【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を

夜明けまでに終わらせる――その傲岸な宣言が、いかに傲慢な机上の空論であったか。
それを思い知らされるのに、さほどの時間は必要なかった。
時計の秒針が刻む重苦しい音だけが、深夜の執務室に響いている。
窓外はとうに深い闇に包まれ、冷徹な静寂が世界を覆っていた。
だが、室内の空気は澱み、摩擦による熱を帯びるように張り詰めている。

「……否決だ」

アルヴィーノの手元から放られた羊皮紙が、乾いた音を立てて机上に滑った。
紫の瞳には、一切の慈悲も、疲労による妥協すらもない。
鋭利な剃刀のような冷徹さで、彼は兄が差し出した決裁書を一蹴した。

「東部国境守備隊の予算補填など、言語道断。彼らが無能ゆえに生じた兵站の不備を、なぜ王室の財政から補填せねばならないのですか。使えない駒は、餓えさせてでも淘汰すべきだ」
「言葉を慎め、アルヴィーノ」

アルフレッドの、低く、しかし芯の通った声がそれを遮る。
彼の碧眼は、連夜の徹夜によって微かに血走っていたが、王としての光を失ってはいなかった。

「彼らが飢えれば、その皺寄せは国境付近の領民にいく。対話も配慮もない切り捨ては、新たな反乱の火種を産むだけだ。私は新王として、自国民の命を不毛な内政の犠牲にするつもりはない。予算は段階的に補填し、同時に監査官を送り込む。これが私の決定だ」
「甘い。反乱を起こす気力すら削ぐのが、統治というものです。貴方のその『善性』が、どれほどの遅延を生んでいるか、自覚しなさい」
「甘いのではない。お前のやり方が、あまりにも血も涙もないだけだ。ここは戦場ではない、アルヴィーノ。お前が更地にした貴族領の戦後処理をしているんだ。お前の壊したものを、私が繋ぎ合わせている。その自覚を持て」

ガチャン、とアルフレッドが羽ペンをインク壺に叩きつけるように戻した。
兄弟でありながら、決定的に相容れない二つの正義。
一方は冷酷なまでに効率と結果を求める「軍師(魔王)」であり、一方は対話と調和を重んじる「新王」である。
本来であれば、水と油のように決して交わることのない二人の思想が、この閉ざされた空間で、逃げ場もなく正面から衝突していた。
夜明けまでに終わるはずだった。
だが、アルヴィーノが「代理国王」の期間に断行した粛清の規模は、あまりにも膨大で、あまりにも根が深すぎた。
一つの領地を潰せば、それに付随する数10の商家が悲鳴を上げ、数100の領民の戸籍が浮く。
それら全ての整合性を取る作業は、まるで砂漠に水を撒き、一粒一粒の砂を数え上げるような、終わりなき無限地獄だった。

――すでに、三日目の夜を迎えている。

施錠された部屋から、二人は一歩も出ていない。
食事は扉の隙間から最低限のものが運び込まれるだけで、アルヴィーノが望むルミとの接触は、完全に断たれていた。
ルミのいない時間は、アルヴィーノにとって精神を蝕む毒でしかなかった。
今頃、あの子はどうしているだろうか。
主のいない私室で、不安に胸を痛めて泣いてはいないだろうか。
それとも、王宮の喧騒の中で、必死に自分の帰りを待っているのだろうか。
手編みの水色のマフラーの感触が、肌恋しい。あの無邪気な声で「アルヴィーノ」と名を呼ばれたい。
その激重な愛と執着が、彼を焦燥させ、イライラを極限まで高めていた。
ルミの元へ帰るための最短ルートがこの書類整理であるにもかかわらず、目の前の「兄」という障害が、いちいち自身の冷徹な裁決に異議を唱え、進行を遅らせてくる。

「……陛下」

アルヴィーノの声は、完全に温度を失っていた。
極大魔法を発動する直前の、大気が軋むような魔圧が室内に満ちていく。

「これ以上の遅延は、私の忍耐の限界を超えます。これほど非効率な作業を続けるくらいなら、この書類に関わる貴族たちを、今すぐ私が一族もろとも『排除』してきましょう。そうすれば、この紙屑はすべて無価値になり、整理する必要もなくなります」
「正気を疑うな、魔王」

アルフレッドは、弟が放つ肌を刺すようなプレッシャーを、真っ向から睨み返した。
かつての、弟の力に怯えていた第一王子ではない。
王としての威厳を纏った彼は、机を両手で激しく叩き、立ち上がった。

「お前がこれ以上暴挙に出るなら、私は今この場で、ルミくんを王都から最も遠い極寒の北方の修道院へ、一級公務として 永久に派遣する命令書を書く。お前が軍師として同行することを一切禁じてな。……私にそれをさせたくないなら、その溢れんばかりの魔力と頭脳を、この書類の精査だけに使いなさい」
「貴様……ッ!」

アルヴィーノの美しい顔が、怒りで歪んだ。
公的な場面での敬称すら投げ捨て、実の兄を殺気交じりの視線で射抜く。
だが、アルフレッドは一歩も引かなかった。胃の腑を焼くようなストレスと寝不足で、彼もまた限界だった。
お互いがお互いの最も嫌がる急所を冷酷に突き合い、淡々と、しかし確実に相手を精神的に削り合っていく。

「……ふん」

冷たい沈黙の後、アルヴィーノは吐き捨てるように息を漏らし、再び別の書類を乱暴にひったくった。

「……南部ルセリア軍の再編成案、却下です。彼らには先日の演習で徹底的な負荷をかけました。今必要なのは再編成ではなく、脱落した無能な兵の即時解雇です」
「却下だ。彼らは過酷な演習に耐え抜いたばかりだ、ここで解雇すれば軍の士気が崩壊する。減給と再訓練に留める」
「甘い。士気など、恐怖と絶対的な規律だけで統治すれば事足ります」
「それはお前のやり方だ。私の国では通用しない。……修正案を書け、アルヴィーノ」
「チッ……」

舌打ちの音が、静かな室内に不快に響く。
お互いに一歩も譲らず、しかし「終わらせる」という目的だけは一致しているがゆえに、作業自体は止まらない。
憎悪に似た苛立ちを羽ペンに込め、鋭い筆跡で羊皮紙を汚していく。
蝋燭の炎が爆ぜ、新たな芯へ取り替えられる。
終わりの見えない書類の山は、依然として机の上に君臨していた。
それはまるで、二人の王族の精神を削り取るために作られた、底なしの沼のようだった。

「……次だ、アルヴィーノ」
「……早く出しなさい、陛下。一秒でも早く、私はここを出る」

互いに視線すら合わせず、ただ冷酷な言葉の応酬と、容赦のない書類の精査だけが続いていく。
王宮の最深部、施錠された密室の中で、二人の天才は互いへのイライラを極限まで募らせながら、終わりのない地獄の底を、淡々と、這い進み続けるのだった。
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