【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を

重々しい車輪の音が止まり、馬車の扉が開かれた瞬間、肌を刺すような極北の洗礼が三人を出迎えた。

ヴァルカニア帝国。
そこは、レイストール王国の華やかさとは対極にある、灰色の世界だった。
視界を遮るようにそびえ立つ黒鉄の城壁、規則正しく整列した無機質な兵士たちの鎧。
空気は鉄と硝煙の匂いを微かに孕み、空を覆う厚い雲からは、秋の終わりを告げる冷酷な風が吹き付けている。
歓迎の意など微塵もない。そこにあるのは、圧倒的な「力」による威圧と、徹底された軍事的統制の重圧だけだった。

馬車から最初に降り立ったのは、新王アルフレッド。
その後に、漆黒の豪華な軍服を纏ったアルヴィーノが続く。
そして最後の一歩。ルミは従者服の裾を翻し、音もなく地面へと降り立った。
冷たい風が水色の長い髪を激しく揺らす。
その肌に突き刺さる無数の視線――値踏み、嘲笑、そして微かな嫌悪。
ルミはそれらすべてを無表情で受け流し、すぐにアルヴィーノの斜め後ろ、影が落ちる位置へと滑り込んだ。

三人の前に、一人の男が歩み出てくる。
ヴァルカニア帝国の宰相、バルツァー。
男の顔には深い傷が刻まれ、その眼光は老獪にして酷薄だった。
彼が纏う毛皮の外套が、風に煽られて不気味な音を立てる。

「よくぞおいでくだされた、レイストールの新王アルフレッド陛下。そして……周辺国を震撼させる『慈悲なき軍師』アルヴィーノ殿下」

バルツァーは慇懃無礼な一礼を見せたが、その目は全く笑っていなかった。
挨拶もそこそこに、彼の鋭い視線が、アルヴィーノの背後に控えるルミへと、露骨に移動する。

「ほう……」

バルツァーの口元が、下卑た歪みを描いた。
彼は一歩、あえてアルヴィーノとの距離を詰め、ルミの顔を覗き込むようにして、その顎を指先で乱暴に押し上げた。

「これが、我が国の貴族らの間でも噂になっている……例の『お気に入り』ですか。なるほど、戦場に連れて行くには酷く場違いな、女と見紛うばかりの細い首だ。一丁前の従者服を着せてはいるが、夜の寝床での玩具としては、さぞ有能なのでしょうな」

爪がルミの顎の皮膚に食い込む。
肉体的な痛み以上に、浴びせられた言葉の汚濁が、ルミの心を激しく陵辱した。
かつて研究所で、名前のない『実験体』として扱われていた頃の忌まわしい記憶が、一瞬だけ脳裏を過る。
けれど、ルミは悲鳴を上げることも、拒絶して身をよじることもしなかった。
透き通るような水色の瞳をただ人形のように据え置き、呼吸すら変えずにその無礼を受け入れる。

(耐えろ……。俺がここで取り乱せば、アルヴィーノのすべてが壊れる)

ルミの全身の神経は、恐怖ではなく、隣に立つ最愛の男の「抑制」に集中していた。
バルツァーが侮蔑の言葉を吐いたその瞬間、周囲の空気が、爆発的な質量を持って凍りついた。
アルヴィーノの身体から、無意識に漏れ出た魔圧。
全属性の頂点に立つ者が放つそれは、周囲のヴァルカニア兵たちの息を瞬時に詰まらせ、数歩後退させるほどの威嚇だった。
アルヴィーノの細く切れ長の深い紫の瞳が、限界まで昏く濁る。
目の前の男を、その指先ごと、魂の最奥まで極大魔法で焼き尽くしたいという狂おしいほどの衝動。
自分の命よりも大切な伴侶が、衆目の前で、これほどまでに汚らわしい言葉で値踏みされている。
その事実が、彼の冷徹な理性を内側から激しく殴りつけていた。
漆黒の軍服の袖の中で、手袋に包まれた拳が、骨が軋むほどの音を立てて握りしめられる。

(殺す。今すぐ、ここで、この男を――)

軍師としての、王族としての、そして何より【伴侶】としての矜持が、彼に破壊の衝動を突き動かす。

「アルヴィーノ」

その破滅の秒読みを止めたのは、アルフレッドの、低く、けれど絶対的な威厳を持った声だった。
新王の碧眼が、弟を、そして背後のルミを鋭く射抜く。

『これが、君たちが永遠に添い遂げるために必要な、欺瞞の儀式だ』

馬車の中で交わした兄の言葉が、アルヴィーノの脳裏に冷水を浴びせるように蘇った。
ここで自分が手を出せば、バルツァーの邪推を肯定することになる。
ルミは本当に、己の理性を狂わせる「弱点」なのだと、敵国に最大の武器を与えてしまうことになる。

アルヴィーノは、血が滲むほどに奥歯を噛み締め、爆発寸前だった魔力を、力ずくで己の体内に引き戻した。
その顔に、再び完璧な、そして冷酷な「魔王」の仮面を張り付ける。

「……宰相殿」

アルヴィーノの声は、地底の氷河のように冷たかった。

「我が国の内政について、随分と下らぬ噂を真に受けておられるようだ。レイストールの軍において、能力のない者を身辺に置くことなどあり得ない。この男は、単に私の手足として都合よく動く、替えの利く『道具』にすぎん。……あまり玩具を無駄に弄ばれては困る。壊れれば、また次の人形を調達せねばならなくなるのでね」

アルヴィーノは、バルツァーの手からルミを奪い取るように、その華奢な肩を乱暴に掴み、自身の後ろへと突き放した。
その手にかかった力は、ルミの骨を軋ませるほどに強かった。
けれど、ルミには分かっていた。その強さは、彼が己の激情を抑え込むためのものであり、同時に「これ以上触れさせるな」という、狂おしいほどの独占欲の裏返しなのだと。

「ほう、手厳しい」

バルツァーは、アルヴィーノの冷徹な一瞥に僅かな気圧されを感じながらも、不敵に笑って手を引いた。

「これは失礼いたしました。では、これ以上の立ち話も何ですから、中へ。皇帝陛下がお待ちでございます」

バルツァーを先頭に、重厚な黒鉄の城門が、ギギギと不気味な音を立てて開かれていく。
アルフレッドが真っ直ぐに前を見据えて歩き出し、アルヴィーノがその後に続く。
ルミは、痛む顎を擦ることもせず、主の足跡を正確に辿りながら、帝国の闇へと一歩を踏み出した。
一歩進むごとに、王宮での甘い時間は遠ざかり、冷酷な虚飾の世界が二人を包み込んでいく。
目を合わせることは、まだできない。
けれど、引き剥がされそうになるほどに過酷なこの地で、二人の魂は、主従という偽りの枷でこれまで以上に強く、血を流しながら結びついていた。
敵の牙城へと向かう三人の影が、灰色の冬の光の中に、長く、重く伸びていった。
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