【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を

――幽閉から、一週間。

執務室の空気はもはや澱みを通り越し、呼吸するだけで肺の奥が灼けるような錯覚を覚えるほどに緊迫していた。
机の上に聳え立つ書類の山は、二人の天才が不眠不休で筆を走らせ続けたにもかかわらず、ようやく「半分」を消化したに過ぎない。
減る兆しの見えない羊皮紙の束は、まるで二人の精神を貪り食うために増殖し続ける異形の怪物のようだった。
最低限の乾パンと水が扉の隙間から差し込まれ、数時間の浅い仮眠だけが許される。
だが、そんな細切れの休息で回復するほど、彼らの疲弊は生易しいものではなかった。

「……あり得ないと言っているだろう、アルヴィーノ」

アルフレッドの声は、掠れ、完全に割れていた。
かつての朗らかな声音の面影は微塵もない。
目の下には色濃い隈が刻まれ、碧眼の光は凍てついた刃のように鋭く尖っている。

「東部領の徴税権を一部とはいえ民間に委託するなど、王権の弱体化を招く。お前が更地にした貴族の穴埋めを急ぐあまり、国家の根幹を揺るがす真似は絶対に認めない。却下だ」
「……ならば、貴方が代わりの案を今すぐ出しなさい、陛下」

アルヴィーノの応えは、地を這うような呪詛に近かった。
少し癖のある紫の髪は乱れ、細く切れ長の深い紫色の瞳は、昏い殺意を隠そうともせずに兄を射抜いている。
一週間、ルミの髪に触れていない。
あの無邪気な声を聞いていない。
あの子のいない空間は、アルヴィーノにとって緩やかな精神の死と同義だった。
ルミが今、自分を待って健気に過ごしているだろうことは想像がつく。
だからこそ、自分の不手際のツケのために、これ以上あの子を一人にさせておくわけにはいかない。焦燥と渇愛が、彼の狂気を限界まで押し上げていた。

「私の案が不服なら、貴方がその無能な頭を絞って二十四時間以内に新たな法案を組み上げればいい。それができないのであれば、私の裁決に従いなさい。これ以上の遅延は、私の忍耐の枠組みを破壊する」
「言葉を慎めと、何度言えば理解する……!」
「黙りなさいッ!」

ドン、と激しい衝撃音が響き、最高級の黒檀で作られた机に亀裂が入った。
アルヴィーノが放った目に見えない魔圧の波動が、室内の調度品を激しくガタガタと震わせる。
一週間におよぶ精神的、肉体的極限状態。
そして、互いの最も嫌悪する急所を突き合う不毛な言論闘争は、ついにその限界点を突破した。
言葉による議論は破綻し、理性の残滓は消え失せた。
残されたのは、生存本能に近い、原始的な「力」による闘争だった。

「……どうしても従わないというのなら、力ずくでその傲慢な首を縦に振らせるまで」

アルヴィーノが立ち上がると同時に、執務室全体の重力が倍加したかのような、圧倒的な魔圧が吹き荒れた。
全属性の攻撃魔法に長け、禁術すら無詠唱で操る「魔王」の真実の力が、狭い室内に解放される。
漆黒の軍服が、立ち上る紫黒の魔力によって激しく翻った。

「兄貴分として、新王として、お前のその歪んだ暴力をここで叩き潰す」

アルフレッドもまた、即座に立ち上がった。
魔力においても純粋な戦闘力においても、弟に勝てないことは百も承知。
しかし、紆余曲折を経て優しさだけでは国を護れないと知った新王には、退けぬ意地があった。
アルフレッドの身体から、眩いばかりの純白の光属性の魔力が弾け出す。
治癒と保護の力を応用し、アルヴィーノが放つ凶悪な圧力を真っ向から押し返した。

ドッ、と空気が爆ぜる音が響き、二人の間に凄まじい衝撃波が走る。

アルヴィーノの指先から、無詠唱で放たれる不可視の烈風の刃。
それがアルフレッドの展開した光の障壁を激しく叩き、火花を散らす。
本来なら城壁をも容易く消し飛ばす一撃を、アルフレッドは己の魔力のすべてを注ぎ込んで防ぎ止める。
防戦一方でありながらも、その碧眼には王としての、そして兄としての狂気的な執念が宿っていた。

密室の中で、二人の最高位の魔術師による、静かで、しかし致命的な戦闘が繰り広げられる。壁の絵画が衝撃で粉々に砕け散り、床の絨毯が焦げ付く。
互いの肌を焼き、血を吐かせるような魔力の鬩ぎ合い。それはまさに、限界を迎えた兄弟による、意地と怨恨のぶつかり合いだった。

どれほどの時間が経っただろうか。
激しい魔力の衝突の末、二人は同時に膝を突いた。

「ハァ、ハァ、……ここまでだ、アルヴィーノ。これ以上やれば、この部屋ごと、処理すべき書類もすべて灰になるぞ……!」

アルフレッドが肩を激しく上下させながら、血の混じった唾を吐き捨てる。
その言葉に、アルヴィーノは荒い息を吐きながら、忌々しげに周囲を見渡した。

――二人がどれほど命を削り、魔力を暴走させて闘争しようとも。
床に散らばり、机の上に鎮座する「書類の山」は、一枚たりとも減ってはいない。
魔法で燃やしてしまえば、それこそ国家の崩壊であり、アルフレッドの脅迫通りルミとの永久の別離を意味する。
どれほど理不尽な暴力を振るおうとも、この紙屑たちだけは、地道にペンで処理していく他ないのだ。

力での闘争すら、この地獄においては何の意味もなさなかった。

「……チッ」

アルヴィーノは乱れた紫の髪を乱暴にかき上げ、倒れた椅子を力任せに引き起こして座った。
その瞳には、深い徒労感と、言葉にできないほどの不服が濁らせている。

「……さっさと、次の書類を出しなさい。……陛下」
「……あぁ、そうさせてもらう」

アルフレッドもまた、震える手で羽ペンを拾い上げ、自身の席に戻った。
荒れ果てた室内。
破壊された調度品の破片が散らばる中、再び、カリカリと羊皮紙を引っ掻く、冷徹で不快な音だけが響き始める。

互いへの憎悪とイライラを極限まで募らせ、時には力で殴り合いながらも、彼らはまた、終わりのない無限地獄の作業へと戻っていく。
最愛の伴侶の元へ帰るため。
そして、新王としての責務を果たすため。
二人の王子は、狂気の一歩手前で踏みとどまりながら、ただ淡々と、終わりのない泥沼を這い回り続けるのだった。
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