【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を
数時間に及ぶ最初の対話が幕を閉じ、レイストール一行は、ヴァルカニア帝国側があてがった客室へと引き揚げることを許された。
案内されたのは、城の西翼にある一画。
やはり無機質な石壁に囲まれた、歓迎とは程遠い冷え切った部屋だった。重厚な鉄の扉が閉まり、背後でカチャリと鍵の閉まる音が響く。
一応の「私室」という形にはなったものの、アルフレッドが馬車内で警告した通り、この部屋の壁の裏、あるいは窓の向こうにどれほどの監視の目が潜んでいるかは分からない。
ここはまだ、敵の胃袋の中だった。
「……一回目でこれか。やはり一筋縄ではいかないね」
アルフレッドが、外套のボタンを外しながら低く呟いた。
その碧眼には、激しい外交交渉による疲労と、それ以上に、一触即発の危機を潜り抜けたことへの張り詰めた緊張感が残っている。
「長期戦になる。先方はこちらの譲歩を引き出すために、意図的に時間を引き延ばす構えだ。少なくとも、数週間はこの息の詰まる城に残留することになるだろう」
「……」
アルヴィーノは応えなかった。
漆黒の軍服を纏ったまま、部屋の中央で峻烈な佇まいを崩さない。
その瞳は、部屋の隅々に隠された『隙』を警戒するように鋭く光っていたが、その意識の全ては、やはり自身の斜め後ろに控える少年に向けられていた。
ルミは、部屋に到着した瞬間から、一切の淀みなく「従者としての業務」を開始していた。
「陛下、アルヴィーノ様。お召し物をお預かりいたします」
その声は、驚くほど平坦で、静かだった。
先ほど謁見の間で、皇帝の目前で乱暴に床に叩きつけられたことなど、まるで無かったかのように。
しかし、その身体は確実に傷ついていた。
きっちりと着込まれた紺色の従者服は、床に擦れた拍子に肘のあたりが薄く擦り切れている。
何より、バルツァーの無礼な指先によって掴み上げられた顎の皮膚は、赤黒く鬱血し、爪が食い込んだ痕から微かに血が滲み出ていた。
乱暴に引きちぎられるように引っ張られた水色の長い髪は、いくつかの毛束が不自然に乱れ、頭皮には今なおズキズキとした激痛が走っているはずだった。
「ルミ、くん……」
アルフレッドが、痛ましさに耐えかねたように声を漏らす。
だが、ルミはそれを遮るように、美しく、完璧な角度でお辞儀をしてみせた。
「お気になさらないでください、陛下。この程度の汚れ、従者の仕事にはつきものです。……すぐに、お着替えの準備と、温かいお茶をご用意いたします。ここの水頭を確認してまいりますので、少々お待ちください」
痛むはずの身体を健気に動かし、ルミは部屋に備え付けられた洗面台へと向かう。
紺色の手袋に包まれた手で重い水瓶を持ち上げ、主たちのために、ただ黙々と、機械のように動き続ける。
顎の傷が衣服の襟に擦れるたび、ルミの端正な眉がピクリと微かに跳ねた。
けれど、彼は決して痛みの声を漏らさない。
溜息一つ、弱音一つ吐き出さない。
(俺は、道具。何があっても、アルヴィーノ様の邪魔をしない、有能な駒……)
ルミは自分自身に冷酷な暗示をかけ続けていた。
ここで自分が傷を気にして痛がれば、アルヴィーノは再びあの狂おしいほどの怒りに身を焦がすことになる。
彼の理性を揺るがし、その「刃」を鈍らせてしまうことだけは、何としても避けなければならなかった。
だからこそ、ルミは傷だらけの身体の悲鳴を無視し、完璧な従者として振る舞うことにその魂の全てを注ぎ込んでいた。
洗面台の前で背を向けるルミの姿を、アルヴィーノはただじっと見つめていた。
その胸のうちは、ドス黒いマグマのような歯痒さと、己への嫌悪感で満たされていた。
攻撃魔法を極め、禁術である極大魔法すら詠唱なしに放てる己が。
ある時を境に、治癒魔法はおろか、死者をも蘇らせる禁術『蘇生魔法』すらその手に掌握したこの私が。
目の前で傷つき、健気に見えない血を流している最愛の伴侶を、癒してやることすらできない。
(今すぐ、その傷を消し去ってやりたい)
アルヴィーノの指先が、軍服の袖の中で微かに動く。
彼の魔力をもってすれば、ルミの顎の鬱血も、頭皮の痛みも、一瞬で、跡形もなく消し去ることができる。
だが、それはできなかった。
もし今、この部屋に仕掛けられた監視の目、壁の隙間から覗く密偵や、魔力感知の結界が、アルヴィーノが従者の傷を『禁術』や高度な治癒魔法で治療したことを察知すれば、すべては破綻する。
「やはり、あの従者は特別だ」と、ヴァルカニアの獣たちに確信を与えることになる。
この残留期間中、どれほどルミが傷つこうとも、アルヴィーノはそれを冷酷に無視し続けなければならない。
それが、この欺瞞の舞台を生き抜くための、絶対のルールだった。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、弟の肩にそっと手を置いた。
その手には、これ以上の魔力の高まりを抑え込もうとする、兄としての、そして王としての制止の力が込められていた。
「……分かっています」
アルヴィーノは低く、地這うような声で応えた。
その紫の瞳は、これ以上ないほどに冷たく、そして昏く濁っている。
彼はゆっくりと、ルミから視線を外した。
最愛の者を守るために、その傷を無視するという最大級の『残酷』を、アルヴィーノは己自身に課した。
「ヴァルカニアの連中がこちらの動揺を誘うために、今後さらに過激な手段に出てくる可能性は高い。……ルミを道具として扱う『芝居』は、これからが本番だ」
「ああ。僕も、君たちを信じるしかない。……絶対に、隙を見せるな」
アルフレッドの言葉に、アルヴィーノは無言で頷く。
部屋の奥では、ルミが用意した冷え切った水で、自身の汚れた顔を静かに拭っていた。
水色の瞳が、鏡に映る自身の傷を見つめる。
心を通わせた後に彼から注がれた、あの溢れるほどの溺愛の温もり。
それをこの胸の奥に深く、深く隠し固め、ルミは再び振り返った。
「お待たせいたしました。陛下、アルヴィーノ様」
完璧な従者の微笑みを湛えた少年と、感情を殺し尽くした魔王。
数週間に及ぶであろう、ヴァルカニア帝国での長い長い夜が、二人の血の滲むような欺瞞を乗せて、静かに更けていく。
案内されたのは、城の西翼にある一画。
やはり無機質な石壁に囲まれた、歓迎とは程遠い冷え切った部屋だった。重厚な鉄の扉が閉まり、背後でカチャリと鍵の閉まる音が響く。
一応の「私室」という形にはなったものの、アルフレッドが馬車内で警告した通り、この部屋の壁の裏、あるいは窓の向こうにどれほどの監視の目が潜んでいるかは分からない。
ここはまだ、敵の胃袋の中だった。
「……一回目でこれか。やはり一筋縄ではいかないね」
アルフレッドが、外套のボタンを外しながら低く呟いた。
その碧眼には、激しい外交交渉による疲労と、それ以上に、一触即発の危機を潜り抜けたことへの張り詰めた緊張感が残っている。
「長期戦になる。先方はこちらの譲歩を引き出すために、意図的に時間を引き延ばす構えだ。少なくとも、数週間はこの息の詰まる城に残留することになるだろう」
「……」
アルヴィーノは応えなかった。
漆黒の軍服を纏ったまま、部屋の中央で峻烈な佇まいを崩さない。
その瞳は、部屋の隅々に隠された『隙』を警戒するように鋭く光っていたが、その意識の全ては、やはり自身の斜め後ろに控える少年に向けられていた。
ルミは、部屋に到着した瞬間から、一切の淀みなく「従者としての業務」を開始していた。
「陛下、アルヴィーノ様。お召し物をお預かりいたします」
その声は、驚くほど平坦で、静かだった。
先ほど謁見の間で、皇帝の目前で乱暴に床に叩きつけられたことなど、まるで無かったかのように。
しかし、その身体は確実に傷ついていた。
きっちりと着込まれた紺色の従者服は、床に擦れた拍子に肘のあたりが薄く擦り切れている。
何より、バルツァーの無礼な指先によって掴み上げられた顎の皮膚は、赤黒く鬱血し、爪が食い込んだ痕から微かに血が滲み出ていた。
乱暴に引きちぎられるように引っ張られた水色の長い髪は、いくつかの毛束が不自然に乱れ、頭皮には今なおズキズキとした激痛が走っているはずだった。
「ルミ、くん……」
アルフレッドが、痛ましさに耐えかねたように声を漏らす。
だが、ルミはそれを遮るように、美しく、完璧な角度でお辞儀をしてみせた。
「お気になさらないでください、陛下。この程度の汚れ、従者の仕事にはつきものです。……すぐに、お着替えの準備と、温かいお茶をご用意いたします。ここの水頭を確認してまいりますので、少々お待ちください」
痛むはずの身体を健気に動かし、ルミは部屋に備え付けられた洗面台へと向かう。
紺色の手袋に包まれた手で重い水瓶を持ち上げ、主たちのために、ただ黙々と、機械のように動き続ける。
顎の傷が衣服の襟に擦れるたび、ルミの端正な眉がピクリと微かに跳ねた。
けれど、彼は決して痛みの声を漏らさない。
溜息一つ、弱音一つ吐き出さない。
(俺は、道具。何があっても、アルヴィーノ様の邪魔をしない、有能な駒……)
ルミは自分自身に冷酷な暗示をかけ続けていた。
ここで自分が傷を気にして痛がれば、アルヴィーノは再びあの狂おしいほどの怒りに身を焦がすことになる。
彼の理性を揺るがし、その「刃」を鈍らせてしまうことだけは、何としても避けなければならなかった。
だからこそ、ルミは傷だらけの身体の悲鳴を無視し、完璧な従者として振る舞うことにその魂の全てを注ぎ込んでいた。
洗面台の前で背を向けるルミの姿を、アルヴィーノはただじっと見つめていた。
その胸のうちは、ドス黒いマグマのような歯痒さと、己への嫌悪感で満たされていた。
攻撃魔法を極め、禁術である極大魔法すら詠唱なしに放てる己が。
ある時を境に、治癒魔法はおろか、死者をも蘇らせる禁術『蘇生魔法』すらその手に掌握したこの私が。
目の前で傷つき、健気に見えない血を流している最愛の伴侶を、癒してやることすらできない。
(今すぐ、その傷を消し去ってやりたい)
アルヴィーノの指先が、軍服の袖の中で微かに動く。
彼の魔力をもってすれば、ルミの顎の鬱血も、頭皮の痛みも、一瞬で、跡形もなく消し去ることができる。
だが、それはできなかった。
もし今、この部屋に仕掛けられた監視の目、壁の隙間から覗く密偵や、魔力感知の結界が、アルヴィーノが従者の傷を『禁術』や高度な治癒魔法で治療したことを察知すれば、すべては破綻する。
「やはり、あの従者は特別だ」と、ヴァルカニアの獣たちに確信を与えることになる。
この残留期間中、どれほどルミが傷つこうとも、アルヴィーノはそれを冷酷に無視し続けなければならない。
それが、この欺瞞の舞台を生き抜くための、絶対のルールだった。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、弟の肩にそっと手を置いた。
その手には、これ以上の魔力の高まりを抑え込もうとする、兄としての、そして王としての制止の力が込められていた。
「……分かっています」
アルヴィーノは低く、地這うような声で応えた。
その紫の瞳は、これ以上ないほどに冷たく、そして昏く濁っている。
彼はゆっくりと、ルミから視線を外した。
最愛の者を守るために、その傷を無視するという最大級の『残酷』を、アルヴィーノは己自身に課した。
「ヴァルカニアの連中がこちらの動揺を誘うために、今後さらに過激な手段に出てくる可能性は高い。……ルミを道具として扱う『芝居』は、これからが本番だ」
「ああ。僕も、君たちを信じるしかない。……絶対に、隙を見せるな」
アルフレッドの言葉に、アルヴィーノは無言で頷く。
部屋の奥では、ルミが用意した冷え切った水で、自身の汚れた顔を静かに拭っていた。
水色の瞳が、鏡に映る自身の傷を見つめる。
心を通わせた後に彼から注がれた、あの溢れるほどの溺愛の温もり。
それをこの胸の奥に深く、深く隠し固め、ルミは再び振り返った。
「お待たせいたしました。陛下、アルヴィーノ様」
完璧な従者の微笑みを湛えた少年と、感情を殺し尽くした魔王。
数週間に及ぶであろう、ヴァルカニア帝国での長い長い夜が、二人の血の滲むような欺瞞を乗せて、静かに更けていく。