氷の騎士に、白百合の恋を

公邸での生活が始まってから、しばらくの時が流れた。

「セレフィア、今日はこのお洋服にしようか! セラは髪も綺麗だから、絶対にピンクのフリルが似合うと思うんだ」

私室には、毎朝のようにルミの明るい声が響いていた。
ルミは楽しそうに目を輝かせながら、可愛らしいドレスやリボンのついた服を次々と選び出していく。
せっかくの女の子なのだから、可愛くて綺麗な服を着せてあげたいという純粋な愛情からの振る舞いだった。
セレフィアはそれを拒むこともなく、言われるがままに愛らしい服を身に纏って過ごしていた。
自分の外見や装飾に対して執着はなく、与えられた服を着ることがこの家での役割であるならば、ただそれに従うまでだと割り切っていたからだ。
しかし、そんなある日のこと。

「ねえセラ、今日はこの白地に青いラインが入ったドレスなんて――」

いつものように嬉々として服を選んでいたルミの手を、そっと制する者があった。

「ルミ。今日の着替えは、私に任せてもらえますか」

そう言って歩み寄ってきたのは、アルヴィーノだった。
突然の制止にルミが不思議そうに首を傾げる中、アルヴィーノは手にした包みを静かに長机の上へ広げた。
そこに載せられていたのは、ルミがこれまで選んできたフリルやレースの溢れる服とは一線を画す代物だった。
漆黒と深緑を基調とした、隙のないかっちりとした軍装。
アルヴィーノが纏う軍服を思わせる、細部まで精緻に仕立てられた上質な装束であった。

「アルヴィーノ……? これは……」

思いがけない服の登場に、ルミは驚きで水色の瞳を丸くした。
アルヴィーノは混乱するルミの肩を優しく叩いて宥めると、冷ややかだがどこか深い意図を含んだ紫の瞳を、静かに佇むセレフィアへと向けた。

「セレフィア。今日から本格的に、私の『駒』としての訓練を始めます。いつまでも可憐な衣装で守られるだけの存在でいるつもりはありませんね」

机の上に並べられた重厚な軍衣を前にしても、セレフィアの表情に揺らぎはなかった。
愛らしいドレスから一転して突きつけられた冷徹な役割の提示。
しかし、その小さな水色の髪の少女は、ただ静かにその軍服を見つめ、受諾の意を示すように深く頭を下げた。
渡された衣服を抱え、脱衣所へと向かったセレフィアは、言われた通りにその重厚な装束へと袖を通した。
肌触りの良い上質な仕立てではあるものの、装飾を削ぎ落としたシルエットは紛れもなく軍装のそれであった。
鏡の前で仕上がりを確認するように鏡を見つめ、最後の上着のボタンを締めようとしたところで、セレフィアの小さな手がふと止まる。
胸元にわずかな引っかかりを感じた。
今はまだ幼く小柄な身体ではあるものの、将来的にこの膨らみが大きくなれば、刃を振るう動作や素早い身のこなしにおいて、わずかな遅れや隙を生む要因になりかねない。生存と戦闘において、身体の起伏は不必要な障害でしかなかった。

「……邪魔だな」

低くつぶやいたその時、扉の外からトントンと静かなノック音が響いた。

「セレフィア。これを入れておきなさい」

アルヴィーノの声とともに滑り込まされたのは、薄くしなやかな白い晒であった。
最初から彼女が直面するであろう課題を見越していたかのような、冷徹なまでの先回り。
セレフィアは一切の迷いなくそれを受け取ると、上半身にきつく晒を巻きつけ、胸元を平らに押し潰した。
その上から再び軍服のボタンを締め上げると、一切の引っかかりもなく、吸い付くように身体に馴染む。
完璧な可動域が確保されたことを確かめ、セレフィアは鏡の中の己に向けて静かに頷いた。
脱衣所から出てきたその佇まいは、先ほどまでの可憐な少女の面影を消し去り、隙のない一人の幼き従者そのものであった。
その姿を見たルミは、ハッと息を飲み、不安そうに眉をひそめてアルヴィーノへと駆け寄った。彼の漆黒の袖をぎゅっと掴み、縋るような眼差しで見上げる。

「アルヴィーノ……本当にあの子を戦わせるの? こんなに小柄で……それに、女の子なのに……」

ルミの胸を占めるのは、せっかく助け出された幼い少女が、再び血と戦火の世界へ引き戻されてしまうことへの切ない心配であった。
アルヴィーノは不安に揺れるルミの肩を抱き寄せると、愛おしそうにその髪を撫でながら、静かに、しかし揺るぎない声で言い聞かせるのだった。

「戦うか、守られるか……それを選ぶのは、セレフィア自身です」

アルヴィーノはルミの頭を優しく撫でながら、言い聞かせるように静かに告げた。
自分たちが押し付けるのではなく、過酷な戦場を生き抜いてきたあの子自身に己の進む道を選択させるのだと。
その言葉に応じるように、かっちりとした軍服を纏ったセレフィアが一歩前へ踏み出した。
平らに晒を巻き、隙なくボタンを留めた胸元。水色の髪を揺らし、一切の迷いもない紫の瞳で二人を見つめる。
その小さくも引き締まった佇まいには、すでに甘やかされるだけの子供の気配は微塵もなかった。

「私は……戦います」

抑え込まれた声の中に、譲れない意志が宿っていた。

「戦場で生まれ、戦場で生き延びてきた私には、それ以外の術がありません。ただ守られるだけの存在に、私の価値はありません……。閣下の駒として、この家を守る刃となることこそが、私の存在価値です」

己の身を危険に晒すことを、まるで当然の義務のように淡々と口にするセレフィア。
その冷徹なまでの覚悟に、ルミは息を呑み、胸を苦しそうに締め付けられた。
血と硝煙の世界から救い出せたと思っていた。
けれど、あの子の心にはまだ、温かな日差しの中で平和に生きる術が分からないのだと悟る。
ルミはギュッと唇をかみ締めると、ゆっくりとセレフィアの前へ歩み寄り、その小さな手をとった。
冷たく強張ったその手を、温かな両手で包み込む。

「……分かったよ。セラの気持ちは、ちゃんと受け止める」

ルミの眼差しには切なさが満ちていたが、もうその選択を遮ることはしなかった。
ただ、溢れんばかりの愛おしさを込めて、その瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

「でもね、無理だけは絶対にしないで。怪我をしたら痛いし、あなたが傷ついたら……俺もアルヴィーノも、すごく悲しいんだからね」

『駒』としてではなく、かけがえのない一人の人間として案じられる温もり。
セレフィアは与えられたその優しさに一瞬だけ紫の瞳を瞬かせたが、やがて短く「……はい」とだけ応え、静かに、けれど深く頭を下げるのだった。
こうして、アルヴィーノによる徹底した指導が始まった。
修練の場は多岐にわたった。
戦場での立ち回りを鍛える武術だけでなく、複雑に交錯する戦況を読み解く戦術論、広範囲に絶大な効果を及ぼす魔術の展開、さらにはあらゆる学術に至るまで、アルヴィーノは一切の妥協なく網羅的な知識を叩き込んでいく。

「……くっ」

時に己の身体能力を超える極限の負荷に、セレフィアは膝をつき、荒い息を吐きながら歯をくいしばった。
苛烈な訓練に苦しみ泥を舐めることもあれば、生まれ持った鋭い感性と冷徹な合理性によって、並の大人すら数年かかる課題を難なくこなしてみせることもある。
アルヴィーノはそんな彼女の姿を、冷ややかな紫の瞳で見極めていた。
どこまで追いつめれば折れるのか、どこまでの負荷ならば糧として吸収できるのか。
冷酷なまでの観察眼で、この幼き駒の「限界値」を精密に測り続けていたのだった。
そして、過酷な一日が終わりを告げる頃。
泥と傷に塗れて私室へと戻ってきたセレフィアの姿を見るや否や、ルミは悲鳴のような声を上げて駆け寄った。

「セラ! ちょっと、また無茶したでしょう!」
「……いいえ。問題ありません」

淡々と応じるセレフィアの膝をすぐさま突かせ、ルミは小さな手から柔らかな光の魔力を溢れさせた。
擦り傷や打撲痕を優しく包み込み、傷口を素早く塞いでいく。
治癒魔法の温もりとともに伝わってくるのは、刺さるような心配と、どこまでも深い慈愛だった。

「問題あるよ! こんなに傷だらけになって……アルヴィーノもスパルタすぎるんだから!」

扉の側に立つ夫へとおかんむりの視線を向けつつ、ルミは手際よく傷を治していく。

「いくらセラが強くても、俺は心配なんだからね。痛いのを我慢して笑うのは禁止!」

膨れっ面で本気で叱ってくれるルミの温かな手。
セレフィアは治癒の光に包まれながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、ただ静かに「……すみません、母上」と小さく首をすくめるのだった。
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