【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を

新王の執務室へと続く、長く薄暗い回廊。
そこに佇む近衛兵たちの身体は、数日前から極限の緊張によって完全に硬直していた。

彼らに与えられた任務は単純明快であり、同時に、この世のいかなる過酷な戦場よりも精神を摩耗させるものだった。

――『第二王子の退室を阻み、何びとも室内に近付けるな』。

重厚な二重扉の前に不動の姿勢で立つ二人の近衛兵、そして回廊の要所に配された警戒兵たちは、一週間以上もの間、交代の時間すら恐怖に震えながら過ごしていた。

ガチャン、と不定期に内側から響く、鈍い金属音。それは、最高位の魔術師たちが放つ魔圧の余波が、室内の調度品を破壊している音だった。

「……また、始まったな」

回廊の影で息を潜めるベテランの兵長が、兜の奥で冷や汗をにじませ、隣の若い兵士に低く囁いた。
その声は、万が一にも扉の向こうに届かぬよう、信じがたいほどの小声だった。
扉の隙間から漏れ出てくる空気は、もはや通常の王宮のそれではない。
全属性の攻撃魔法を無詠唱で操り、周辺各国から「魔王」と恐れられる第二王子アルヴィーノ。そ
して、光属性の加護を纏い、新王としての冷徹な覚悟を固めた第一王子アルフレッド。
二人の超常的な魔力が狭い密室で衝突するたび、回廊の石壁からは、じわじわと凍てつくような冷気と、肌を焼くような微細な電撃の残滓が伝わってくる。
兵士たちにとって、その空間の前に立ち続けることは、装填された魔導砲の砲口を凝視し続けるに等しかった。

「兵長……中の二人は、本当に人間なのですか」

若い近衛兵が、震える手で槍を握り直しながら呟いた。

「先ほどから、防壁魔法が軋むような音が響いています。まるで、この世の終わりだ。……あの『慈悲なき軍師』が、なぜこれほど長い間、一歩も外に出ずに耐えているのか、私には理解できません。力ずくで扉を破壊し、すべてを塵に帰すことなど、あのお方には容易い一仕事のはずだ」
「口を慎め」

兵長は鋭い視線で若者を制した。だが、その胸中にある恐怖は、若者以上のものだった。

「アルヴィーノ殿下がその暴挙に出ないのは、出られない理由があるからだ。新王陛下が、あの御方の『唯一の首輪』の所在を握っておられる。……我々が守っているのは、ただの木と鉄の扉ではない。この国の均衡そのものだ。もし、殿下が理性を失ってあの鍵を内側から吹き飛ばせば、その瞬間にこの城は更地になる」

王宮の兵士たちの間では、すでにいくつかの噂が恐怖と共に囁かれていた。
代理国王期間中の凄惨な粛清。
無能な者、不正を働いた者を「駒」として容赦なく切り捨てたアルヴィーノの冷酷さ。
そして今、その戦後処理という膨大な「泥沼」に、二人の王子が引きずり込まれている。
言葉による激しい論争、そして時には、壁一枚隔てたこちら側まで衝撃が伝わるほどの、凄まじい武力闘争。
だが、どれほど室内で破壊の音が響こうとも、数刻経てば、再びカリカリと羊皮紙を引っ掻く不快な音が、呪詛のように再開されるのだ。

兵士たちにとって最悪なのは、その「終わりが見えない」という点だった。

朝が来ても、夜が更けても、扉が開く気配はない。
時折、最低限の食事を運ぶ給仕の者が、死刑台に向かう罪人のような顔で扉の前に立つ。
近衛兵が厳重な施錠を一時的に解き、ほんの数寸だけ扉を開ける瞬間、室内の「空気」が回廊へ溢れ出す。
それは、寝不足と、互いへの憎悪、そして極限のイライラによって発酵した、濃度100%の殺気だった。
給仕の手は目に見えて震え、盆の上の水差しがカチカチと音を立てる。
中から聞こえるのは、低く、完全に温度を失った二人の声。

『……この文面は認めない。やり直せ、アルヴィーノ』
『……貴方のその無能な妥協案に付き合う時間は、一秒たりともないと言っているだろう、陛下』

すぐに扉は閉められ、再び重々しい錠が下りる。
その短い交差のたびに、警備の兵士たちは己の寿命が縮むのを実感していた。

「私たちは……いつまでこの地獄の門番を続ければいいのでしょう」

若き兵士が、疲弊のあまり弱音を漏らす。
彼らもまた、張り詰めた緊張感の中で数日間を過ごし、精神の限界を迎えていた。

「終わるまでだ。……あの書類の山が、すべて消え去るまで」

兵長は壁に背を預け、冷たい石の感触に耐えながら答えた。
激しい衝突があろうとも、どんなに凄惨な喧嘩が繰り広げられようとも、中の二人は決して作業を止めない。
一人は国を崩壊させないために。
もう一人は王宮の私室で自分を待っている、あの小柄な給仕の少年の元へ、一刻も早く帰るために。

その「執念」がある限り、二人の戦いは終わらない。そして、彼らが終わらせない限り、回廊を護る兵士たちにも、安息の夜は訪れないのだ。

遠くの本宮から響く鐘の音が、また一つ、終わりのない夜の更けたことを告げていた。
近衛兵たちはただ無言で槍を握り締め、己の背後にある、狂気と執念が渦巻く密室の気配に、五感を研ぎ澄まし続けるしかなかった。
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