氷の騎士に、白百合の恋を
ベッドの上で散々悶絶した数日後、リリアーヌはふと我に返り、真顔で腕を組んだ。
(……冷静に考えてみれば、セレフィアさんから呼ばれるのを待つばかりじゃなくて、リリアから愛称で呼べばいいのでは……?)
自分から「セラ」あるいはもっと親しい愛称で呼べば、きっとセレフィアだって喜んでくれるはず。
それに、どこか義務的になってしまっている呼び方の空気を打破できるかもしれない。
素晴らしい名案を思いついたと、リリアーヌは誇らしげに胸を張った。
だが、次の瞬間、ハッと息を呑む。
(……待って。リリア、セレフィアさんの愛称を知らない……っ!?)
血の気がスーッと引いていく。
セレフィアのことは何でも知っているつもりだった。
氷属性の素晴らしい才能があることも、軍装が好きなことも、虫をあっさり氷漬けにする格好いいところも。
なのに、一番肝心な「愛称」を自分は聞いたことがなかったのだ。
「大変……! 早く調べないと……っ!」
青ざめたリリアーヌは、スカートの裾をぎゅっと掴むと、慌てて部屋を飛び出した。
向かう先はただ一人。
セレフィアを育て、名付けた「母上」であるルミのところだ。
パタパタと廊下を駆け抜け、ルミの部屋のドアを叩く。
「ルミお兄ちゃん……っ! た、大変なのです……っ!!」
息を切らせて飛び込んできたリリアーヌを見て、白いロリータ服に身を包んだルミは、パチパチと水色の目を瞬かせた。
「おや、リリアちゃん? どうしたの、そんなに慌てて?」
「あのね、あのね……っ! リリア、セレフィアさんの愛称を知りたくて……! ルミお兄ちゃんなら絶対に知っていると思って、教わりにきたのです……!」
必死な顔で身を乗り出してくるリリアーヌに、ルミは一瞬ぽかんとした後、全てを察して「ふふっ」と可愛らしく微笑んだ。
「なるほどねぇ! セラの愛称が知りたかったんだ」
「せ、セラ……?」
リリアーヌがその響きを呟くと、ルミは嬉しそうに頷いた。
「そうだよ。俺はセラのことを『セラ』って呼んでるの。……でもね、リリアちゃん」
ルミはいたずらっぽく目を輝かせると、そっとリリアーヌの耳元に顔を近づけ、秘密の作戦を教えるように囁いた。
「『セラ』って呼ぶのもいいけど……リリアちゃんだけの特別な呼び方を考えてあげたら、セラ、もっともっと喜ぶと思うよ?」
「リリアだけの……特別な呼び方……!?」
思いがけないルミのアドバイスに、リリアーヌの翠色の瞳がパッと輝いた。
「うん! 愛称っていうのはね、その人を大切に思う人がつける特別なプレゼントなんだから。リリアちゃんが心を込めて決めた名前なら、セラはきっと宝物みたいに大切にしてくれるよ」
ルミの言葉に、リリアーヌの胸はどきりと大きく高鳴った。
セレフィアに自分だけの特別な名前をつける。
そして、その名前で呼ぶ。
想像しただけで顔が熱くなっていくのを感じながら、リリアーヌは「頑張ります……っ!」と小さく拳を握りしめるのだった。
それからのセレフィアは、密かに首を傾げる日々を送っていた。
演習場からの帰り道でも、庭園でのお散歩の最中でも。
リリアーヌと過ごしていると、彼女からの視線を肌で強く感じるのだ。
ふと視線を向けると、リリアーヌが金髪を揺らしながら、翠色の瞳でこちらの顔をじーっと見つめている。
そして、意を決したように「あのね、セ……」「あの、セレ……っ」と何かを言いかけるのだが、そこまで言ったところで突然顔を真っ赤にし、「あ、やっぱりなんでもありません……っ!」と口を噤んでしまう。
そんなやり取りが、ここ数日何度も繰り返されていた。
(……なぜだろう)
隙のない立ち居振る舞いを崩さないまま、セレフィアは思索を巡らせる。
何か自分に不満なことでもあるのだろうか。
エスコートの手の取り方が強すぎただろうか。それとも、気づかぬうちにまた何か無礼なことや、彼女を困らせるようなことをしてしまったのだろうか。
「……リリア様。何か私に言いたいことでもおありですか?」
痺れを切らし、優しく声をかけて促してみても、リリアーヌは「ふぇっ!?」と鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、両手をバタバタと振るばかりだ。
「な、なんでもありません! なんでもないのです、セレフィアさん……っ!」
そう言って、またしても熟したリンゴのように顔を赤くしてうつむいてしまう。
セレフィアの頭脳では、この妙な反応の理由がまったく弾き出せなかった。
だが、力ずくで問い詰めるような真似は決してしない。それが相手を怯えさせると知っているからだ。
(……分からないな。だが、彼女が自分から言葉にしてくれるのを待つとしよう)
自分の何がリリアーヌを悩ませているのかは分からない。
けれど、一生懸命に何かを伝えようとしてくれていることだけは確かだった。
どこかソワソワと自分を見つめ、何かを懸命に考え込んでいる小さな王女様。
その不器用で愛らしい様子を、セレフィアはいつもの澄んだ紫の瞳で静かに見守りながら、彼女がその口から何を言い出すのかを、ただじっと待ち続けるのだった。
数日間の苦悩の末、リリアーヌはついに決意を固めた。
(色々と新しい愛称を考えたけれど……やっぱりルミお兄ちゃんが呼んでいる『セラ』が一番しっくりくる。……ううん、リリアが呼びたいのは『セラ』なんだわ……!)
一度決めると、もうじっとしてはいられなかった。胸の鼓動をバクバクと鳴らしながら、リリアーヌはすぐさまセレフィアを探しに城の中を走り出した。
探すことしばし、目的地へ向かう回廊で案外あっさりとその姿が見つかった。
図書室の重厚な扉から出てきたセレフィアは、その華奢な身体からは想像もつかないほど分厚い軍事書や歴史書を何冊も抱えていた。
相変わらず隙のない凛々しい佇まいで、水色の髪を揺らしながら歩みを進めている。
(今だ……! 逃げちゃダメ、リリア……っ!)
ぎゅっと両手を握りしめ、リリアーヌは思い切って踏み出した。
そして、遠くからでも届くように、でも心をいっぱいに込めて、彼女の名前を叫ぶように呼んだ。
「……セラっ!!」
ぴたり、とセレフィアの足が止まった。
澄んだ紫の瞳が驚きでかすかに丸くなり、抱えていた分厚い本を落としそうになるのを手元で持ち直す。
不意を突かれたような表情を見せたものの、セレフィアはすぐにいつもの落ち着いた様子を取り戻し、すっとリリアーヌの方へ振り返った。
「……リリア様。何か御用でしょうか」
静かに近寄ってくるセレフィア。
手元に本を抱えたまま、首をほんの少し傾げてリリアーヌの言葉を待つ。
至近距離で「セラ」と呼ばれたという事実に、セレフィアの胸の奥にもかすかな波紋が広がっていた。
けれど彼女はいつもの淡々とした調子で、真面目にリリアーヌの発言を待っている。
しかし、当のリリアーヌは、呼んだ瞬間で思考が完全に停止していた。
「あ……えっと……その……っ」
ただ「愛称で呼ぶ」ということだけに全神経を注ぎ込んでしまったため、肝心の『呼んだ後に何の話をするか』をまったく考えていなかったのだ。
射抜くような澄んだ紫の瞳に見つめられ、冷んやりとした心地よい気配に包まれる。
「あ、あのね、セラ……っ。えっと、リリアは……リリアはね……っ!」
顔がみるみるうちに熟したリンゴのように赤くなっていく。
「はい。何でしょうか、リリア様」
真面目に、そしてどこか優しく理由を促してくるセレフィア。
愛称で呼べた嬉しさと恥ずかしさ、そして何を言えばいいか分からないパニックが限界突破し、リリアーヌは「あぅ……っ」と声にならない声を漏らすと、その場に棒立ちのまま真っ赤な顔で固まってしまうのだった。
何も言葉が出てこず、熟したリンゴのように顔を真っ赤にしたまま黙って固まってしまったリリアーヌ。
セレフィアは抱えた分厚い本を持ち直し、至近距離からその様子を観察していた。
だが、どれだけ待ってもリリアーヌの口から具体的な要件が紡がれる気配はない。
戦術と効率を重んじるセレフィアの思考回路が働き、冷静に現状を判断する。
「……ご要件がないようでしたら、私はこれで失礼いたします。本日中に終えるべき、父上が残された勉学のメニューがまだ残っておりますので」
淡々とそう告げると、セレフィアはリリアーヌに向かって丁寧に一礼した。
そして、一瞬だけそっとその表情を和らげると、静かな足取りで廊下の奥へと去っていった。
遠ざかる軍装の背中を見送りながら、リリアーヌは「あ……」と弱々しい声を漏らすのが精一杯だった。
ぽつんと一人回廊に取り残されたリリアーヌは、緊張とパニックが一気に抜けたことで膝の力が抜け、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「あぅぅ……っ」
豪華なドレスの裾を廊下に散らしたまま、リリアーヌは両手で顔を覆った。
(よ、呼べた……! ついに『セラ』って、ちゃんと言えた……っ!!)
頭の中には、勇気を出して名前を呼んだ瞬間の喜びが激しく打ち寄せていた。
あの一瞬、セレフィアの澄んだ紫の瞳が驚きで少しだけ丸くなったこと。
そして「セラ」という呼びかけを拒むことなく、ごく自然に受け止めてくれたこと。
思い出すだけで胸の奥がギュッと甘く締め付けられ、熱い涙が滲んできそうになるほど嬉しかった。
けれど次の瞬間、同じくらいの大きさの後悔が怒涛のように押し寄せてくる。
(でも……でもっ! 呼んだだけで固まっちゃって、お話しすらまともにできなかったなんて……っ!!)
「セラのバカ……じゃなくて、リリアのバカ……っ!」
へなへなと座り込んだまま、リリアーヌは自分の両頬をぽんぽんと叩いた。
せっかく勇気を出して心の距離を縮められたはずなのに、あまりの恥ずかしさに棒立ちになって追い返してしまうなんて、あまりにも情けなさすぎる。
(絶対……絶対、変な子だって思われちゃったわ……! 勉学のお邪魔までしちゃって……っ)
左手の小指に嵌められた、ピンクゴールドの指輪にそっと触れる。
セラはいつも凛として格好よくて、父上の教えを完璧にこなしているのに、自分は名前をひとつ呼んだだけでパニックになってしまう。
「次は……次はちゃんとお話しするんだから……っ」
喜びと激しい後悔の狭間で身をもがきながら、可憐な王女様は廊下の真ん中で小さく拳を握りしめ、次こそはまともにおしゃべりをしてみせると心に誓うのだった。
(……冷静に考えてみれば、セレフィアさんから呼ばれるのを待つばかりじゃなくて、リリアから愛称で呼べばいいのでは……?)
自分から「セラ」あるいはもっと親しい愛称で呼べば、きっとセレフィアだって喜んでくれるはず。
それに、どこか義務的になってしまっている呼び方の空気を打破できるかもしれない。
素晴らしい名案を思いついたと、リリアーヌは誇らしげに胸を張った。
だが、次の瞬間、ハッと息を呑む。
(……待って。リリア、セレフィアさんの愛称を知らない……っ!?)
血の気がスーッと引いていく。
セレフィアのことは何でも知っているつもりだった。
氷属性の素晴らしい才能があることも、軍装が好きなことも、虫をあっさり氷漬けにする格好いいところも。
なのに、一番肝心な「愛称」を自分は聞いたことがなかったのだ。
「大変……! 早く調べないと……っ!」
青ざめたリリアーヌは、スカートの裾をぎゅっと掴むと、慌てて部屋を飛び出した。
向かう先はただ一人。
セレフィアを育て、名付けた「母上」であるルミのところだ。
パタパタと廊下を駆け抜け、ルミの部屋のドアを叩く。
「ルミお兄ちゃん……っ! た、大変なのです……っ!!」
息を切らせて飛び込んできたリリアーヌを見て、白いロリータ服に身を包んだルミは、パチパチと水色の目を瞬かせた。
「おや、リリアちゃん? どうしたの、そんなに慌てて?」
「あのね、あのね……っ! リリア、セレフィアさんの愛称を知りたくて……! ルミお兄ちゃんなら絶対に知っていると思って、教わりにきたのです……!」
必死な顔で身を乗り出してくるリリアーヌに、ルミは一瞬ぽかんとした後、全てを察して「ふふっ」と可愛らしく微笑んだ。
「なるほどねぇ! セラの愛称が知りたかったんだ」
「せ、セラ……?」
リリアーヌがその響きを呟くと、ルミは嬉しそうに頷いた。
「そうだよ。俺はセラのことを『セラ』って呼んでるの。……でもね、リリアちゃん」
ルミはいたずらっぽく目を輝かせると、そっとリリアーヌの耳元に顔を近づけ、秘密の作戦を教えるように囁いた。
「『セラ』って呼ぶのもいいけど……リリアちゃんだけの特別な呼び方を考えてあげたら、セラ、もっともっと喜ぶと思うよ?」
「リリアだけの……特別な呼び方……!?」
思いがけないルミのアドバイスに、リリアーヌの翠色の瞳がパッと輝いた。
「うん! 愛称っていうのはね、その人を大切に思う人がつける特別なプレゼントなんだから。リリアちゃんが心を込めて決めた名前なら、セラはきっと宝物みたいに大切にしてくれるよ」
ルミの言葉に、リリアーヌの胸はどきりと大きく高鳴った。
セレフィアに自分だけの特別な名前をつける。
そして、その名前で呼ぶ。
想像しただけで顔が熱くなっていくのを感じながら、リリアーヌは「頑張ります……っ!」と小さく拳を握りしめるのだった。
それからのセレフィアは、密かに首を傾げる日々を送っていた。
演習場からの帰り道でも、庭園でのお散歩の最中でも。
リリアーヌと過ごしていると、彼女からの視線を肌で強く感じるのだ。
ふと視線を向けると、リリアーヌが金髪を揺らしながら、翠色の瞳でこちらの顔をじーっと見つめている。
そして、意を決したように「あのね、セ……」「あの、セレ……っ」と何かを言いかけるのだが、そこまで言ったところで突然顔を真っ赤にし、「あ、やっぱりなんでもありません……っ!」と口を噤んでしまう。
そんなやり取りが、ここ数日何度も繰り返されていた。
(……なぜだろう)
隙のない立ち居振る舞いを崩さないまま、セレフィアは思索を巡らせる。
何か自分に不満なことでもあるのだろうか。
エスコートの手の取り方が強すぎただろうか。それとも、気づかぬうちにまた何か無礼なことや、彼女を困らせるようなことをしてしまったのだろうか。
「……リリア様。何か私に言いたいことでもおありですか?」
痺れを切らし、優しく声をかけて促してみても、リリアーヌは「ふぇっ!?」と鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、両手をバタバタと振るばかりだ。
「な、なんでもありません! なんでもないのです、セレフィアさん……っ!」
そう言って、またしても熟したリンゴのように顔を赤くしてうつむいてしまう。
セレフィアの頭脳では、この妙な反応の理由がまったく弾き出せなかった。
だが、力ずくで問い詰めるような真似は決してしない。それが相手を怯えさせると知っているからだ。
(……分からないな。だが、彼女が自分から言葉にしてくれるのを待つとしよう)
自分の何がリリアーヌを悩ませているのかは分からない。
けれど、一生懸命に何かを伝えようとしてくれていることだけは確かだった。
どこかソワソワと自分を見つめ、何かを懸命に考え込んでいる小さな王女様。
その不器用で愛らしい様子を、セレフィアはいつもの澄んだ紫の瞳で静かに見守りながら、彼女がその口から何を言い出すのかを、ただじっと待ち続けるのだった。
数日間の苦悩の末、リリアーヌはついに決意を固めた。
(色々と新しい愛称を考えたけれど……やっぱりルミお兄ちゃんが呼んでいる『セラ』が一番しっくりくる。……ううん、リリアが呼びたいのは『セラ』なんだわ……!)
一度決めると、もうじっとしてはいられなかった。胸の鼓動をバクバクと鳴らしながら、リリアーヌはすぐさまセレフィアを探しに城の中を走り出した。
探すことしばし、目的地へ向かう回廊で案外あっさりとその姿が見つかった。
図書室の重厚な扉から出てきたセレフィアは、その華奢な身体からは想像もつかないほど分厚い軍事書や歴史書を何冊も抱えていた。
相変わらず隙のない凛々しい佇まいで、水色の髪を揺らしながら歩みを進めている。
(今だ……! 逃げちゃダメ、リリア……っ!)
ぎゅっと両手を握りしめ、リリアーヌは思い切って踏み出した。
そして、遠くからでも届くように、でも心をいっぱいに込めて、彼女の名前を叫ぶように呼んだ。
「……セラっ!!」
ぴたり、とセレフィアの足が止まった。
澄んだ紫の瞳が驚きでかすかに丸くなり、抱えていた分厚い本を落としそうになるのを手元で持ち直す。
不意を突かれたような表情を見せたものの、セレフィアはすぐにいつもの落ち着いた様子を取り戻し、すっとリリアーヌの方へ振り返った。
「……リリア様。何か御用でしょうか」
静かに近寄ってくるセレフィア。
手元に本を抱えたまま、首をほんの少し傾げてリリアーヌの言葉を待つ。
至近距離で「セラ」と呼ばれたという事実に、セレフィアの胸の奥にもかすかな波紋が広がっていた。
けれど彼女はいつもの淡々とした調子で、真面目にリリアーヌの発言を待っている。
しかし、当のリリアーヌは、呼んだ瞬間で思考が完全に停止していた。
「あ……えっと……その……っ」
ただ「愛称で呼ぶ」ということだけに全神経を注ぎ込んでしまったため、肝心の『呼んだ後に何の話をするか』をまったく考えていなかったのだ。
射抜くような澄んだ紫の瞳に見つめられ、冷んやりとした心地よい気配に包まれる。
「あ、あのね、セラ……っ。えっと、リリアは……リリアはね……っ!」
顔がみるみるうちに熟したリンゴのように赤くなっていく。
「はい。何でしょうか、リリア様」
真面目に、そしてどこか優しく理由を促してくるセレフィア。
愛称で呼べた嬉しさと恥ずかしさ、そして何を言えばいいか分からないパニックが限界突破し、リリアーヌは「あぅ……っ」と声にならない声を漏らすと、その場に棒立ちのまま真っ赤な顔で固まってしまうのだった。
何も言葉が出てこず、熟したリンゴのように顔を真っ赤にしたまま黙って固まってしまったリリアーヌ。
セレフィアは抱えた分厚い本を持ち直し、至近距離からその様子を観察していた。
だが、どれだけ待ってもリリアーヌの口から具体的な要件が紡がれる気配はない。
戦術と効率を重んじるセレフィアの思考回路が働き、冷静に現状を判断する。
「……ご要件がないようでしたら、私はこれで失礼いたします。本日中に終えるべき、父上が残された勉学のメニューがまだ残っておりますので」
淡々とそう告げると、セレフィアはリリアーヌに向かって丁寧に一礼した。
そして、一瞬だけそっとその表情を和らげると、静かな足取りで廊下の奥へと去っていった。
遠ざかる軍装の背中を見送りながら、リリアーヌは「あ……」と弱々しい声を漏らすのが精一杯だった。
ぽつんと一人回廊に取り残されたリリアーヌは、緊張とパニックが一気に抜けたことで膝の力が抜け、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「あぅぅ……っ」
豪華なドレスの裾を廊下に散らしたまま、リリアーヌは両手で顔を覆った。
(よ、呼べた……! ついに『セラ』って、ちゃんと言えた……っ!!)
頭の中には、勇気を出して名前を呼んだ瞬間の喜びが激しく打ち寄せていた。
あの一瞬、セレフィアの澄んだ紫の瞳が驚きで少しだけ丸くなったこと。
そして「セラ」という呼びかけを拒むことなく、ごく自然に受け止めてくれたこと。
思い出すだけで胸の奥がギュッと甘く締め付けられ、熱い涙が滲んできそうになるほど嬉しかった。
けれど次の瞬間、同じくらいの大きさの後悔が怒涛のように押し寄せてくる。
(でも……でもっ! 呼んだだけで固まっちゃって、お話しすらまともにできなかったなんて……っ!!)
「セラのバカ……じゃなくて、リリアのバカ……っ!」
へなへなと座り込んだまま、リリアーヌは自分の両頬をぽんぽんと叩いた。
せっかく勇気を出して心の距離を縮められたはずなのに、あまりの恥ずかしさに棒立ちになって追い返してしまうなんて、あまりにも情けなさすぎる。
(絶対……絶対、変な子だって思われちゃったわ……! 勉学のお邪魔までしちゃって……っ)
左手の小指に嵌められた、ピンクゴールドの指輪にそっと触れる。
セラはいつも凛として格好よくて、父上の教えを完璧にこなしているのに、自分は名前をひとつ呼んだだけでパニックになってしまう。
「次は……次はちゃんとお話しするんだから……っ」
喜びと激しい後悔の狭間で身をもがきながら、可憐な王女様は廊下の真ん中で小さく拳を握りしめ、次こそはまともにおしゃべりをしてみせると心に誓うのだった。