【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を

ヴァルカニア帝国に足を踏み入れてから、瞬く間に数日が経過した。
国境線を巡る交渉は、遅々として進まない。
帝国の提示する条件は常に強硬であり、時に挑発的ですらあった。
こちらの譲歩を引き出すために、意図的に議論を紛糾させ、時間を引き延ばす戦術――それは、新王アルフレッドの精神を確実に削り取っていった。
あてがわれた客室に戻るたび、アルフレッドは机に両肘を突き、深く、重い溜息を漏らす。
朗らかだった碧眼には色濃い疲労の影が刻まれ、対話による解決を信じる彼の善性は、この灰色の要塞のなかで絶え間ない試練に晒されていた。

一方、ヴァルカニアの仕掛けは、外交の席だけには留まらなかった。

「――どうですかな、アルヴィーノ殿下。我が帝国の、誇るべき『力の根源』は」

吹き抜ける寒風が、鼻を突く血と鉄の匂いを運んでくる。
アルヴィーノは、宰相バルツァーの案内に従い、帝国の広大な練兵場を見下ろす回廊に立っていた。
その漆黒の軍服は、極北の冷気を受けてなお、微塵の揺らぎも見せない。
彼の斜め後ろには、あの深い紺色の従者服を纏ったルミが、影のように静かに控えていた。
数日前の傷は、手当てもされぬまま薄黒い痛々しい痕となり、彼の細い顎に残っている。
見下ろす視界の先で繰り広げられていたのは、鍛錬という名の「虐殺」だった。
上半身を剥き出しにした兵士たちが、凍てつく地の上で、互いの肉体を刃で切り刻み合っている。
響くのは、怒号と肉が裂ける鈍い音。
そこには、技術を磨くための手加減など存在しない。
一歩足を踏み外せば、即座に死へと直結する実戦そのものの狂気が、そこらを支配していた。

「我が国において、兵とは国家を動かすための最も頑強な『歯車』。歯車に感情など不要。必要なのは、命令に従い、敵を噛み砕く硬度のみ」

バルツァーは自慢げに顎をしゃくり、練兵場の隅を指差した。
そこには、過酷な鍛錬に耐え切れず、あるいは脱落して命を落とした兵士たちの死体が、まるで不要になった瓦礫のように無造作に積み上げられていた。
冷え切った泥に塗れ、白目を剥いた死体の山。
その傍らでは、わずかな型の手落ち、あるいは動きの鈍さを露呈した者が、上官から容赦のない折檻を受けている。
太い鞭が振るわれるたび、背の肉が弾け飛び、凄惨な悲鳴が回廊にまで届いた。

「ひっ……」

ルミの喉の奥から、押し殺した小さな引き攣りが漏れかけた。
必死に奥歯を噛み締め、それを自らの肺腑へと押し戻す。
目の前に広がる光景は、数日前に聞いた悲鳴、そして、かつて自分が囚われていた研究所の「廃棄場」そのものだった。
使えなくなった実験体を、名前すら呼ばずに処理していたあの地獄。
ルミの透き通るような水色の瞳が、恐怖と嫌悪に激しく揺れる。
紺色の手袋に包まれた両手が、衣服の裾を千切れんばかりに握りしめ、全身が小刻みに震え始めた。

(だめだ……見ちゃだめだ。俺は、人形。何も感じない、ただの、道具……)

自分に言い聞かせる呪文の言葉すら、凄惨な打撲音にかき消されていく。

アルヴィーノの細い瞳が、僅かに細められた。
背後で呼吸を乱すルミの気配。
彼の小さな身体が、過去の恐怖に囚われ、今にも崩れ落ちそうになっていることを、アルヴィーノは皮膚の感覚すべてで察知していた。

(バルツァー……貴様……)

アルヴィーノの脳内で、静かに、けれど狂おしいほどの殺意の炎が燃え上がる。
わざわざこの凄惨な場へ案内した目的など、明白だった。
レイストールの最高軍師であり「魔王」と呼ばれる男の肝を冷やすこと。
そして何より、その背後にいる「お気に入り」と噂される従者を、この圧倒的な暴力の光景で恐怖に陥れ、二人の反応を観察すること。
魔力が、アルヴィーノの体内で爆発的な渦を巻き始める。
今すぐ、この回廊を、この練兵場を、積み上げられた死体もろとも消し飛ばし、バルツァーの頭をその足で踏み潰してやりたかった。
ルミをこの血生臭い空気から連れ去り、誰もいない場所で、その震える身体を飽きるまで抱きしめてやりたかった。
だが、アルヴィーノの顔に張り付いた「魔王」の仮面は、一ミリのひび割れすら起こさなかった。

「……なるほど。実に効率的だ、宰相殿」

アルヴィーノの声は、極北の氷河よりもなお冷酷だった。

「無能な者、耐え切れぬ者をその場で見切り、次を据える。戦場において、これほど合理的なことはない。我が国においても、使えぬ駒は盤上から排除する。甘えを許せば、それだけ全体の進軍が遅れますから」
「おお、やはり『慈悲なき軍師』。我が帝国の思想を、これほど深くご理解いただけるとは、恐悦至極」

バルツァーは満足そうに目を細め、だが、その老獪な視線を今度はルミへとねっとりと向けた。

「では、殿下。貴殿も、その背にいる玩具が『使い物にならぬ』と分かれば、あのように速やかに処分なさるおつもりか? ――なぁ、そこの従者。お前の主は、お前が少しでもミスをすれば、容赦なくあの死体の山へ放り込むと仰っているぞ。……どうだ? 恐ろしいか? 泣いて、主に許しを請うたらどうだ?」

バルツァーの言葉は、ルミの傷ついた心に直接突き刺さる容赦のない楔だった。
ルミは、ぎちぎちと鳴るほどに奥歯を噛み締めた。
恐怖で涙が溢れそうになる。
けれど、それ以上に、自分のせいでアルヴィーノが侮られているという事実が、ルミの魂を激しく激昂させた。

(俺は、アルヴィーノの刃だ。ここで、泣くわけにはいかない……!)

ルミはゆっくりと、震える身体を力ずくで押さえつけた。
そして、涙を堪えるために限界まで見開いた水色の瞳で、真っ直ぐにバルツァーを見据えた。
そこには、先ほどまでの恐怖の残滓を塗りつぶすような、冷徹な「覚悟」の光が宿っていた。

「……滅相もございません、宰相閣下」

ルミの声は、細く、けれど決して揺らがなかった。

「私は、アルヴィーノ様の道具。主の御心のままに動く駒にすぎません。使えなくなれば、捨てられるのは当然の理。そのために、恐れることなど、何もございません」

完璧な、感情を持たぬ人形の言葉。
その言葉を聞いた瞬間、アルヴィーノの漆黒の軍服の袖の中で、爪が手のひらに深く、さらに深く食い込んだ。
己の流す血の味を噛み締めながら、アルヴィーノはバルツァーへと冷たい視線を戻す。

「聞いた通りだ、宰相殿。我が玩具に下らぬ揺さぶりをかけるのは、時間の無駄です。……それよりも、明日の外交の席で、これ以上の不毛な引き延ばしをせぬよう、貴殿の主へ進言しておくことですね。我らは、貴国の無能な兵の死体を見に来たわけではないのですから」

アルヴィーノはそれだけ言い捨てると、バルツァーの返答を待たずに、翻って回廊を歩き出した。
ルミは一瞬の遅れもなく、その漆黒の背中の影へと滑り込み、後に続く。
バルツァーは、去り行く主従の背中を、苦虫を噛み潰したような顔で見送っていた。
完璧な主従。
隙のない、冷酷な魔王と、その人形。
だが、その完璧すぎる欺瞞の裏で、二人の魂がどれほど激しく血を流し、互いを守るために己を削り合っているか――帝国の怪物は、まだ気づいていなかった。
灰色の霧が立ち込めるなか、二人の歩む道は、さらに深く、暗い深淵へと続いていた。
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