【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を

北方の荒涼たる演習広場は、文字通りの焦熱地獄と化していた。
切り裂かれた大地、天を衝く氷の槍、そして全てを焼き尽くさんとする光と闇の奔流。
その中心で、アルヴィーノとアルフレッドは、互いに血を流し、衣服をボロ切れのように裂きながら、なおも次なる破滅の術式を構築しようとしていた。

「終わりだ、アルフレッド……! 貴様を肉体ごと圧殺し、その署名をもぎ取ってくれる!」
「黙れ、アルヴィーノ! お前の独善に、この国を、ルミくんを渡すわけにはいかない!!」

二人の魔力が最高潮に達し、荒野のすべてが光と影に呑まれようとしたその瞬間。
空間の歪みと共に、三人の影がその戦場の中央へと滑り込んだ。

「止めなさいッ!!」

轟々たる風の音を突き破り、響き渡ったのは、エルザの、これまでにないほどに烈しい叱責の声だった。

「エルザ……!?」
「ルミ……!?」

激突する直前だった二人の王子の動きが、完全に凍りついた。
アルフレッドの碧眼が驚愕に開かれ、アルヴィーノの紫色の瞳が、最愛の子の姿を捉えて激しく揺れる。
近衛兵長は二人を守るように盾を構えたが、放たれる凄まじい魔圧の前に、吐血してその場に膝を突いた。

「何をしているのです、アルフレッド様……!」

エルザは白百合のような佇まいのまま、しかし新緑の瞳に怒りと深い悲しみを湛えて、満身創痍の新王へ歩み寄った。
彼女の放つ絶対的な淑女の威厳が、アルフレッドの狂気を冷徹に削ぎ落としていく。

「貴方は一国の王です。優しさだけでは解決できないと知り、強さを身につけたはず。ですが、その力をこのような私闘で、実の弟に対して振るうことが、貴方の目指した『王の姿』なのですか! 私は、そのような思慮を欠いた殿下をお慕いしたわけではありません!」
「エルザ……私は、国を……お前を護るために……」

アルフレッドの聖剣が、カタカタと音を立てて消滅していく。
最愛の婚約者からの、魂を射抜くような叱責。
誰にでも優しい彼女が、自分のためにこれほどまでに怒り、悲しんでいる。
新王の頑なだった心が、その言葉によって急速に解かされ、罪悪感へと変わっていった。

そして、アルヴィーノの前には、小柄な少年が立ちはだかっていた。
ルミは、涙で濡れた水色の瞳で、漆黒の軍服を血に染めた魔王を真っ直ぐに見つめていた。

「アルヴィーノ……」
「ルミ、なぜここに……。危険だ、下がりなさい。私は、貴方を恒久的に私のものにするために、この男を――」
「アルフレッド様と喧嘩しないでって、お手紙に書いたじゃん!!」

ルミの叫びが、荒野に響き渡った。
無邪気な彼の口から放たれた、悲痛な拒絶。

「俺、アルヴィーノが頑張ってくれてるの、嬉しかった。だから、かっこよくお出迎えしたくて、お菓子も作って、手紙も書いて、マフラーも編んで待ってたんだよ……! なのに、どうしてこんなところで殺し合いなんかしてるの……!?」

ルミはアルヴィーノの胸に飛び込み、その破れた軍服を小さな手で強く 強く掴んだ。

「アルヴィーノの馬鹿……! 俺は、アルヴィーノが無事でお部屋に帰ってきてくれれば、それだけでいいんだよ……! 他にはなんにもいらないの!」

感情を剥き出しの涙と共にぶつけるルミ。
その瞬間、アルヴィーノを支配していた昏い執着と狂気は、跡形もなく霧散した。
全属性の魔法を操る魔王が、ただ一人の少年の涙と抱擁によって、完全に無力化されたのだ。

「……ルミ」

アルヴィーノの長い腕が、崩れ落ちるようにルミの小柄な身体を抱きしめた。
手編みのマフラーの温もりを思い出す。
自分がどれほど愚かな暴走をしていたかを、その小さな温もりが教えていた。

「すみません……。ルミ……」

荒野を満たしていた理不尽な魔圧が、完全に消失した。
残されたのは、静かな夜風と、満身創痍の兄弟、そして彼らをそれぞれの愛で繋ぎ止めた、二人の大切な存在の気配だけだった。
エルザは深く息を吐き、アルフレッドの元へ歩み寄ってその傷ついた身体を優しく支えた。
ルミはアルヴィーノの腕の中で、まだしゃくり上げている。
最後の一枚の書類を巡る、国をも揺るがした壮大な兄弟喧嘩は、最も手強い「首輪」たちの登場によって、唐突に、そして絶対的な終焉を迎えたのだった。

凍てつく北方の夜風が、静まり返った荒野を吹き抜けていく。
天を衝くようにそそり立っていた氷の槍は、主たるアルヴィーノの魔力の霧散と共に、カサカサと虚しい音を立てて細かい塵へと崩壊し始めていた。
抉り取られ、焦土と化した赤茶けた大地だけが、先ほどまでここで繰り広げられていた神話さながらの激闘の凄まじさを物語っている。

「……帰りましょう、皆様」

満身創痍の身体を引きずり、血を拭った近衛兵長が、静かに、しかし重々しく告げた。
その手には、王宮へと繋がる最後の転移魔導具が握られている。
アルフレッドはエルザの柔らかな肩に身を預け、痛む脇腹を押さえながら、深く、深く息を吐き出した。
白い王族服は破れ、随所に血痕が滲んでいる。王としての、そして兄としての意地を通しきったその碧眼には、激しい闘争の終わりによる、深い虚脱感が漂っていた。

一方のアルヴィーノもまた、漆黒の軍服を無残に引き裂かれ、その美しい顔にいくつもの擦過傷を刻んでいた。
しかし、その長い腕の中には、今や安堵の涙を流し尽くして小さく丸まっているルミの身体が、確かに存在している。

「……あぁ。戻ろう」

アルヴィーノの低く掠れた声には、先ほどまでの魔王の狂気は微塵もなかった。
最愛の子をこれ以上寒空の下に晒しておくわけにはいかない。その一心のみが、彼の身体を動かしていた。

兵長が魔導具を発動させると、空間が再び歪み、五人の姿を光の粒子が包み込む。
轟音の轟く荒野から、一瞬にして、あの見慣れた――そして、数多の破壊の痕跡が残る――新王の執務室へと、彼らは帰還を果たした。
9/11ページ
スキ