【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを
甘く穏やかだった直轄領での日々に、突如として冷たい影が差し込んだ。
原因は、北方の国境を挟んだ隣国の、不穏かつ急速な軍隊の集結だった。
アルフレッドが懸念していた「他国の影」が、ついに具体的な脅威となって動き出したのだ。
午前中の演習を終えて執務室に戻ってきたアルヴィーノは、漆黒の豪華な軍服のボタンを緩めることもなく、机の上に広げられた巨大な国境地図をじっと見つめていた。
その細く切れ長の紫の瞳は、ここ数日、戦場を統べる冷酷な軍師のそれへと完全に逆戻りしている。
「……不可解ですね。この兵力配置では、我が方の防壁を突破することは不可能なはず。何を企んでいる……」
チェスの駒を地図の上に置きながら、アルヴィーノは滅多に見せない険しい表情で眉をひそめていた。
禁術である極大魔法すら操る彼であっても、敵の意図が見えない現状は、盤面を膠着させる困難な壁となっていた。
完璧な従者として部屋の隅に控えていたルミは、そんなアルヴィーノの姿を、胸が締め付けられるような思いで見つめていた。
手元では、あの夜から少しずつ編み進めていた水色の毛糸に針を通している。
最初は不格好だった編み目も、今では随分と綺麗に揃うようになっていた。
(アルヴィーノ、すごく難しいお顔をしてる……。俺、魔法の使い方も分からないし、チェスも弱いから、お仕事のことは何も助けてあげられないなぁ……)
ルミは心配そうに視線を落とし、ただ、彼のために編んでいるマフラーに、少しでも自分の温もりが宿るようにと祈りながら、静かに手を動かし続けることしかできなかった。
その日を境に、アルヴィーノの帰りが遅い日々が始まった。
敵の動向を探るための斥候の指揮、防衛線の再構築、現地の将官たちとの深夜に及ぶ軍議。
アルヴィーノは「王の冷たき刃」としての重責を完璧に遂行するため、文字通り不眠不休で執務室や前線に張り付き、主寝室へ戻ってくることがほとんどなくなってしまった。
最初の数日は、ルミも「アルヴィーノの邪魔をしちゃいけない」と健気にロッキングチェアで編み物をしながら待っていた。けれど、夜が更けても、日付が変わっても、部屋の扉が開くことはない。
やがてルミは、広いベッドで一人きりで眠る日が多くなった。
王都にいた頃なら、これが普通だったはずだ。
主従の仮面を被り、ただ耐えるだけの夜。
けれど、毎晩のようにアルヴィーノの絶対的な愛に包まれ、彼の体温を感じて眠る悦びを知ってしまったルミの身体は、一人きりのベッドの寒さに耐えられないようになっていた。
(寂しいよ……アルヴィーノ……)
ある夜、時計の針が深夜の二時を回った頃。
暖炉の火も小さくなり、冷気が忍び寄る寝室のベッドの中で、ルミはついに寂しさに押しつぶされてしまった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、誰の温もりも知らなかった頃の、あの暗く冷たい孤独が脳裏をよぎる。
アルヴィーノが言葉でどれだけ「お前だけを選んだ」と言ってくれても、こうして一人きりになると、心の奥底に眠る「置いていかれる恐怖」が、どうしても首をもたげてしまうのだ。
ルミは枕元に手を伸ばした。そこには、アルヴィーノが以前この部屋に脱ぎ捨てていった、漆黒の古い上着が置かれていた。
ルミはその上着をぎゅっと胸元に抱きしめた。
生地からは、上質な香香と、大好きなアルヴィーノの仄かな体温の残痕のような香りがした。
「う、ぅ……ひくっ……」
その香りに触れた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。
ルミはアルヴィーノの服に顔を埋め、水色の長い髪を乱しながら、声を押し殺して泣きじゃくった。
「アルヴィーノ……アルヴィーノ……会いたいよぉ……っ」
泣いたら彼を困らせてしまう。
お仕事で大変な彼に、迷惑をかけたくない。そう思えば思うほど涙は止まらず、ルミは漆黒の生地を涙で濡らしながら、小さな身体を丸めて震えていた。
どれほど絆を深めても、どれほど【伴侶】として結ばれても、ルミにとってアルヴィーノは世界のすべてだった。
彼がいない夜は、ルミにとって光を失った世界と同じだった。
ルミはアルヴィーノの服を強く、強く抱きしめながら、一人きりの冷たいベッドの中で、いつまでも涙を流し続けることしかできなかった。
原因は、北方の国境を挟んだ隣国の、不穏かつ急速な軍隊の集結だった。
アルフレッドが懸念していた「他国の影」が、ついに具体的な脅威となって動き出したのだ。
午前中の演習を終えて執務室に戻ってきたアルヴィーノは、漆黒の豪華な軍服のボタンを緩めることもなく、机の上に広げられた巨大な国境地図をじっと見つめていた。
その細く切れ長の紫の瞳は、ここ数日、戦場を統べる冷酷な軍師のそれへと完全に逆戻りしている。
「……不可解ですね。この兵力配置では、我が方の防壁を突破することは不可能なはず。何を企んでいる……」
チェスの駒を地図の上に置きながら、アルヴィーノは滅多に見せない険しい表情で眉をひそめていた。
禁術である極大魔法すら操る彼であっても、敵の意図が見えない現状は、盤面を膠着させる困難な壁となっていた。
完璧な従者として部屋の隅に控えていたルミは、そんなアルヴィーノの姿を、胸が締め付けられるような思いで見つめていた。
手元では、あの夜から少しずつ編み進めていた水色の毛糸に針を通している。
最初は不格好だった編み目も、今では随分と綺麗に揃うようになっていた。
(アルヴィーノ、すごく難しいお顔をしてる……。俺、魔法の使い方も分からないし、チェスも弱いから、お仕事のことは何も助けてあげられないなぁ……)
ルミは心配そうに視線を落とし、ただ、彼のために編んでいるマフラーに、少しでも自分の温もりが宿るようにと祈りながら、静かに手を動かし続けることしかできなかった。
その日を境に、アルヴィーノの帰りが遅い日々が始まった。
敵の動向を探るための斥候の指揮、防衛線の再構築、現地の将官たちとの深夜に及ぶ軍議。
アルヴィーノは「王の冷たき刃」としての重責を完璧に遂行するため、文字通り不眠不休で執務室や前線に張り付き、主寝室へ戻ってくることがほとんどなくなってしまった。
最初の数日は、ルミも「アルヴィーノの邪魔をしちゃいけない」と健気にロッキングチェアで編み物をしながら待っていた。けれど、夜が更けても、日付が変わっても、部屋の扉が開くことはない。
やがてルミは、広いベッドで一人きりで眠る日が多くなった。
王都にいた頃なら、これが普通だったはずだ。
主従の仮面を被り、ただ耐えるだけの夜。
けれど、毎晩のようにアルヴィーノの絶対的な愛に包まれ、彼の体温を感じて眠る悦びを知ってしまったルミの身体は、一人きりのベッドの寒さに耐えられないようになっていた。
(寂しいよ……アルヴィーノ……)
ある夜、時計の針が深夜の二時を回った頃。
暖炉の火も小さくなり、冷気が忍び寄る寝室のベッドの中で、ルミはついに寂しさに押しつぶされてしまった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、誰の温もりも知らなかった頃の、あの暗く冷たい孤独が脳裏をよぎる。
アルヴィーノが言葉でどれだけ「お前だけを選んだ」と言ってくれても、こうして一人きりになると、心の奥底に眠る「置いていかれる恐怖」が、どうしても首をもたげてしまうのだ。
ルミは枕元に手を伸ばした。そこには、アルヴィーノが以前この部屋に脱ぎ捨てていった、漆黒の古い上着が置かれていた。
ルミはその上着をぎゅっと胸元に抱きしめた。
生地からは、上質な香香と、大好きなアルヴィーノの仄かな体温の残痕のような香りがした。
「う、ぅ……ひくっ……」
その香りに触れた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。
ルミはアルヴィーノの服に顔を埋め、水色の長い髪を乱しながら、声を押し殺して泣きじゃくった。
「アルヴィーノ……アルヴィーノ……会いたいよぉ……っ」
泣いたら彼を困らせてしまう。
お仕事で大変な彼に、迷惑をかけたくない。そう思えば思うほど涙は止まらず、ルミは漆黒の生地を涙で濡らしながら、小さな身体を丸めて震えていた。
どれほど絆を深めても、どれほど【伴侶】として結ばれても、ルミにとってアルヴィーノは世界のすべてだった。
彼がいない夜は、ルミにとって光を失った世界と同じだった。
ルミはアルヴィーノの服を強く、強く抱きしめながら、一人きりの冷たいベッドの中で、いつまでも涙を流し続けることしかできなかった。