【主従欺瞞編】主従の欺瞞に、世界で一番甘い秘密を
新王アルフレッドの執務室を辞し、深く長い回廊を渡る間、二人の間に言葉はなかった。
コツコツと響くアルヴィーノの軍靴の音と、それに遅れまいと続くルミの微かな足音だけが、冷えた空気の中に溶けていく。
王宮の窓から差し込む月光は冷酷なまでに白く、二人の間に横たわる【主従】という名の距離を、残酷に浮き彫りにしていた。
私室の重厚な扉が閉まり、完全に遮断された空間になった瞬間、世界は深い沈黙に支配された。
いつもなら、扉が閉まればアルヴィーノはすぐに軍服の手袋を脱ぎ捨て、ルミをその腕の中へと引き寄せる。
ルミもまた、張り詰めていた緊張を解き、甘えるようにその胸に顔を埋める。
それが、二人が命を繋ぎ止めるための、夜の儀式だった。
しかし、今夜は違った。
アルヴィーノは部屋の中央に佇んだまま、微動だにしない。
漆黒の軍服に包まれた背中は、まるで精緻な彫刻のように硬直していた。
ルミはその数歩後ろで、ただ床の一点を見つめていた。
水色の長い髪が、微かに震える肩にまとわりつく。
「……ごめんね、アルヴィーノ」
沈黙を破ったのは、ルミの掠れた声だった。
「様」を外した、二人だけの秘密の呼び方。
けれど、その響きには甘えなど微塵もなく、ただ暗い後悔だけが滲んでいた。
「俺のせいで……俺が、アルヴィーノの完璧な仮面に傷をつけた。アルヴィーノがどれほど冷徹な軍師として振る舞っていても、俺が傍にいるせいで、周りにそんな汚い邪推をさせる隙を与えてしまったんだ。研究所から救ってもらって、それからもずっと、あなたに守られてばかりなのに……俺は、また足を引っ張って……」
ルミは拳をきつく握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
けれど、胸の奥を掻きむしるような自責の念に比べれば、そんな痛みは何の慰めにもならなかった。
自分がもっと完璧な人形でいられれば。
彼に向ける視線に、一瞬でも熱を孕ませたりしなければ。
「……違う」
低く、押し殺したような声が室内に響いた。
アルヴィーノがゆっくりと振り返る。
その深い紫の瞳には、ルミに対する怒りなど微塵もなかった。
そこにあるのは、底知れぬ懊悩と、己の無力さに対する激しい憤怒だった。
「責めるべきは貴方ではない、ルミ。……私だ」
アルヴィーノは一歩、ルミへと足を進めたが、その手は虚空で止まった。
いつもなら躊躇いなく触れることができるその白い頬が、今は酷く遠く感じられた。
「貴方を道具として扱い、使えないものはその場で見切りをつける……。それが周辺国から『魔王』と恐れられる私の、唯一無二の合理だったはずだ。だが、今の私はどうだ。貴方が政治の波風に晒されることを恐れ、貴方を守るために、あまりにも多くの『隙』を晒してしまった。縁談を断り続けたのも、貴方を誰の目にも触れさせたくなかった私の独占欲だ。……私に、軍師を名乗る資格などない」
アルヴィーノの声音には、いつもの理知的な響きはなかった。
三日後、他国の、そして自国の貴族たちの衆目が集まる戦場で、彼はルミを再び『駒』として扱わねばならない。
かつて、心を殺して耐えていた研究所の日々から救い出したはずの彼を、今度は自分自身の手で、再び冷酷に踏みつけ、傷つけなければならないのだ。
使い道のない無能な道具。
いつでも替えのきく、哀れな玩具。
周囲にそう信じ込ませるために、アルヴィーノはルミに冷徹な言葉を浴びせ、突き放し、その心を衆目の前で切り刻む必要がある。
(私が……この手で、再びこの子を地獄へ落とすのか)
全属性の魔法を極め、禁術すら容易く操る「魔王」が、目の前にいる最愛の伴侶一人を、傷つけずに守ることすらできない。
王命という絶対の枷、政治という目に見えない怪物を前に、己の振るう強大な武力がどれほど無価値なものであるかを、アルヴィーノは嫌というほど突きつけられていた。
その歯痒さに、アルヴィーノは奥歯を噛み締めた。
口内に、微かな鉄の味が広がる。
二人の間に流れる空気は、どこまでも重く、痛ましかった。
お互いを想うがゆえに、自分を責め、お互いの傷口を広げ合っている。
ルミは、アルヴィーノの紫の瞳の奥にある絶望を見てとった。
冷酷非情な彼が、自分のためにここまで苦しんでいる。
これ以上、彼にこんな顔をさせてはいけない。
三日後の本番を前に、二人の絆がこの懊悩で摩耗してしまえば、それこそアルフレッドの提示した「欺瞞の儀式」は失敗に終わるだろう。
(強くならなきゃ。俺は、アルヴィーノの『隠し刃』の、さらに影になるんだから)
ルミは深く息を吸い込み、固めていた拳を解いた。
そして、消え入りそうな、けれど確かな光を宿した瞳でアルヴィーノを見上げた。
「……ねえ、アルヴィーノ」
ルミは一歩、アルヴィーノへと近づいた。
その小さな身体から、いつもの無邪気な、けれどどこか切ない我が儘がこぼれ落ちそうになる。
「隣国に向かうまでの、この三日間だけでいいから。……三日間だけは、俺の我が儘を……」
『俺を、たくさん抱きしめて』
『愛してると、何度も言って』
『ただのルミとして、側にいさせて』
喉元まで出かかったその言葉を、ルミは辛うじて飲み込んだ。
言えば、アルヴィーノは間違いなく自分を壊れるほどに抱きしめるだろう。
そしてその温もりは、三日後に始まる「冷酷な主従劇」の最中、自分たちを余計に苦しめる劇薬になる。
甘えを知ってしまった心で、あの冷たい軍師の瞳に耐えられる自信が、今のルミにはなかった。
これ以上ここにいれば、張り詰めた糸が切れて、泣き崩れてしまう。
「……ううん、なんでもない」
ルミは無理に微笑みを作った。
水色の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる前に、くるりと背を向ける。
「三日後のために、俺、完璧な『道具の作法』をおさらいしてくる。……おやすみなさい、アルヴィーノ様」
あえて最後に「様」をつけ、ルミは振り返ることなく、逃げるように私室の扉へと走った。
パタン、と静かな音を立てて扉が閉まり、ルミの気配が完全に消える。
残された広い部屋の中、アルヴィーノはぽつんと佇んでいた。
伸ばしかけた右手は、行き場を失って虚空を彷徨い、やがて力なく落とされる。
「……ルミ」
主の呟きは、誰に届くこともなく、秋の夜の静寂の中に深く沈んでいった。
三日後に迫る「魔王」と「人形」の舞台劇。
その幕が上がるまでのカウントダウンが、静かに、そして容赦なく始まっていた。
コツコツと響くアルヴィーノの軍靴の音と、それに遅れまいと続くルミの微かな足音だけが、冷えた空気の中に溶けていく。
王宮の窓から差し込む月光は冷酷なまでに白く、二人の間に横たわる【主従】という名の距離を、残酷に浮き彫りにしていた。
私室の重厚な扉が閉まり、完全に遮断された空間になった瞬間、世界は深い沈黙に支配された。
いつもなら、扉が閉まればアルヴィーノはすぐに軍服の手袋を脱ぎ捨て、ルミをその腕の中へと引き寄せる。
ルミもまた、張り詰めていた緊張を解き、甘えるようにその胸に顔を埋める。
それが、二人が命を繋ぎ止めるための、夜の儀式だった。
しかし、今夜は違った。
アルヴィーノは部屋の中央に佇んだまま、微動だにしない。
漆黒の軍服に包まれた背中は、まるで精緻な彫刻のように硬直していた。
ルミはその数歩後ろで、ただ床の一点を見つめていた。
水色の長い髪が、微かに震える肩にまとわりつく。
「……ごめんね、アルヴィーノ」
沈黙を破ったのは、ルミの掠れた声だった。
「様」を外した、二人だけの秘密の呼び方。
けれど、その響きには甘えなど微塵もなく、ただ暗い後悔だけが滲んでいた。
「俺のせいで……俺が、アルヴィーノの完璧な仮面に傷をつけた。アルヴィーノがどれほど冷徹な軍師として振る舞っていても、俺が傍にいるせいで、周りにそんな汚い邪推をさせる隙を与えてしまったんだ。研究所から救ってもらって、それからもずっと、あなたに守られてばかりなのに……俺は、また足を引っ張って……」
ルミは拳をきつく握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
けれど、胸の奥を掻きむしるような自責の念に比べれば、そんな痛みは何の慰めにもならなかった。
自分がもっと完璧な人形でいられれば。
彼に向ける視線に、一瞬でも熱を孕ませたりしなければ。
「……違う」
低く、押し殺したような声が室内に響いた。
アルヴィーノがゆっくりと振り返る。
その深い紫の瞳には、ルミに対する怒りなど微塵もなかった。
そこにあるのは、底知れぬ懊悩と、己の無力さに対する激しい憤怒だった。
「責めるべきは貴方ではない、ルミ。……私だ」
アルヴィーノは一歩、ルミへと足を進めたが、その手は虚空で止まった。
いつもなら躊躇いなく触れることができるその白い頬が、今は酷く遠く感じられた。
「貴方を道具として扱い、使えないものはその場で見切りをつける……。それが周辺国から『魔王』と恐れられる私の、唯一無二の合理だったはずだ。だが、今の私はどうだ。貴方が政治の波風に晒されることを恐れ、貴方を守るために、あまりにも多くの『隙』を晒してしまった。縁談を断り続けたのも、貴方を誰の目にも触れさせたくなかった私の独占欲だ。……私に、軍師を名乗る資格などない」
アルヴィーノの声音には、いつもの理知的な響きはなかった。
三日後、他国の、そして自国の貴族たちの衆目が集まる戦場で、彼はルミを再び『駒』として扱わねばならない。
かつて、心を殺して耐えていた研究所の日々から救い出したはずの彼を、今度は自分自身の手で、再び冷酷に踏みつけ、傷つけなければならないのだ。
使い道のない無能な道具。
いつでも替えのきく、哀れな玩具。
周囲にそう信じ込ませるために、アルヴィーノはルミに冷徹な言葉を浴びせ、突き放し、その心を衆目の前で切り刻む必要がある。
(私が……この手で、再びこの子を地獄へ落とすのか)
全属性の魔法を極め、禁術すら容易く操る「魔王」が、目の前にいる最愛の伴侶一人を、傷つけずに守ることすらできない。
王命という絶対の枷、政治という目に見えない怪物を前に、己の振るう強大な武力がどれほど無価値なものであるかを、アルヴィーノは嫌というほど突きつけられていた。
その歯痒さに、アルヴィーノは奥歯を噛み締めた。
口内に、微かな鉄の味が広がる。
二人の間に流れる空気は、どこまでも重く、痛ましかった。
お互いを想うがゆえに、自分を責め、お互いの傷口を広げ合っている。
ルミは、アルヴィーノの紫の瞳の奥にある絶望を見てとった。
冷酷非情な彼が、自分のためにここまで苦しんでいる。
これ以上、彼にこんな顔をさせてはいけない。
三日後の本番を前に、二人の絆がこの懊悩で摩耗してしまえば、それこそアルフレッドの提示した「欺瞞の儀式」は失敗に終わるだろう。
(強くならなきゃ。俺は、アルヴィーノの『隠し刃』の、さらに影になるんだから)
ルミは深く息を吸い込み、固めていた拳を解いた。
そして、消え入りそうな、けれど確かな光を宿した瞳でアルヴィーノを見上げた。
「……ねえ、アルヴィーノ」
ルミは一歩、アルヴィーノへと近づいた。
その小さな身体から、いつもの無邪気な、けれどどこか切ない我が儘がこぼれ落ちそうになる。
「隣国に向かうまでの、この三日間だけでいいから。……三日間だけは、俺の我が儘を……」
『俺を、たくさん抱きしめて』
『愛してると、何度も言って』
『ただのルミとして、側にいさせて』
喉元まで出かかったその言葉を、ルミは辛うじて飲み込んだ。
言えば、アルヴィーノは間違いなく自分を壊れるほどに抱きしめるだろう。
そしてその温もりは、三日後に始まる「冷酷な主従劇」の最中、自分たちを余計に苦しめる劇薬になる。
甘えを知ってしまった心で、あの冷たい軍師の瞳に耐えられる自信が、今のルミにはなかった。
これ以上ここにいれば、張り詰めた糸が切れて、泣き崩れてしまう。
「……ううん、なんでもない」
ルミは無理に微笑みを作った。
水色の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる前に、くるりと背を向ける。
「三日後のために、俺、完璧な『道具の作法』をおさらいしてくる。……おやすみなさい、アルヴィーノ様」
あえて最後に「様」をつけ、ルミは振り返ることなく、逃げるように私室の扉へと走った。
パタン、と静かな音を立てて扉が閉まり、ルミの気配が完全に消える。
残された広い部屋の中、アルヴィーノはぽつんと佇んでいた。
伸ばしかけた右手は、行き場を失って虚空を彷徨い、やがて力なく落とされる。
「……ルミ」
主の呟きは、誰に届くこともなく、秋の夜の静寂の中に深く沈んでいった。
三日後に迫る「魔王」と「人形」の舞台劇。
その幕が上がるまでのカウントダウンが、静かに、そして容赦なく始まっていた。