【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を
夜明け前の空は、凍てつくような鉛色をしていた。
朝靄が深く立ち込める王宮の馬車溜まりは、まるでこれから始まる欺瞞の舞台を隠す帳のようだった。
出発の朝。
ルミの姿は、いつもの純白のロリータ服ではなかった。
身に纏っているのは、上質な、けれど一切の装飾を削ぎ落とした、深い紺色の従者服。
首元まで厳格にボタンで留められた仕立ては、彼の華奢な身体を無理に「機能の一部」として型嵌めているように見えた。
腰まであった水色の長い髪は、乱れなく一つに束ねられ、背の後ろで静かに垂れている。
それは、感情を殺し、ただ主の影として生きる「完璧な道具」の佇まいだった。
数歩前を行くアルヴィーノは、いつもと変わらぬ漆黒の軍服に身を包んでいる。
王族の威厳と、軍師としての冷徹さを誇示するその背中は、あまりにも遠い。
二人の間に、言葉はなかった。
それどころか、視線すら一度も交わさない。
ルミは主の斜め後ろ、影が落ちる位置に視線を固定し、アルヴィーノもまた、前方の闇だけを見据えて歩を進める。
ひとたび目を合わせれば、昨日までその奥に揺らめいていた「熱」が漏れ出してしまう。
互いを守るための拒絶が、静かな、けれど決定的な壁となって二人を隔てていた。
やがて見えてきた大型の馬車。
その前では、すでに旅装を整えた新王アルフレッドが、冷徹な統治者の眼差しで待っていた。
「揃ったね。……乗ってくれ」
朗らかな笑みはそこにはない。
アルフレッドの声に促され、アルヴィーノが先に馬車へと乗り込む。
ルミは一瞬だけ、己の立場を弁えるように、最後に馬車へと足をかけた。
馬車が軋んだ音を立てて動き出す。
車輪が石畳を叩く規則的な音だけが、ひどく密閉された空間に響き渡った。
車内の空気は、窒息しそうなほどに重かった。
対面に座るアルフレッドとアルヴィーノ。
そして、アルヴィーノの斜め後ろ、従者としての定位置に浅く腰掛け、気配を消しているルミ。
アルフレッドは膝の上に広げた数枚の書類に目を落としながら、低い声で語り始めた。
「これから向かう『ヴァルカニア帝国』について、今一度頭に入れておいてほしい」
乾いた紙の音が響く。
「ヴァルカニアは、徹底した軍国主義、そして冷酷なまでの階級社会だ。特に彼らは、主従の『秩序』を何よりも重んじる。主が従者に甘えを許すこと、あるいは従者が主に馴れ馴れしくすることを、彼らは『国家の規律を乱す狂い』として最も嫌悪し、蔑む」
アルフレッドの碧眼が、書類から離れてアルヴィーノ、そしてその背後のルミへと向けられた。
「今回の国境線を巡る交渉で、彼らは必ずこちらの『隙』を探してくる。もし、我が国の最高軍師が、一人の従者に特別な感情を抱いていると察知されれば、そこは執拗に攻め立てられるだろう。『情に流される軍師など恐るるに足りず』と侮られれば、交渉の主導権は完全に奪われる」
「……百も承知です、陛下」
アルヴィーノの声は、完全に感情を削ぎ落まれた氷のようだった。
細く切れ長の深い紫の瞳は、対面の兄だけを見据えている。
その視線のほんの数センチ横にいる最愛の伴侶には、決して焦点を合わせない。
「ヴァルカニアの現皇帝は、冷徹な合理主義者。彼が求めているのは、対等に渡り合える『怪物』か、あるいは踏み潰せる『弱者』か、そのどちらかだ。私が奴らの前で見せるべき姿は、前者でしかない」
「そうだ。だからこそ、念を押させてもらう」
アルフレッドは声をさらに一段、沈めた。それは警告であり、残酷な宣告でもあった。
「帝国に滞在している間――いや、この馬車が一歩国境を越えたその瞬間から、ルミくんを【伴侶】として扱うことは一切許されない。公の場はもちろん、どれほど厳重に遮断された客室のなかであっても、だ。壁に耳があると思え。常に誰かの視線があると思え。アルヴィーノ、君はルミくんを、ただの『便利な道具』として、時には無価値な『駒』として扱わねばならない」
その言葉が車内に落とされた瞬間、ルミは膝の上でそっと拳を握りしめた。
紺色の手袋に包まれた指先が、微かに震える。
一切、許されない。
どれほど夜が深く、誰も見ていないと思える場所であっても、彼を「アルヴィーノ」と呼ぶことはできない。
その胸に抱きしめられることも、冷えた指先を温め合うこともできない。
ただの、一介の便利な従者。
名前すら、まともに呼ばれないかもしれない。
(わかっていたこと。これは、俺たちが一緒にいるための戦いなんだから)
ルミは心の中で何度もそう唱え、奥歯を噛み締めて俯いた。
水色の瞳が、痛みに耐えるように細められる。
アルヴィーノの横顔は、まるで酷薄な仮面そのものだった。
だが、その軍服の袖口、きつく握られた手袋の奥で、どれほど激しい懊悩が渦巻いているか、ルミには痛いほど分かった。
魔法を極めた男が、今、己の感情を完全に封殺する禁術を己自身にかけているかのように、その輪郭は強張っている。
己の冷徹さを証明するために、最も愛する者を衆目の前で貶めなければならない。
その精神的肉刑とも言える苦痛を、アルヴィーノは無言で受け入れていた。
「ルミくん」
アルフレッドが、今度はルミの名を呼んだ。
「君にとっても、酷な旅になる。ヴァルカニアの貴族たちは、他国の、それも素性不詳の従者に対して、信じられないほど不躾で残酷な言葉を投げかけてくるだろう。それに耐え、なおかつアルヴィーノの『冷酷な駒』であり続けられるかい」
ルミはゆっくりと顔を上げた。
恐怖も、悲しみも、すべてを削ぎ落とした、透き通るような水色の瞳。
「はい、陛下。……俺は、アルヴィーノ様の従者です。主の御心のままに動く、ただの道具。それ以外のものは、この身にはありません」
淀みなく紡がれたその声は、かつて研究所で心を殺していた頃の人形のような響きを、微かに孕んでいた。
その声を聞いた瞬間、アルヴィーノの眉間が一瞬だけ、ほんの一薄皮だけ歪んだのを、ルミは見逃さなかった。
主の胸を切り裂くような歯痒さが、車内の沈黙をさらに重くしていく。
「……結構」
アルフレッドは短くそう言うと、再び書類へと視線を戻した。
馬車は北へとひた走る。
窓の外の景色は、徐々に秋の彩りを失い、荒涼とした冬の気配を帯び始めていた。
互いの距離は、手を伸ばせば届くほどに近い。
なのに、二人の間には、世界で最も遠い【主】と【従者】という名の深淵が横たわっていた。
冷酷な魔王と、感情を持たぬ人形。
その完璧な偽りの仮面劇の舞台へ向けて、馬車は容赦なく進んでいく。
朝靄が深く立ち込める王宮の馬車溜まりは、まるでこれから始まる欺瞞の舞台を隠す帳のようだった。
出発の朝。
ルミの姿は、いつもの純白のロリータ服ではなかった。
身に纏っているのは、上質な、けれど一切の装飾を削ぎ落とした、深い紺色の従者服。
首元まで厳格にボタンで留められた仕立ては、彼の華奢な身体を無理に「機能の一部」として型嵌めているように見えた。
腰まであった水色の長い髪は、乱れなく一つに束ねられ、背の後ろで静かに垂れている。
それは、感情を殺し、ただ主の影として生きる「完璧な道具」の佇まいだった。
数歩前を行くアルヴィーノは、いつもと変わらぬ漆黒の軍服に身を包んでいる。
王族の威厳と、軍師としての冷徹さを誇示するその背中は、あまりにも遠い。
二人の間に、言葉はなかった。
それどころか、視線すら一度も交わさない。
ルミは主の斜め後ろ、影が落ちる位置に視線を固定し、アルヴィーノもまた、前方の闇だけを見据えて歩を進める。
ひとたび目を合わせれば、昨日までその奥に揺らめいていた「熱」が漏れ出してしまう。
互いを守るための拒絶が、静かな、けれど決定的な壁となって二人を隔てていた。
やがて見えてきた大型の馬車。
その前では、すでに旅装を整えた新王アルフレッドが、冷徹な統治者の眼差しで待っていた。
「揃ったね。……乗ってくれ」
朗らかな笑みはそこにはない。
アルフレッドの声に促され、アルヴィーノが先に馬車へと乗り込む。
ルミは一瞬だけ、己の立場を弁えるように、最後に馬車へと足をかけた。
馬車が軋んだ音を立てて動き出す。
車輪が石畳を叩く規則的な音だけが、ひどく密閉された空間に響き渡った。
車内の空気は、窒息しそうなほどに重かった。
対面に座るアルフレッドとアルヴィーノ。
そして、アルヴィーノの斜め後ろ、従者としての定位置に浅く腰掛け、気配を消しているルミ。
アルフレッドは膝の上に広げた数枚の書類に目を落としながら、低い声で語り始めた。
「これから向かう『ヴァルカニア帝国』について、今一度頭に入れておいてほしい」
乾いた紙の音が響く。
「ヴァルカニアは、徹底した軍国主義、そして冷酷なまでの階級社会だ。特に彼らは、主従の『秩序』を何よりも重んじる。主が従者に甘えを許すこと、あるいは従者が主に馴れ馴れしくすることを、彼らは『国家の規律を乱す狂い』として最も嫌悪し、蔑む」
アルフレッドの碧眼が、書類から離れてアルヴィーノ、そしてその背後のルミへと向けられた。
「今回の国境線を巡る交渉で、彼らは必ずこちらの『隙』を探してくる。もし、我が国の最高軍師が、一人の従者に特別な感情を抱いていると察知されれば、そこは執拗に攻め立てられるだろう。『情に流される軍師など恐るるに足りず』と侮られれば、交渉の主導権は完全に奪われる」
「……百も承知です、陛下」
アルヴィーノの声は、完全に感情を削ぎ落まれた氷のようだった。
細く切れ長の深い紫の瞳は、対面の兄だけを見据えている。
その視線のほんの数センチ横にいる最愛の伴侶には、決して焦点を合わせない。
「ヴァルカニアの現皇帝は、冷徹な合理主義者。彼が求めているのは、対等に渡り合える『怪物』か、あるいは踏み潰せる『弱者』か、そのどちらかだ。私が奴らの前で見せるべき姿は、前者でしかない」
「そうだ。だからこそ、念を押させてもらう」
アルフレッドは声をさらに一段、沈めた。それは警告であり、残酷な宣告でもあった。
「帝国に滞在している間――いや、この馬車が一歩国境を越えたその瞬間から、ルミくんを【伴侶】として扱うことは一切許されない。公の場はもちろん、どれほど厳重に遮断された客室のなかであっても、だ。壁に耳があると思え。常に誰かの視線があると思え。アルヴィーノ、君はルミくんを、ただの『便利な道具』として、時には無価値な『駒』として扱わねばならない」
その言葉が車内に落とされた瞬間、ルミは膝の上でそっと拳を握りしめた。
紺色の手袋に包まれた指先が、微かに震える。
一切、許されない。
どれほど夜が深く、誰も見ていないと思える場所であっても、彼を「アルヴィーノ」と呼ぶことはできない。
その胸に抱きしめられることも、冷えた指先を温め合うこともできない。
ただの、一介の便利な従者。
名前すら、まともに呼ばれないかもしれない。
(わかっていたこと。これは、俺たちが一緒にいるための戦いなんだから)
ルミは心の中で何度もそう唱え、奥歯を噛み締めて俯いた。
水色の瞳が、痛みに耐えるように細められる。
アルヴィーノの横顔は、まるで酷薄な仮面そのものだった。
だが、その軍服の袖口、きつく握られた手袋の奥で、どれほど激しい懊悩が渦巻いているか、ルミには痛いほど分かった。
魔法を極めた男が、今、己の感情を完全に封殺する禁術を己自身にかけているかのように、その輪郭は強張っている。
己の冷徹さを証明するために、最も愛する者を衆目の前で貶めなければならない。
その精神的肉刑とも言える苦痛を、アルヴィーノは無言で受け入れていた。
「ルミくん」
アルフレッドが、今度はルミの名を呼んだ。
「君にとっても、酷な旅になる。ヴァルカニアの貴族たちは、他国の、それも素性不詳の従者に対して、信じられないほど不躾で残酷な言葉を投げかけてくるだろう。それに耐え、なおかつアルヴィーノの『冷酷な駒』であり続けられるかい」
ルミはゆっくりと顔を上げた。
恐怖も、悲しみも、すべてを削ぎ落とした、透き通るような水色の瞳。
「はい、陛下。……俺は、アルヴィーノ様の従者です。主の御心のままに動く、ただの道具。それ以外のものは、この身にはありません」
淀みなく紡がれたその声は、かつて研究所で心を殺していた頃の人形のような響きを、微かに孕んでいた。
その声を聞いた瞬間、アルヴィーノの眉間が一瞬だけ、ほんの一薄皮だけ歪んだのを、ルミは見逃さなかった。
主の胸を切り裂くような歯痒さが、車内の沈黙をさらに重くしていく。
「……結構」
アルフレッドは短くそう言うと、再び書類へと視線を戻した。
馬車は北へとひた走る。
窓の外の景色は、徐々に秋の彩りを失い、荒涼とした冬の気配を帯び始めていた。
互いの距離は、手を伸ばせば届くほどに近い。
なのに、二人の間には、世界で最も遠い【主】と【従者】という名の深淵が横たわっていた。
冷酷な魔王と、感情を持たぬ人形。
その完璧な偽りの仮面劇の舞台へ向けて、馬車は容赦なく進んでいく。