【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を

――幽閉が始まってから十数日。

新王の執務室を満たす空気は、もはや腐食を始めたかのように重く、息苦しかった。
かつて部屋の天井に届かんばかりに聳え立っていた書類の山は、二人の狂気的な執念によって、ようやく「残り三分の一」というところまで削り取られていた。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。

最低限の睡眠と、喉を潤すだけの水。
それだけで文字通り心身を削り続けてきたアルヴィーノとアルフレッドは、とうに限界を超えていた。
羽ペンを握る指先は微かに震え、互いを見据える瞳には、言葉にできないほどの濃厚な疲弊と、極限のイライラが澱みのように溜まっている。

ガチャン、と重々しい鉄の錠が外れる音が、静まり返った回廊に響いた。
扉が数寸だけ開く。
だが、現れたのは食事を運ぶ給仕ではなく、死線を潜り抜けたような顔をした近衛兵の長だった。
彼は室内に満ちる、肌を刺すような魔圧に一瞬だけ身を竦ませたが、意を決して二人の王族の前に歩み出た。

「……両殿下、ならびに新王陛下。外の者より、物品の差し入れが届いております」

アルヴィーノは視線すら上げず、冷酷に言い放つ。

「失せろ。そのような雑務に割く時間はない」
「……お待ちください、アルヴィーノ様。これは、ルミ様より直接託されたものにございます」

ルミ、という名が兵士の口から漏れた瞬間、アルヴィーノの動きが完全に止まった。
細く切れ長の深い紫色の瞳が、鋭く兵士を射抜く。
兵士が恭しく差し出したのは、一通の小さな羊皮紙だった。
拙い筆跡で書かれた、しかし見紛うはずもない、最愛の仔からの手紙。

アルヴィーノは奪い取るようにそれを受け取り、乱暴に封を切った。

『アルヴィーノへ。
おしごと、がんばってくれてありがとう。マルタとおかしをつくったり、むらさきいろのまふらーをあんだりして、ちゃんと待ってるよ。だい好きだよ。だから、けんかしないで、はやくかえってきてね。
ルミより』

オブラートに包まれることのない、真っ直ぐで激しい愛の言葉。
それを視界に収めた瞬間、アルヴィーノの周囲に渦巻いていた凍てつくような殺気が、微かに和らいだ。
一週間以上もの間、あの仔の温もりに触れられず、狂気の一歩手前まで摩耗していた彼の精神の底に、至上の癒やしが染み渡っていく。
乾ききった心臓が、確かに熱を取り戻す。

(……待っていなさい、ルミ。すぐに帰る)

手紙を懐の最も肌に近い場所へと仕舞い込み、アルヴィーノは深く息を吐き出した。
ほんのわずか、しかし決定的なほどに、魔王の生命力が回復を遂げていた。

「――陛下、こちらにはエルザ様より、温かなスープが届いております」

兵士は続けて、アルフレッドの前に銀の器を置いた。
アルフレッドの正妃であり、いまや彼の最大の理解者となったエルザからの差し入れだった。
蓋を開ければ、まだ仄かな温もりを残した、滋味溢れるスープの香りが広がる。
王としての重責と弟との果てしない闘争で胃の腑を焼き切られていたアルフレッドは、震える手で木匙を取り、スープを口に運んだ。

「……美味いな」

温かい液体が身体に染み渡るにつれ、血走っていたアルフレッドの碧眼に、本来の聡明な光が戻っていく。
彼女もまた、この過酷な戦いを知り、陰ながら夫を支えようとしていたのだ。
新王としての孤独な戦いの中に、確かな救いがもたらされた瞬間だった。

「……よし。終わらせるぞ、アルヴィーノ」
「言われずとも。これ以上、あの仔を待たせるつもりはありません」

少しだけ回復した二人の天才は、凄まじい速度で残りの書類を精査し始めた。
互いへの不満を淡々とぶつけ合い、修正と裁可を繰り返す。終わりなき無限地獄の出口が、ようやく見え始めていた。

三分の二が終わり、残りはわずか。
数十枚、十数枚、そして――ついに、最後の一枚となった。

夜が最も深まる時間。室内の蝋燭が短くなり、微かに揺れる。
その最後の一枚の羊皮紙を、アルフレッドが静かに読み上げ、そして、その顔を凍りつかせた。

「……これは、認められない」

アルフレッドの声は低く、そしてこれまでにないほどに頑なだった。

「『代理国王期間中における、ルミの専属給仕職への永久固定、ならびに王宮内における第二王子私室の完全な独立治外法権化』……。アルヴィーノ、お前、どさくさに紛れて何を盛り込んでいる」
「言葉通りの意味ですが」

アルヴィーノは平然と、しかし紫の瞳に昏い光を宿して兄を見返した。

「あの仔は私の伴侶だ。表舞台で主従を演じるにしても、これ以上の令嬢たちの釣書や、無能な貴族どもがルミに近付く環境は看過できない。私の私室、ならびにルミの身分を完全に私の管理下に置く。これでこの国における『主従の仮面』は完璧なものとなる。新王である貴方が、これに署名すればすべては終わるのです」
「ふざけるなッ!」

アルフレッドが激しく机を叩いた。その碧眼には、王としての、そして兄としての、限界を超えた憤怒が爆発していた。

「独立治外法権だと!? 王宮の中に、私の命令すら届かないお前の『王国』を作れというのか! ルミくんを溺愛するのは勝手だ、だが一国の王族として、法を完全に無視した特権を認めるわけにはいかない! そんな不条理を許せば、せっかくお前が粛清した貴族たちへの示しがつかなくなる!」
「示しなど、恐怖で縛ればいいと言っているでしょう!」

アルヴィーノもまた立ち上がり、地を這うような咆哮を上げた。
懐にあるルミの手紙の温もりが、逆に彼の独占欲と執着を狂気的なまでに加速させていた。

「私はこの二週間、そしてこの十数日間、貴方の『甘い新体制』のために、この無価値な紙屑の山に付き合ってやったのだ! その報酬として、あの子との絶対的な平穏を要求して何が悪い! 貴様が署名しないというのなら、私は今この場で、その首を跳ねてでも、この書類に強制的に血のサインをさせますが!?」
「やってみろ、魔王ッ!!」

アルフレッドの全身から、眩いばかりの、しかし刺すような光属性の魔力が爆発的に吹き荒れた。
治癒の力を攻撃へと転換し、室内の空気を歪ませるほどの高密度な光の奔流が、アルヴィーノへと牙を剥く。

「お前はいつもそうだ! 自分の都合、自分の感情、ルミくんのことになれば国すら滅ぼしかねない! 私はお前の兄だ! お前が道を踏み外さないよう、手綱を握ると決めた! 王としての権威を、お前の私欲のために切り売りするつもりは毛頭ない!!」
「黙れ、アルフレッド……ッ!!」

アルヴィーノの紫の瞳が完全な殺意に染まり、無詠唱で極大魔法の構築が始まる。
漆黒の雷撃と、空間を引き裂く真空の刃が、アルフレッドの光の障壁と真っ向から衝突した。

ドゴォン!! と、これまでとは比較にならない凄まじい大爆発が執務室の中で巻き起こる。
長年、王宮を支えてきた強固な防壁魔法が悲鳴を上げ、二重の重厚な扉に深い亀裂が入った。回廊で警備していた兵士たちが、その凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、床に転がる。

「ひ、兵長……! 中で、二人が殺し合っています……!!」
「……入るな! 入れば死ぬぞ!!」

室内の調度品はすべて粉々に砕け散り、机の破片が宙を舞う。
しかし、その凄まじい暴風の渦中にあっても、アルヴィーノとアルフレッドは、互いの襟元を掴み合い、魔力だけでなく、肉体そのもので殴り合っていた。

「貴様さえ……貴様さえ認めれば、私はルミの元へ帰れるのだ!!」

アルヴィーノの拳が、アルフレッドの頬を激しく殴りつける。
軍師としての冷静さは完全に消失し、ただ一人の男としての、醜悪なまでの執着が牙を剥いていた。

「認めない……! 私は、王だ……! お前の暴走を止める、唯一の兄だ……ッ!!」

アルフレッドもまた、血を吐きながらアルヴィーノの胸ぐらを掴み返し、その顔面に拳を叩き込んだ。
善性100%だった男が、泥に塗れ、血を流し、実の弟と本気の殺し合いを演じている。

最後の一枚。
それさえ終われば、すべてが解決するはずだったその紙切れを巡り、二人の王子は互いの意地と矜持、そして限界に達した精神のすべてを爆発させ、荒れ果てた部屋の中で、獣のようにもつれ合い、大喧嘩を続けるのだった。
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