと、重厚な扉が開かれ、温かな灯りが廊下へと漏れ出た。
出迎えたのは、王妃エルザであった。
彼女はリリアーヌの姿を目に映すと、安堵と少しの苦笑を交えた吐息を漏らし、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「まあ……リリアーヌ。また庭園に出ていらしたのですね」
エルザは膝を折り、リリアーヌの背丈に目線を合わせると、黄金色の髪に引っかかっていた小さな木の葉を優しく指先で取り除いた。
その手つきには、慈愛に満ちた母としての温もりが宿っている。
そうして視線を少し横へとずらしたエルザは、リリアーヌの隣に隙なく佇む少女の存在に気づいた。
小柄な身体にぴったりと仕立てられた隙のない軍装。水色の長髪と、感情の起伏を感じさせない冷徹な紫の瞳。
その異彩を放つ佇まいから、エルザはすぐさま彼女がアルヴィーノの引き取った『駒』――セレフィアであることを察した。
エルザは穏やかな笑みを浮かべ、セレフィアに向けて静かに頭を下げた。
「この子をここまで送り届けてくださって、ありがとうございます。助かりました」
立場としては王妃であるはずの女性からの丁寧な感謝。しかし、セレフィアの表情に揺らぎや動揺が走ることはなかった。
「命じられたわけではありません。当然のことをしたまでです」
セレフィアは淡々と短く応じると、胸元に手を当てて深く、洗練された一礼を捧げた。
「では、失礼いたします」
一切の無駄のない所作で身を翻すと、セレフィアは二人へ背を向け、静かな足音とともに廊下の闇へと消えていく。
己を待つ父上と母上のいる私室を目指して、彼女はただ淡々と、己の歩みを進めるのだった。
重厚な扉を開け、私室へと足を踏み入れた瞬間、待っていたルミが弾かれたように駆け寄ってきた。
「セラ! おかえりなさい! 遅かったからすごく心配したよ、何かあったの?」
心配そうに水色の瞳を揺らし、矢継ぎ早に問い詰めてくるルミ。
セレフィアは変わらぬ冷ややかな佇まいのまま、少し首を振って応えた。
「問題ありません、母上。鍛錬の帰り道、庭園でリリアーヌ殿下とお会いしました」
セレフィアは、彼女の髪に群がっていた羽虫を取り払ったこと、そして陽が落ちて危険だったため、王妃エルザの待つ部屋まで送り届けた経緯を淡々と報告した。
静かに腰掛けていたアルヴィーノも、彼女の無駄のない報告に耳を傾けている。
事の顛末を聞き終えると、ルミは「ふぅ……」と胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。
「そっか、無事だったならよかった! でもリリアちゃん、本当にかわいいでしょう? 優しいし、お花みたいに可憐だし」
先ほどまでの心配顔から打って変わって、ルミはぱっと顔を華やがせ、心底嬉しそうに語り始めた。
しかし、その言葉に含まれた響きに、セレフィアは微かに首を傾げる。
「……リリア、ですか?」
聞き慣れぬその名に問い返す娘に対し、アルヴィーノが静かに口を開いた。
長椅子の隣に座るルミの頭にそっと手を置き、その柔らかい髪を愛おしそうに撫でながら微笑む。
「愛称ですよ。……貴方がルミから、セラと呼ばれているのと同じです」
「あ……」
母上からの『セラ』という呼び名、そしてルミが慈しみを込めて呼ぶ『リリアちゃん』という響き。
セレフィアは自分に与えられた温かな名と、今日出会った金髪の少女の姿を思い返し、ふむ、と胸の中で小さく納得するように頷くのだった。