【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を

帝国の崩壊、そして全面戦争という苛烈な地獄の幕引きから数日。

ヴァルカニアの灰燼の地を後にし、レイストール王国への帰路を行く王族専用の馬車。
その重厚な車内を支配していたのは、連日の血生臭い狂気とは無縁の、どこまでも静謐で、どこか物悲しい沈黙だった。
車輪が街道の石を踏む規則的な振動と、馬の鼻息だけが、微かに室内に響いている。
長きにわたる緊張の糸が、ようやく、本当に一呼吸つくようにして緩み始めていた。

アルフレッドは、対面の座席に深く背を預け、窓の外を流れる見慣れた故国の緑を見つめていた。
その碧眼には色濃い疲労が刻まれていたが、かつて帝国の謁見の間で見せていた、絶望に押し潰されそうな悲痛さは消え失せている。
新王としての重責、そして外交の破綻という激動の渦を潜り抜けた若き統治者は、自らの国と、そして何より「家族」を守り抜けた事実に、胸の奥で静かに安堵の息を漏らしていた。

アルフレッドの視線が、対面に座る二人へと、そっと向けられる。

そこには、漆黒の軍服のボタンをいくつか外し、いつになく酷使した理性を休ませるように佇むアルヴィーノと、その隣にぴったりと寄り添うルミの姿があった。

ルミの身体には、いまや傷一つ残っていなかった。
アルヴィーノが放った時空属性の禁忌魔導『クロノス・ディストーション』によって、彼の肉体はヴァルカニアの獣どもに触れられる前の、最も清浄な状態へと完全に巻き戻されていた。
バルツァーの爪が食い込んでいた顎の皮膚は滑らかに修復され、引き千切られたはずの水色の長い髪は、元通りの美しい絹糸のような輝きを取り戻して、ルミの華奢な背を優しく覆っている。
紺色の従者服も新調され、かつて人形のように生気を失っていたあの凄惨な少年の面影は、どこにもなかった。

だが――。

「……ルミ」

アルヴィーノの細く切れ長の深い紫の瞳は、まるで、今にも消えてしまいそうな幻影でも見つめるかのように、狂おしいほどの焦燥と心配を孕んでルミの横顔に注がれていた。

「本当に、どこも痛くないですか?……私の魔力が、貴方の身体に悪影響を及ぼしては……? 感覚が鈍くなっている場所や、胸の苦しみは……?……隠さずに、すべて言ってください」

地這うような低い声。
そこには、世界を滅ぼしかけた「魔王」の威厳など微塵もなく、ただ最愛の伴侶を自らの手で傷つけ、失いかけた一人の男の、血を吐くような怯えだけが混じっていた。
手袋を外したアルヴィーノの長い指先が、微かに震えながら、ルミの滑らかな頬へと、恐る恐る触れる。
あの謁見の間で、衆目の目を欺くために自らの拳で叩きのめした、愛しい頬。
その感触を確かめるたび、アルヴィーノの胸の奥では、己への冷酷な嫌悪感と、ルミの心を完全に壊してしまったのではないかという恐怖が、鋭い刃となって今なお心臓を抉り続けていた。
ルミは、頬に添えられた主の大きな手のひらに、自らの小さな手をそっと重ねた。

「大丈夫だよ、アルヴィーノ様」

ルミの声は、あの灰色の要塞で響かせていた無機質な人形のものではなかった。
かつて、二人が私室のなかで深く愛を確かめ合っていた時と同じ、芯のある、どこまでも優しく温かい少年の声だった。
水色の瞳がゆっくりと動き、アルヴィーノの昏く濁った紫の瞳を、正面から真っ直ぐに見つめ返す。

「傷も、痛みもなにもない。アルヴィーノ様の魔法は、俺をとても優しく包んでくれたから。……だから、そんなに哀しい顔をしないで? 俺はここにいるよ。アルヴィーノ様のルミはここにいるよ」

ルミは自らの頭を少し傾け、アルヴィーノの手のひらに甘えるようにすり寄せた。
自らのせいで、アルヴィーノがどれほどの精神的肉刑を己に課しているか、ルミには痛いほど分かっていた。
自分を傷つけた瞬間の、あのバラバラに引き裂かれそうだった魔王の魂。
その傷を癒せるのは、生き残った自分自身の温もりだけなのだと、ルミは理解していた。

「……貴方が、あの場で一切の抵抗を止め、私にその命を委ねた時。私の心臓は止まるかと思ったんですよ」

アルヴィーノは、ルミの細い身体を、引き寄せるようにしてその強固な腕のなかに抱きすくめた。
馬車の中という、兄の目がある場所であることすら、今の彼にはどうでもよかった。
ただ、その腕の中に確かに存在する確かな質量と、柔らかな体温だけが、彼の狂いかけた理性を現実へと繋ぎ止める唯一の錨だった。

「二度と、私の前でされるがままに傷つかないで。……どのような策があろうとも、貴方が血を流す盤面など、私は二度と認めませんから」
「うん。……でも、俺を助けてくれるって、信じてたから怖くなかったよ」

ルミは、アルヴィーノの漆黒の軍服の胸元に顔を埋め、その心地よい衣擦れの音と、ドス黒い殺意の消え去った穏やかな心音を聴きながら、静かに目を閉じた。
そんな二人の様子を、アルフレッドはただ黙って、温かい眼差しで見守っていた。
王としての冷徹な仮面を脱ぎ捨て、ただの「兄」に戻ったアルフレッドの口元に、微かな、本当に心からの笑みがこぼれる。
一時はどうなることかと思った。
弟が完全に理性を失い、世界を敵に回して暴走する未来すら覚悟した。
だが、ルミという少年の持つ、底知れぬ「覚悟」と「信頼」が、魔王の狂気を勝利のための刃へと変え、彼らをこの光ある場所へと連れ戻してくれたのだ。

「……アルヴィーノ、ルミくん」

アルフレッドが、低く、穏やかな声で二人に呼びかけた。

「国に戻ったら、しばらく二人には長い休暇を与えるよ。王城の喧騒から離れて、誰の目も届かない静かな静養地で、ただ二人だけの時間を過ごすといい。……今回の旅で、君たちにはあまりにも重い、残酷な役割を背負わせてしまったからね。これは、僕からの、王としてのせめてもの感謝と、兄としての詫びだ」

アルフレッドの言葉に、アルヴィーノはルミを抱きしめたまま、ただ無言で一度だけ深く頷いた。
馬車は、西日に照らされたレイストール王国の美しい街道を、ただひたすらに進んでいく。
かつて血の海に塗れ、主従という欺瞞の枷のなかで互いを削り合っていた二人の魂は、いま、故国の温かい光のなかで、静かに、そして誰にも侵されぬ強固な絆を以て癒されようとしていた。
長い、本当に長い夜が、ようやく明けたのだ。
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