氷の騎士に、白百合の恋を
母であるルミから愛称の持つ意味を聞かされたセレフィアは、その温かな言葉を自分なりに噛み締めていた。
(愛称とは、相手を特別に思い、心の距離を縮めるためのもの……)
思考を巡らせながら王城の庭園へと歩を進めると、木漏れ日のなかで花々を楽しそうに愛でているリリアーヌの姿が視界に入る。
淡い金色の長い髪が光を受けてキラキラと輝き、その表情は実に穏やかだ。
セレフィアは足をとめ、ほんの少し思案した。
(私から歩み寄り、愛称でお呼びすれば……リリアーヌ様との距離も、より縮まるだろうか)
澄んだ紫の瞳に決意を宿し、セレフィアは無駄のない洗練された足取りでリリアーヌへと近づいていく。
そして、彼女のすぐ後ろで足を止め、静かに声をかけた。
「……リリア様」
「ふぇ……!?」
突然、至近距離から聞こえた凛とした声。
しかも、呼ばれるはずのない愛称をあまりにも綺麗な発音で囁かれ、リリアーヌは跳び上がるようにして勢いよく振り返った。
「セ、セレフィアさ……っ!?」
振り返ったリリアーヌの動きが、ぴたりと止まる。
目の前に立つセレフィアは、いつも通りの隙のない立ち姿で真っ直ぐに自分を見つめている。
だが、その唇から確かに紡がれた「リリア様」という響きが頭の中で何度も反響し、リリアーヌの思考は完全にフリーズしてしまった。
みるみるうちに顔に熱が集まり、その肌はまるで熟したリンゴのように真っ赤に染まっていく。
耳の先端まで赤くしたまま、目を見開いて固まるリリアーヌ。
その劇的な反応を前に、セレフィアは首をかすかに傾けた。
(……固まってしまわれた。顔が酷く赤い。呼吸すら怪しいように見える)
戦術と合理性を重んじるセレフィアの頭脳が、目の前の現象を分析する。
ルミから聞かされた「嬉しくて跳び上がる」という反応とは大きく異なり、相手は完全に打ちのめされたように硬直している。
(親愛を示すどころか、かえって大きな負荷を与えてしまったか。礼節を欠いた呼び方は、やはり早計であり、烏滸がましかったのかもしれない)
己の判断ミスを冷静に省みたセレフィアは、表情一つ変えずにすっと姿勢を正し、いつもの落ち着いたトーンで訂正を入れた。
「申し訳ありません、リリアーヌ様。急にお名前の呼び方を変えるなど、不躾でした。お気に触られたのでしたら、どうかご容赦ください」
再び「リリアーヌ様」と丁寧な呼び方に戻り、真摯に頭を下げるセレフィア。
しかし、当のリリアーヌは心臓が破裂しそうなほどのショックとときめきの過剰摂取で、ただただ真っ赤な顔のまま、声もなく口をパパクと開閉させることしかできないのだった。
まるで疾風のような速さで庭園を駆け抜けたリリアーヌは、そのまま自室のドアを固く閉ざし、ベッドへ倒れ込んでいた。
「っ~~~! リリア様って、リリア様って……っ!!」
クッションに顔をうずめ、足をバタバタと暴れさせる。
セレフィアのあの凛とした声で、至近距離から「リリア様」と囁かれた瞬間が頭から離れない。
思い出すだけで顔から火が出そうで、胸の鼓動は早鐘のように鳴り響いていた。
それからしばらくして、部屋へ戻ってきたアルフレッドとエルザは、ベッドの上で呆然と赤くなった顔を膨らませている娘の姿を目にした。
「どうしたんだい、リリア。また何か……」
アルフレッドが心配そうに声をかけると、リリアーヌはガバッと起き上がり、真っ赤な顔のままあわあわと両手を振って拙い言葉で訴え始めた。
「お、お父様、お母様……っ! セ、セレフィアさんが……あのね、急に『リリア様』って……! リリアのこと、愛称で……っ!」
「おや……」
「セレフィアさんが、リリア様と……?」
身振り手振りを交えながら必死に説明する娘の姿に、アルフレッドとエルザは顔を見合わせ、そっと目元を緩めた。
「そっかそっか。セレフィアさんは、リリアともっと仲良くなりたくてそう呼んでくれたんだね」
「まあ……とても微笑ましいことですこと。セレフィアさんも、あなたに歩み寄ろうとしてくださっているのですね」
二人は優しくうなずき、愛娘の可愛らしいパニックをあたたかく見守る。
しかし、当のリリアーヌはそこでハッと息を呑み、急にキュッと眉を下げてしゅんと肩を落とした。
先ほどまでの赤みは引き、今度はしんみりとした寂しそうな表情でうつむいてしまう。
「で、でもね……リリア、びっくりしすぎて固まっちゃって……。セレフィアさん、リリアが嫌がったって勘違いしちゃったみたいで……」
キュッと自分のドレスの裾を強く握りしめる。
「すぐに『不躾でした』って……また『リリアーヌ様』に戻っちゃったの……」
小指にはめられたピンクゴールドの指輪を寂しそうに撫でながら、リリアーヌは小さな声を漏らした。
本当は嫌だったわけではない。嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになってしまっただけなのだ。
「すごく、嬉しかったのに……。また『リリア様』って呼んでほしいのに……リリア、うまいこと言えなくて……」
せっかくセレフィアが縮めてくれようとした心の距離が、自分のせいで戻ってしまった。
そう思い込んでシュンと落ち込む小さな王女様の頭に、エルザがそっと優しく手を添えて撫でてあげるのだった。
一方、私室へ戻ったセレフィアは、ルミとお茶を囲んでいた。
アルヴィーノは現在、軍事遠征で不在にしているため、部屋の中は少し静かだ。
「……母上。本日、教えていただいた通りに試してみたのですが」
セレフィアは静かに紅茶のカップを置くと、どこか反省したような眼差しでルミを見つめた。
「リリアーヌ様を『リリア様』とお呼びしてみたところ、リリアーヌ様は顔を真っ赤にされ、言葉を失って固まってしまわれました。呼吸すら乱れているご様子でしたので……やはり私のような者がそのような親しげな呼び方をするのは、烏滸がましく不躾であったのだと痛感いたしました」
凛とした表情を崩さないものの、その声にはわずかな落胆が混ざっている。
セレフィアとしては、相手を尊重し、礼儀を尽くしてすぐに「リリアーヌ様」と呼び直したつもりだった。
話を聞いたルミは、目を見開いた後に「あちゃー……」と思わず額を押さえた。
(セラったら、完全に明後日の方向に勘違いしてる……!)
リリアーヌの反応が拒絶や不快感からくるものではなく、セレフィアへのときめきと嬉しさの過剰摂取によるものだと、ルミは瞬時に悟ったのだった。
「セラ、あのね……」
ルミは困ったような、でも微笑ましさを隠しきれない笑みを浮かべ、真面目すぎる娘の顔を覗き込んだ。
「それ、絶対にリリアちゃんは嫌がってたわけじゃないよ。むしろ嬉しすぎて、照れすぎて固まっちゃっただけだと思うな」
「嬉しくて……固まる、ですか?」
思いもよらない解説に、セレフィアは紫の瞳をパチクリとさせて首を傾げた。
「そうそう! 嫌だったんじゃなくて、セラに突然『リリア様』なんて可愛くてかっこよく呼ばれたから、胸がキュンとして頭が真っ白になっちゃったんだよ」
ルミはお腹の前で手を組み、くすくすと笑う。
「だからね、セラ。呼び方を元に戻しちゃったのは、逆にリリアちゃんをシュンとさせちゃったかもしれないよ?」
「……私が、リリアーヌ様を落胆させてしまった……?」
ルミの言葉に、セレフィアはハッと息を呑んだ。
敵を倒し、難解な戦術を解き明かすことには長けているセレフィアだったが、乙女心の機微、ましてや自分に向けられた無自覚な恋心を理解するのは、軍務の何倍も難解な問題のようだった。
(愛称とは、相手を特別に思い、心の距離を縮めるためのもの……)
思考を巡らせながら王城の庭園へと歩を進めると、木漏れ日のなかで花々を楽しそうに愛でているリリアーヌの姿が視界に入る。
淡い金色の長い髪が光を受けてキラキラと輝き、その表情は実に穏やかだ。
セレフィアは足をとめ、ほんの少し思案した。
(私から歩み寄り、愛称でお呼びすれば……リリアーヌ様との距離も、より縮まるだろうか)
澄んだ紫の瞳に決意を宿し、セレフィアは無駄のない洗練された足取りでリリアーヌへと近づいていく。
そして、彼女のすぐ後ろで足を止め、静かに声をかけた。
「……リリア様」
「ふぇ……!?」
突然、至近距離から聞こえた凛とした声。
しかも、呼ばれるはずのない愛称をあまりにも綺麗な発音で囁かれ、リリアーヌは跳び上がるようにして勢いよく振り返った。
「セ、セレフィアさ……っ!?」
振り返ったリリアーヌの動きが、ぴたりと止まる。
目の前に立つセレフィアは、いつも通りの隙のない立ち姿で真っ直ぐに自分を見つめている。
だが、その唇から確かに紡がれた「リリア様」という響きが頭の中で何度も反響し、リリアーヌの思考は完全にフリーズしてしまった。
みるみるうちに顔に熱が集まり、その肌はまるで熟したリンゴのように真っ赤に染まっていく。
耳の先端まで赤くしたまま、目を見開いて固まるリリアーヌ。
その劇的な反応を前に、セレフィアは首をかすかに傾けた。
(……固まってしまわれた。顔が酷く赤い。呼吸すら怪しいように見える)
戦術と合理性を重んじるセレフィアの頭脳が、目の前の現象を分析する。
ルミから聞かされた「嬉しくて跳び上がる」という反応とは大きく異なり、相手は完全に打ちのめされたように硬直している。
(親愛を示すどころか、かえって大きな負荷を与えてしまったか。礼節を欠いた呼び方は、やはり早計であり、烏滸がましかったのかもしれない)
己の判断ミスを冷静に省みたセレフィアは、表情一つ変えずにすっと姿勢を正し、いつもの落ち着いたトーンで訂正を入れた。
「申し訳ありません、リリアーヌ様。急にお名前の呼び方を変えるなど、不躾でした。お気に触られたのでしたら、どうかご容赦ください」
再び「リリアーヌ様」と丁寧な呼び方に戻り、真摯に頭を下げるセレフィア。
しかし、当のリリアーヌは心臓が破裂しそうなほどのショックとときめきの過剰摂取で、ただただ真っ赤な顔のまま、声もなく口をパパクと開閉させることしかできないのだった。
まるで疾風のような速さで庭園を駆け抜けたリリアーヌは、そのまま自室のドアを固く閉ざし、ベッドへ倒れ込んでいた。
「っ~~~! リリア様って、リリア様って……っ!!」
クッションに顔をうずめ、足をバタバタと暴れさせる。
セレフィアのあの凛とした声で、至近距離から「リリア様」と囁かれた瞬間が頭から離れない。
思い出すだけで顔から火が出そうで、胸の鼓動は早鐘のように鳴り響いていた。
それからしばらくして、部屋へ戻ってきたアルフレッドとエルザは、ベッドの上で呆然と赤くなった顔を膨らませている娘の姿を目にした。
「どうしたんだい、リリア。また何か……」
アルフレッドが心配そうに声をかけると、リリアーヌはガバッと起き上がり、真っ赤な顔のままあわあわと両手を振って拙い言葉で訴え始めた。
「お、お父様、お母様……っ! セ、セレフィアさんが……あのね、急に『リリア様』って……! リリアのこと、愛称で……っ!」
「おや……」
「セレフィアさんが、リリア様と……?」
身振り手振りを交えながら必死に説明する娘の姿に、アルフレッドとエルザは顔を見合わせ、そっと目元を緩めた。
「そっかそっか。セレフィアさんは、リリアともっと仲良くなりたくてそう呼んでくれたんだね」
「まあ……とても微笑ましいことですこと。セレフィアさんも、あなたに歩み寄ろうとしてくださっているのですね」
二人は優しくうなずき、愛娘の可愛らしいパニックをあたたかく見守る。
しかし、当のリリアーヌはそこでハッと息を呑み、急にキュッと眉を下げてしゅんと肩を落とした。
先ほどまでの赤みは引き、今度はしんみりとした寂しそうな表情でうつむいてしまう。
「で、でもね……リリア、びっくりしすぎて固まっちゃって……。セレフィアさん、リリアが嫌がったって勘違いしちゃったみたいで……」
キュッと自分のドレスの裾を強く握りしめる。
「すぐに『不躾でした』って……また『リリアーヌ様』に戻っちゃったの……」
小指にはめられたピンクゴールドの指輪を寂しそうに撫でながら、リリアーヌは小さな声を漏らした。
本当は嫌だったわけではない。嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになってしまっただけなのだ。
「すごく、嬉しかったのに……。また『リリア様』って呼んでほしいのに……リリア、うまいこと言えなくて……」
せっかくセレフィアが縮めてくれようとした心の距離が、自分のせいで戻ってしまった。
そう思い込んでシュンと落ち込む小さな王女様の頭に、エルザがそっと優しく手を添えて撫でてあげるのだった。
一方、私室へ戻ったセレフィアは、ルミとお茶を囲んでいた。
アルヴィーノは現在、軍事遠征で不在にしているため、部屋の中は少し静かだ。
「……母上。本日、教えていただいた通りに試してみたのですが」
セレフィアは静かに紅茶のカップを置くと、どこか反省したような眼差しでルミを見つめた。
「リリアーヌ様を『リリア様』とお呼びしてみたところ、リリアーヌ様は顔を真っ赤にされ、言葉を失って固まってしまわれました。呼吸すら乱れているご様子でしたので……やはり私のような者がそのような親しげな呼び方をするのは、烏滸がましく不躾であったのだと痛感いたしました」
凛とした表情を崩さないものの、その声にはわずかな落胆が混ざっている。
セレフィアとしては、相手を尊重し、礼儀を尽くしてすぐに「リリアーヌ様」と呼び直したつもりだった。
話を聞いたルミは、目を見開いた後に「あちゃー……」と思わず額を押さえた。
(セラったら、完全に明後日の方向に勘違いしてる……!)
リリアーヌの反応が拒絶や不快感からくるものではなく、セレフィアへのときめきと嬉しさの過剰摂取によるものだと、ルミは瞬時に悟ったのだった。
「セラ、あのね……」
ルミは困ったような、でも微笑ましさを隠しきれない笑みを浮かべ、真面目すぎる娘の顔を覗き込んだ。
「それ、絶対にリリアちゃんは嫌がってたわけじゃないよ。むしろ嬉しすぎて、照れすぎて固まっちゃっただけだと思うな」
「嬉しくて……固まる、ですか?」
思いもよらない解説に、セレフィアは紫の瞳をパチクリとさせて首を傾げた。
「そうそう! 嫌だったんじゃなくて、セラに突然『リリア様』なんて可愛くてかっこよく呼ばれたから、胸がキュンとして頭が真っ白になっちゃったんだよ」
ルミはお腹の前で手を組み、くすくすと笑う。
「だからね、セラ。呼び方を元に戻しちゃったのは、逆にリリアちゃんをシュンとさせちゃったかもしれないよ?」
「……私が、リリアーヌ様を落胆させてしまった……?」
ルミの言葉に、セレフィアはハッと息を呑んだ。
敵を倒し、難解な戦術を解き明かすことには長けているセレフィアだったが、乙女心の機微、ましてや自分に向けられた無自覚な恋心を理解するのは、軍務の何倍も難解な問題のようだった。