【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を

凍てつく夜の静寂が、灰色の石壁を伝って客室の隅々まで染み渡っていく。
室内の空気は、言葉通り息が詰まるほどに重苦しかった。
部屋の中央にある古びた木製机。
そこには、連日の交渉で書き殴られた国内外の書状や国境線の地図が乱雑に広げられている。
新王アルフレッドは、その書類の山に視線も向けぬまま、両手で頭を抱え込むようにして深く俯いていた。

「……あいつら、最初から対話などする気はないんだ」

絞り出されたアルフレッドの声は、掠れ、酷く疲弊していた。
どんな窮地でも常に朗らかな笑みを絶やさなかった「王子様」の面影は、今の彼にはない。
あるのは、大国の底知れぬ悪意と不毛な引き延ばし工作の前に、己の理想を削り取られつつある若き統治者の苦悩だけだった。

「条件を一つ呑めば、さらに理不尽な要求を二つ突きつけてくる。……ヴァルカニアは、僕たちの忍耐の限界を測っているんだ。このまま残留期間が長引けば、我が国の国内情勢にも影響が出る。アルヴィーノ、君はどう見る……」

兄の悲痛な問いかけ。
しかし、部屋の壁際に佇むアルヴィーノは、その問いに答えなかった。
漆黒の軍服に身を包んだ「魔王」の視線は、難航する外交の地図などには、端から向いていなかった。
彼の瞳が、狂おしいほどの執着と、胸を掻きむしるような焦燥を孕んで見つめていたのは、ただ一人――部屋の隅、夜の闇に溶けるようにして直立しているルミの姿だった。

(ルミ……っ)

アルヴィーノの手袋に包まれた指先が、怒りと無力感で微かに震える。
そこに佇むルミは、数日前とは完全に「異なって」いた。
紺色のきっちりとした従者服を着た少年の身体からは、人間らしい一切の生気が抜け落ちていた。
かつて、心を通わせた後にあれほど豊かに輝いていた喜怒哀楽の灯火は消え失せ、水色の腰まである長い髪だけが、虚しくその背に垂れている。
何より、その瞳だった。
透き通るような水色をしていたはずの瞳は、今や濁り、奥底の光を完全に失っている。
ただ、主の数歩後ろという「定位置」を虚ろに見据え、呼吸すらしているのか分からないほどに静まり返っていた。
傷だらけの顎の痛みに眉を顰めることすら、今のルミはしない。
昼間に見せつけられた、あの凄惨な練兵場での死体の山と悲鳴。
それが、ルミの心を完全に殻の奥へと閉じ込めてしまったのだ。

救い出したはずだった。
あの非人道的な研究所で、名前のない『実験体』として人形のように扱われていたルミを、自らの手で抱き上げ、光の当たる場所へ連れ出したはずだった。
私室のなかで「アルヴィーノ」と名を呼ばれるたび、その温もりを生涯かけて守ると誓ったはずだった。
なのに、今、自分の目の前にいる伴侶は、かつての、あの絶望の底にいた「人形」そのものに戻ってしまっている。

(私が、この子を再び殺した)

アルヴィーノの胸の奥で、どす黒い歯痒さと己への嫌悪が、刃となって自らの心臓を突き刺していた。
全属性の魔法に長け、禁術すらほぼ無詠唱で操る最強の軍師。
死者すら現世に繋ぎ止める蘇生魔法すら手にした自分が、なぜ、今この瞬間、目の前で心を壊されていく最愛の者を、抱きしめることすらできないのか。
監視の目があるからと己に言い訳し、ルミの流す涙を、その震えを、ただ冷酷に見つめることしかできない己の無力。
政治という名の、目に見えない巨大な怪物の前では、己の最強の武力など、ただの空虚な飾りにすぎなかった。

「……アルヴィーノ、聞いているのか」

アルフレッドが、弟の異常な沈黙に気づき、顔を上げた。
その青い瞳が、壁際に立つ二人の姿を捉え、痛ましさに大きく揺れる。
ルミの、完全に光を失った横顔。
そして、それを今にも血を吐きそうなほどの眼差しで見つめる弟の姿。

「すまない、アルヴィーノ。僕が、君たちをこんな場所に巻き込んだばかりに……」
「……陛下」

アルヴィーノの声は、地底の底から響くような零度だった。

「謝罪は不要です。これは、私たちが選んだ道です。……だが、限界は近い」

アルヴィーノはルミから視線を外さぬまま、その昏い瞳の奥に、冷徹な軍師としての「予測」を冷たく走らせた。

「ヴァルカニアの宰相、バルツァーの動きが怪しい。奴は、私とルミの関係を、単なる『便利な道具』として納得したわけではない。むしろ、こちらの完璧すぎる主従劇に、決定的な『破綻』を作り出そうと躍起になっているはずです」

昼間、練兵場でバルツァーがルミに向けた、あのねっとりとした、残酷な視線。
あれは単なる嫌がらせではない。獲物の首元に牙を立てる位置を探る、捕食者の目だった。

「奴は、近いうちに必ず仕掛けてくるでしょう。ルミを直接肉体的に追い詰めるか、あるいは私の目の前で、私が『魔王』の仮面を脱ぎ捨てて暴走せざるを得ないような、決定的な地獄を」

アルヴィーノの言葉に、アルフレッドの背筋に冷たい戦慄が走る。
もし、バルツァーがルミにこれ以上の暴挙を働けば、アルヴィーノの理性の鎖は完全に弾け飛ぶだろう。
その瞬間、このヴァルカニアの城は、全属性の極大魔法によって地図から消滅し、両国の戦争は避けられないものとなる。
それは、ヴァルカニアにとっても、レイストールにとっても、最悪の結末だった。

「……ルミ」

アルヴィーノは、一歩だけ、ルミへと歩み寄った。
けれど、その距離は【主】と【従者】の境界線を越えることはない。
主が近づいても、ルミの水色の瞳は微動だにしなかった。
焦点の合わない目で、ただアルヴィーノの胸元の階級章を見つめている。
かつて「王子様!」と無邪気に笑い、胸に飛び込んできたあの愛らしい少年の面影は、冷酷な軍国主義の闇に完全に塗り潰されていた。

「三日後の、次回の交渉席……そこが、奴らの仕掛けの舞台になるはずだ」

アルヴィーノは、己の内に荒れ狂う激情を、氷の理数へと変換していく。
最愛の者をこれ以上壊させないために。
失われたその瞳の光を、再びこの手に取り戻すために。
漆黒の軍服を纏う「魔王」は、自らの魂を完全に冷徹な『刃』へと研ぎ澄ませていった。
閉ざされた客室のなか、三人の沈黙はどこまでも深く、重い。
すぐ側に迫る、宰相バルツァーの悍ましい罠の足音。
そして、人形へと戻ってしまったルミを背後に従え、魔王は今、この血生臭い帝国の深淵で、すべてを終わらせるための最期の盤面を描き始めようとしていた。
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