氷の騎士に、白百合の恋を

私室へと戻ってきたルミは、まだ脱衣所から聞こえるかすかな水音に耳を傾けつつ、アルヴィーノの隣へと腰掛けた。
少し落ち着きを取り戻したものの、その瞳には不安と強い関心が入り混じっている。

「アルヴィーノ……あの子の名前はなんて言うの? ご両親や、身元は分かっているの?」

膝の上で手をギュッと握りしめながら尋ねるルミに対し、アルヴィーノは紫の瞳を静かに細め、いつものように淡々と答えを返した。

「ありません」
「……え?」
「名前も、親も、何もありません。あの子自身、己に名前などないと口にしていました。戦災で全てを失った孤児であり、生存のためだけにその身一つで生き残ってきた者です」

アルヴィーノの情を挟まない冷徹な言葉に、ルミは息を呑み、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
名も与えられず、温もりも知らずに戦場で刃を振るっていた少女の境遇を想うと、居ても立っても居られなくなる。
ルミはハッと顔を上げると、アルヴィーノの漆黒の袖口を両手でしっかりと掴んだ。

「じゃあ……! じゃあ、俺があの子のお名前を決めてもいい!?」

水色の瞳をキラキラと輝かせ、真っ直ぐに自分を見つめてくるルミの熱量に、アルヴィーノは一瞬だけ呆気にとられたような顔を見せた。
しかしすぐに唇の端を優しく緩め、愛おしい伴侶の頭をそっと撫でる。

「……構いませんよ。私にとっても、あの子を駒として呼ぶための名が必要です。貴方が良いと思う名を与えてやりなさい」
「本当!? ありがとう、アルヴィーノ!」

アルヴィーノの承諾を得たルミは、パーッと顔を華やがせ、どんな名前が良いだろうかと一生懸命に考え始めるのだった。

「女の子だから、可愛くて素敵なお名前にしてあげたいな」

ルミは顎に手を当て、楽しそうに部屋の中を歩き回りながら、思いついた言葉を次々と口にした。

「リリア……ううん、リリアーヌちゃんと被っちゃうかな。ステラ? アリア? それとも、シャルロット……うーん、どれも捨てがたいなぁ」

コロコロと表情を変えながら花や光を連想させる可愛らしい名を並べるルミの姿を、アルヴィーノは長椅子の背もたれに寄りかかりながら、静かに見つめていた。
その表情には、普段の冷酷な軍師の面影など微塵もなく、ただ愛おしい伴侶を見守る深い慈愛が満ちていた。
楽しそうに名を躍らせるルミを見つめるうち、アルヴィーノの記憶は自然と過去の出来事へと遡っていく。
かつて、ルインが生まれたときのことだ。
当時のルミは、アルヴィーノの立ち場や重圧を思いやり、誰にも頼らず一人でその身にすべてを抱え込んで出産した。
男でありながら奇跡的に命を宿した恐怖や孤独、そして生まれたばかりの子を守らねばならない運命。
それらすべてを背負い、たった一人で「ルイン」という名をつけたのだ。
それなのに関わらず、当時の自分はルミの健気な決意も裏にあった苦悩も何一つ気づこうとせず、ただ「自分は裏切られ、捨てられた」と思い込み、久々に再会したときには酷く冷酷にあたってしまった。
身勝手な怒りで彼を追い詰め、傷つけたあの愚かな自分。
取り返しのつかない罪悪感が、今でも時折、アルヴィーノの胸をわずかに締め付ける。

「……アルヴィーノ、どうしたの?」

思惑に沈んでいたことに気づいたのか、ルミが首をかしげながら顔を覗き込んできた。

「ねえ、これなんてどうかな? 『セレフィア』。綺麗で、ちょっとかっこよくて、あの子に似合うと思うんだけど……アルヴィーノはどう思う?」

水色の瞳を輝かせ、期待に満ちた笑顔で問いかけてくるルミ。
かつての孤独な絶望の中にいたルミは、もうどこにもいない。
自分の目の前で、新しい家族の未来を想い、心から嬉しそうに微笑んでいる。
アルヴィーノは静かに息を吐くと、愛おしさに耐えかねたように手を伸ばし、ルミの頬を優しく撫で上げた。

「……素晴らしい名です、ルミ。その名以上に、あの子に似合うものはありません」
「本当!? よかったぁ、じゃああの子の名前は今日から『セレフィア』ね!」

嬉しそうに破顔するルミを抱き寄せながら、アルヴィーノは心の中で深く静かに誓うのだった。
今度こそ、この温かな日常と、愛する家族を我が命に代えても守り抜いて見せると。
湯殿の扉が静かに開き、髪から湯気をわずかに立ち上らせた少女姿を現した。
濡れた水色の長髪は丁寧に拭われ、その小さな身体にはルミが選んだフリルとレースの愛らしい服が纏われている。
戦災孤児として血と硝煙に塗れていた姿はどこにもなく、佇むその姿はまるで精巧に作られた人形のようであった。
その可憐な姿を目にした瞬間、ルミはパッと顔を輝かせた。

「かわいい……! すごくかわいいよ、アルヴィーノ!」

ルミは手を叩きながらぴょんぴょんと飛び跳ね、弾むような足取りで少女の元へと駆け寄った。
突然近づいてきたルミに対し、少女は身構えることも逃げることもせず、ただ感情の伺えない紫の瞳でじっと彼を見つめている。
ルミは少女の目の前にしゃがみ込むと、満面の笑みを浮かべてその手をとった。

「ねえ、あなたのお名前を決めたんだよ!」
「……名前、ですか」

感情の平板な声で問い返す少女に、ルミは嬉しさを隠しきれない様子で頷いた。

「うん! 『セレフィア』っていうの。綺麗で、かっこよくて、あなたにぴったりだと思って。どうかな……気に入ってくれると嬉しいんだけど」

温かな手から伝わる熱と、自分に向けられる疑いのない愛おしさ。少女は口元の中で、与えられた響きをそっと反芻した。

「……セレフィア」

生まれて初めて自分に与えられた、確かな存在の証明。
少女は短くつぶやくと、まるで命令を可決し、己の役割として新しく定義を上書きしたかのように、静かに頭を下げた。

「承知いたしました。……本日より、私の名前はセレフィアです」

その受け入れ方はどこまでも合理的で感情に乏しいものであったが、目の前で嬉しそうに微笑むルミと、後ろから温かな眼差しを向けるアルヴィーノの存在を、その紫の瞳は確かに捉えていたのだった。
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