【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を
室内の光景は、凄惨の一言に尽きた。
二人が最後に放った魔力の衝突により、高級な調度品は木屑と化して散らばり、頑強なはずの黒檀の机は中央から無残に叩き割れている。
だが、そんな破壊の嵐の中でさえ、二人の天才が十数日間にわたって処理し続けた「三分の二の書類」だけは、アルフレッドが展開した保護魔法の残滓によって、奇跡的に無傷のまま床へ整然と積み重なっていた。
そして、すべての大喧嘩の発端となった、あの一枚の羊皮紙。
ルミの処遇と独立治外法権を巡る「最後の一枚」は二人が放った極大魔法の余波をまともに受け、床の上で、一片の未練も残さず黒い灰へと変わり果てていた。
アルフレッドは、その灰の山を見つめ、力なく首を振った。
「……灰、か。文字通り、無効だな」
「フン……。あの子が望まないというのであれば、あのような紙切れ、最初から無価値です」
アルヴィーノはルミを抱きすくめたまま、冷ややかに、しかしどこか諦念を孕んだ口調で言い放った。
ルミは彼の胸に顔を埋めたまま、「もう喧嘩しちゃダメだからね」と蚊の鳴くような声で呟き、アルヴィーノの服の裾をぎゅっと握り直す。
その健気な姿に、魔王はただ静かに目を細めるだけだった。
エルザは乱れたプラチナブロンドの髪をそっと整え、未だ緊張の解けない兵長へ、淑女としての深い感謝の礼を捧げた。
「兵長、お見事でした。貴方の勇気がなければ、私たちは今頃、崩壊した国の瓦礫の下にいたことでしょう。心から感謝いたします」
「勿体なきお言葉にございます、新王妃殿下……」
兵長は深く頭を垂れた。その顔には、ようやく悪夢から目覚めたという安堵が広がっていた。
終わったのだ。
十数日間に及ぶ、あの底なしの無限地獄。
互いの精神を削り合い、言葉を刃にして刺し合い、最終的には力で殴り合った、あの忌まわしい書類整理が、ついに終わったのだ。
残された三分の二の書類は、すでに決済が済んでいる。
これを明日、役人たちに引き渡せば、この王宮に、そして二人の私室に、待ち望んだ平穏が戻るはずだった。
誰もがそう確信し、重苦しい沈黙の中に、確かな安息の気配が満ちようとした、その時だった。
コンコン、と。
不自然なほど静かに、しかし冷酷な明確さを持って、修復されかけた二重扉が叩かれた。
室内が、一瞬にして凍りつく。
兵長が緊張した面持ちで扉を開けると、そこには、真っ青な顔をした内政官の長が、何十枚もの「真新しい」羊皮紙の束を抱えて立っていた。
内政官は室内の破壊状況に一瞬だけ目を剥いたが、すぐに震える声で、絶望の伝令を口にした。
「……ほ、報告いたします。新王陛下、ならびに第二王子殿下」
内政官は、抱えた書類の束を、壊れた机の辛うじて平らな部分へと、恐る恐る置いた。
「先ほど、我が国の天候観測魔導具、ならびに北方領の守備隊より、緊急の魔導通信が入りました。……北方演習広場において、原因不明の大規模な『超常天候災害』および『局地的大地陥没』が発生。広範囲にわたる軍事施設の損壊、並びに魔力の異常奔流による周辺結界の崩壊が確認された、とのことです」
内政官の声が、壊滅的な静寂の中に響き渡る。
「つきましては、被害状況の精査、周辺領民への避難誘導の法的決裁、国境守備隊の緊急再編成、および――この未曾有の事態における、莫大な『復興予算の財政出動承認手続き』のため、大至急、両殿下の裁可が必要となります。……ここに、その初期報告書と決裁書類をお持ちいたしました」
「な……」
アルフレッドの碧眼が、点。と見開かれた。
スープの温もりで回復したばかりの彼の精神が、今、確実な音を立てて崩壊していくのが分かった。
原因不明の大規模災害。
そんなものは存在しない。
今さっき、自分と弟が、己の意地とストレスのすべてをぶつけて暴れまわった「大喧嘩の爪痕」そのものである。
自分たちが犯した破壊の代償が、今、新たな『書類の山』という姿に変えて、自分たちの元へ返ってきたのだ。
アルヴィーノの顔からも、完全に血の気が引いていた。
懐にあるルミの手紙の温もりも、今度ばかりは彼を救いきれなかった。
終わったはずの地獄の、第二階層の扉が、今、目の前で轟音を立てて開かれたのだ。
この新たな書類を片付けない限り、彼はルミと共に、あの甘やかで濃密な私室のベッドへと戻ることは決して許されない。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、地獄の底から響くような声で、弟の名を呼んだ。
その碧眼には、先ほどの戦闘時以上の、狂気的な絶望が宿っている。
「……あぁ、分かっています、陛下」
アルヴィーノの紫色の瞳もまた、昏い虚無に染まっていた。
二人は言葉を失ったまま、新しく積み上げられた書類の山を見つめた。
それは、自分たちが撒いた種が産み落とした、新たなる無限地獄の始まりだった。
エルザはそっと目元を押さえ、深い、深い溜息を一つ吐き出した。
ルミは主の腕の中で、「……また、お仕事なの?」と悲しそうに首を傾げている。
壊れた部屋の中、夜明け前の冷たい静寂が再び戻ってくる。
二人の王子は、震える手でそれぞれ羽ペンを拾い上げた。
終わることのない苦痛、自業自得という名の鎖に縛られながら、彼らはまた、カリカリと羊皮紙を引っ掻く、あの不快な音を、静かに響かせ始めるのだった。
二人が最後に放った魔力の衝突により、高級な調度品は木屑と化して散らばり、頑強なはずの黒檀の机は中央から無残に叩き割れている。
だが、そんな破壊の嵐の中でさえ、二人の天才が十数日間にわたって処理し続けた「三分の二の書類」だけは、アルフレッドが展開した保護魔法の残滓によって、奇跡的に無傷のまま床へ整然と積み重なっていた。
そして、すべての大喧嘩の発端となった、あの一枚の羊皮紙。
ルミの処遇と独立治外法権を巡る「最後の一枚」は二人が放った極大魔法の余波をまともに受け、床の上で、一片の未練も残さず黒い灰へと変わり果てていた。
アルフレッドは、その灰の山を見つめ、力なく首を振った。
「……灰、か。文字通り、無効だな」
「フン……。あの子が望まないというのであれば、あのような紙切れ、最初から無価値です」
アルヴィーノはルミを抱きすくめたまま、冷ややかに、しかしどこか諦念を孕んだ口調で言い放った。
ルミは彼の胸に顔を埋めたまま、「もう喧嘩しちゃダメだからね」と蚊の鳴くような声で呟き、アルヴィーノの服の裾をぎゅっと握り直す。
その健気な姿に、魔王はただ静かに目を細めるだけだった。
エルザは乱れたプラチナブロンドの髪をそっと整え、未だ緊張の解けない兵長へ、淑女としての深い感謝の礼を捧げた。
「兵長、お見事でした。貴方の勇気がなければ、私たちは今頃、崩壊した国の瓦礫の下にいたことでしょう。心から感謝いたします」
「勿体なきお言葉にございます、新王妃殿下……」
兵長は深く頭を垂れた。その顔には、ようやく悪夢から目覚めたという安堵が広がっていた。
終わったのだ。
十数日間に及ぶ、あの底なしの無限地獄。
互いの精神を削り合い、言葉を刃にして刺し合い、最終的には力で殴り合った、あの忌まわしい書類整理が、ついに終わったのだ。
残された三分の二の書類は、すでに決済が済んでいる。
これを明日、役人たちに引き渡せば、この王宮に、そして二人の私室に、待ち望んだ平穏が戻るはずだった。
誰もがそう確信し、重苦しい沈黙の中に、確かな安息の気配が満ちようとした、その時だった。
コンコン、と。
不自然なほど静かに、しかし冷酷な明確さを持って、修復されかけた二重扉が叩かれた。
室内が、一瞬にして凍りつく。
兵長が緊張した面持ちで扉を開けると、そこには、真っ青な顔をした内政官の長が、何十枚もの「真新しい」羊皮紙の束を抱えて立っていた。
内政官は室内の破壊状況に一瞬だけ目を剥いたが、すぐに震える声で、絶望の伝令を口にした。
「……ほ、報告いたします。新王陛下、ならびに第二王子殿下」
内政官は、抱えた書類の束を、壊れた机の辛うじて平らな部分へと、恐る恐る置いた。
「先ほど、我が国の天候観測魔導具、ならびに北方領の守備隊より、緊急の魔導通信が入りました。……北方演習広場において、原因不明の大規模な『超常天候災害』および『局地的大地陥没』が発生。広範囲にわたる軍事施設の損壊、並びに魔力の異常奔流による周辺結界の崩壊が確認された、とのことです」
内政官の声が、壊滅的な静寂の中に響き渡る。
「つきましては、被害状況の精査、周辺領民への避難誘導の法的決裁、国境守備隊の緊急再編成、および――この未曾有の事態における、莫大な『復興予算の財政出動承認手続き』のため、大至急、両殿下の裁可が必要となります。……ここに、その初期報告書と決裁書類をお持ちいたしました」
「な……」
アルフレッドの碧眼が、点。と見開かれた。
スープの温もりで回復したばかりの彼の精神が、今、確実な音を立てて崩壊していくのが分かった。
原因不明の大規模災害。
そんなものは存在しない。
今さっき、自分と弟が、己の意地とストレスのすべてをぶつけて暴れまわった「大喧嘩の爪痕」そのものである。
自分たちが犯した破壊の代償が、今、新たな『書類の山』という姿に変えて、自分たちの元へ返ってきたのだ。
アルヴィーノの顔からも、完全に血の気が引いていた。
懐にあるルミの手紙の温もりも、今度ばかりは彼を救いきれなかった。
終わったはずの地獄の、第二階層の扉が、今、目の前で轟音を立てて開かれたのだ。
この新たな書類を片付けない限り、彼はルミと共に、あの甘やかで濃密な私室のベッドへと戻ることは決して許されない。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、地獄の底から響くような声で、弟の名を呼んだ。
その碧眼には、先ほどの戦闘時以上の、狂気的な絶望が宿っている。
「……あぁ、分かっています、陛下」
アルヴィーノの紫色の瞳もまた、昏い虚無に染まっていた。
二人は言葉を失ったまま、新しく積み上げられた書類の山を見つめた。
それは、自分たちが撒いた種が産み落とした、新たなる無限地獄の始まりだった。
エルザはそっと目元を押さえ、深い、深い溜息を一つ吐き出した。
ルミは主の腕の中で、「……また、お仕事なの?」と悲しそうに首を傾げている。
壊れた部屋の中、夜明け前の冷たい静寂が再び戻ってくる。
二人の王子は、震える手でそれぞれ羽ペンを拾い上げた。
終わることのない苦痛、自業自得という名の鎖に縛られながら、彼らはまた、カリカリと羊皮紙を引っ掻く、あの不快な音を、静かに響かせ始めるのだった。